ピケティでもって21世紀の資本は安泰だ


フレデリック・ロルドン(Frédéric Lordon)

[*フランスの経済学者。邦訳書に杉村昌昭訳
『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか?』(作品社)がある]



訳:杉村昌昭


 分厚くて読むのに骨がおれる経済学の本が、アメリカ合衆国、ヨーロッパ、中国などで数十万部も売れるということは、そこに時代の雰囲気がキャッチされていなくてはありえないだろう。不平等の増大に焦点をあてたトマ・ピケティの『21世紀の資本』がそれである。しかし、この本で行なわれている分析や提案には、われわれが経済世界を見るときの視野狭窄が反映してはいないだろうか?[フランス語版編集部]



 トマ・ピケティがいくら世界的名声を得ているとしても、いくつかの政治的問題提起をしないわけにはいかない。もっとはっきり言おう。それは知的欺瞞と政治的欺瞞が不可分に結びついた欺瞞の問題である。そのもっとも確かなしるしは、前例のないメディアの全面的礼賛によって浮き彫りにされている。つまりこれはメディアが絶賛を選択したおよそすべてのものに当てはまることでもあるが、メディアの満場一致の礼賛それ自体がこの著作がまったく無害なものであることを裏返しのかたちで示しているのである。『リベラシオン』、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』、『ル・モンド』、『エクスパンシオン』、『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』等々が、これほどまで混乱をきわめた陶酔ぶりを共有しているありさまを見ると、まるで《世界が根底から変わった》と思わなくてはならなくなるほどである。おそらく独自の下心(およそ進歩主義的ではないとはいえ…)も手伝ってであろうが、アングロサクソン系の金融ジャーナリズムだけが、唯一いくらかの良識を維持している。『フィナンシャル・タイムズ』はまず斜にかまえて統計的論争を仕掛ける。とくに『ブルームバーグ』[経済・金融情報の配信・通信社]は、パロディー仕立てで『サリュ・レ・コパン』[若者向けのミュージック・マガジン]風の星のマークと割れたハートのマークをあしらったヒットパレード風の表紙を発信したが、これは『ル・モンド』と『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』が文字通りまじめくさってやっているグループ・マークをもじったものである。

 ともあれ、カール・マルクスの著作とくに『資本論』を一行も読んだことがないと語り、資本主義についての最低水準の理論も提供せず、資本主義に根底から異議を唱える最小限の政治的企図にも注意を向けずにいながら、大胆にも自らの本を『資本』と命名した著者に「21世紀のマルクス」という名前を与えることは、まったく無意味な思いつきとは言えないが、それをすごい出来事として歓迎することが出来たのは、この本をあらかじめ好意的に受け入れようとしていたジャーナリズムだけであることを認識しなくてはならない(1)

 しかしまた、こうした無分別な賞賛に反発するあまり、この著作の長所を無視することになってもよくはあるまい。この著作の統計的作業の巨大さと良質性に圧倒されなかったコメンテーターはひとりもいない。われわれもそれには同意する。しかし、ピケティの本の主たる長所は、別のところにあることも言っておかねばならないだろう。この本は一般に経済学者がこれまでほとんどやり忘れてきたことを体現している。なぜやり忘れてきたかというと、経済学者たちは、大学関係の刊行物の許容範囲内におさまる15ページを超えない程度の規格化された専門的原稿——意味を失うほど専門化した——を量産することを求められて、それに応えることに汲々としてきたからである。ところが、『21世紀の資本』(2)はというと、15年間にわたって粘り強く行なわれた努力の結果が千ページにもおよぶ著作なのである。ついでに、社会科学の有用性は、政治的議論にしっかりと確立された事実を供給することがきたときに、おそらくはじめて明らかになるものであるということを付言しておこう。

 しかしながら、いくら方法論的美徳があるからといっても、それでもって必ずしも根元的な欺瞞を免れることはできないだろう。この著作の場合、その欺瞞はおそらく「盗まれた手紙」と同じようにタイトル自体に明白に示されているにもかかわらず見過ごされてきたことだと言わねばならない[「盗まれた手紙」はエドガー・アラン・ポーの有名な短編小説。ロルドンはピケティのタイトルの付け方を「隠したいものをあえて隠さない」というトリックと捉えていると思われる]。要するに《資本》というタイトルである。ピケティはわれわれに資本について語ると告げる。そのとき彼は当然ある有名な著作家が彼以前に同じタイトルの本を書いていることを念頭においている。しかしピケティは、そんなことはどうでもいい、自分もこれを採用しようと考えたのだろう。ところが残念ながら、結果として、タイトルはそれなりに重要なのである。たとえばの話、ある本をあえてカントと同じ『純粋理性批判』というタイトルにするとして、薬草についての著作を書くわけにはいかないだろうということである。

 資本とは何か? 『資本論』を「一度もまともに読もうとしたことがない」(3)ピケティは、資本についてもっとも表面的な概念しか与えることができない。つまり世襲財産である。ピケティにとって、資本とは金持ちの資産のことなのだ。マルクスにとっては、資本はそれとはまったく別ものである。それは“生産様式”のこと、つまりある社会的関係である。それは単純な商品経済の貨幣的関係に、賃労働関係が加わった——ここがものごとの核心である——複雑な社会的関係である。この賃労働関係は、生産手段の私的所有と、《自由な労働者》——《自由》とは言っても、自らの物質的存在を“自分の手で”再生産するいっさいの可能性を剥奪された個人であり、したがって労働市場に投げ出され、生き延びるためには“雇用されて”階級的従属関係のなかで経営者の専制に従属せざるをえない存在——の夢幻劇のような法的世界を中心にして構成される。

 資本とはこういうものである。単に『フォーチュン』のような雑誌の長者番付けではない。資本は世襲財産として狭隘に理解されると、富の不平等の卑猥な光景として庶民の感情に影響を及ぼすだけのことになる。しかし生産様式として、そしてとくに賃金をめぐる社会的関係として理解されると、人々にもっとはるかに深い影響を及ぼすものとなる。資本が人間の生そのものを閉じ込めているという従属の実態があぶりだされてくるのである。8時間という労働時間は、人が目覚めている時間の半分である。コンチネンタル、フラリブ、フロランジュ[コンチネンタルは自動車部品メーカー、フラリブはお茶の生産販売企業、フロランジュは製鉄企業アルセロ−ミタルの工場があるフランス北東部の都市で、いずれも深刻な労使紛争が起きたことで知られる]等々の労働者は、おそらくこれ見よがしの金持ちのパレードよりも、資本の金融的価値化を守る非情な法律の下で自らの存在そのものが追いつめら荒廃させられていることに憤怒しているだろう。

 職場で生産性向上のための圧政に耐え収益性を上げるためにへとへとになりながら黙っている人々、社会計画、工場移転、フランステレコム式の組織再編などによって絶えざる脅威にされされている人々、血液までしぼりとられるほどの不安定労働、企業内にあまねくいきわたった暴力的関係を耐え忍んでいる人々にとっても、これは同様だろう。

 不運なことに「21世紀のマルクス」が忘れ去ったこうした従属の形態と強度は、資本主義が現在持つにいたった特殊な歴史的形状にしたがって把握することができる。というのは、実際に存在するのは、“資本主義なるもの”というよりも、資本主義の歴史的所産の継承だからである。そして経済“と政治”が不可分に結びついた連鎖こそが、資本主義の流れを未知の方向に向かってある形状から別の形状へと絶えず再起動させるものにほかならない。しかしピケティは、資本主義の歴史的ダイナミズムのなかに存在する政治的としか言いようのないものを見いだすことを唯一可能にするこうしたパースペクティブには見向きもしない。

 長期的見方への彼の情熱から始めることにしよう。一般に経済学者たちが歴史に対していかに無知であるかを考えると、こうした長期的視点は歓迎すべきことではある。しかしピケティの場合、それは問題なしというわけにはいかない。というのは、たとえば数十年という長期的視点はそれ相応の教訓に富んだパースペクティブを提供するけれども、千年までをも勘定に入れることをためらわない“超長期”的視点は、なんら意味をなさない統計的人工物を再構築することにしかならず、実際上壮大なアナクロニズムにしかならない。それはおそらく純然たる《経済学的思考》の所産とみなすべきものであろう。たとえばそれは「古代から現在までの課税後の収益率と成長率」(原著765ペ−ジ)と題されたグラフをなんら疑問も持たずに平然と提示するというやり方に現れている。これではまるで国内総生産(GDP)とか資本とか課税後の収益率といった諸概念が、古代において——18世紀までと言ってもいいだろう——なんらかの意味を持っていたかのようであるが、これは経済学者特有の誤りとしか言いようがない。つまり、それらの諸概念は歴史的状況から偶発的に生まれたものであり、しかも比較的最近のものであるにもかかわらず、それらの諸概念を普遍的カテゴリーとみなして過去に投射しているのである。行き過ぎもいいところと言うべきか、またアイロニカルな逆説とでも言うべきか、経済学者が歴史家になろうとして警戒心もなしにあまりにも長い歴史のなかに入り込んだために、歴史に対するとてつもない無知、そして自らの研究対象の持つ実際の歴史性に対する無知をさらけだした事例と言えるだろう。

 しかし超長期的視点にともなうのは、粗野なアナクロニズムの不都合だけではない。そこにはまた、数十年という単位で起きた出来事を千年の視点から無意味な変動とみなすことによって、明白な非政治化をもたらすという危険がともなう。というのも、数十年という期間は政治的行動に適切に見合った時間なのであり、人々が自らの生存条件について判断し何かを行なう可能性を考えるのにふさわしい時間だからである。つまり、千年単位の歴史カウンターでは感知できない変動に見合った時間単位なのである。

とんがり帽子の専門家ギルド

 ピケティはとくに20世紀の話をしているのだと反論する向きがあるかもしれない。おそらくそうではあるだろう。しかしピケティは、あらゆる時代の資本主義——彼が「いつの時代にも、人間は…」といった言い回しをする奇妙な資本主義——に《通用する》手段になると彼が信じている普遍的《法則》を20世紀に局所的に適用しているだけである。そして、こういうふうに資本主義の流れを歴史貫通的・不変的な法則に閉じ込めることができると思い描くことはまた、おそらく経済学主義的な思考形態にもっとも特徴的な病理的徴候でもあると言っておこう。くわえて言うなら、ピケティは歴史貫通的・不変的な法則は単に変動によって抑揚がつけられるだけのことだと考えているようだが、そのメカニズムの原理は決してはっきりと明示されることはない。社会的なものの物理学者たることを夢見る経済学者たちは、つねに《法則》の誘惑、経済や資本主義の《法則》の誘惑に屈伏してきた。万有引力の法則が物体が上から下に落下することを保証するのと同じように、経済の法則は事物の秩序に身を擦り寄せなくてはならないと信じようとしてきた。もちろんピケティは、いまでも経済学者という職業世界で広くいきわたっている、これほどの認識論的無邪気さとはいまや一線を画しているだろう。しかし彼がなおガリレオ的誘惑に捕われているということは、そのこと自体、経済学主義と縁を切ろうとする精神のなかにまで残存している経済学的思考形態の底深さを思わせる。それにつけても、経済学主義と縁を切ろうとするのは遅きに失した感があると言わねばならない。いまや歴史的危機がまぎれもなく無効化したとんがり帽子の専門家の同業者組合と連帯を絶つべきときなのである。

 ともあれ、資本主義の歴史を貫通する法則は存在しないのであり、ピケティの著作のなかにおいてもそんなものは存在しない。ピケティの言う《資本主義の根元的法則》は単なる会計的アイデンティティにすぎない。実際に存在するのは、そのときどきの特異性を持った制度的形状によって《順列化》された資本主義の歴史的流れであり、その連続性は大部分が政治的プロセスによるものである。そして、おのおのの制度的形状が、資本——資産ではなく——が労働に課す従属形態についてさまざまな特性をもたらすのである。

 いくら千ページにわたってあきもせず、資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回るとき不平等が増大すると繰り返したところで、おのおのの時期に固有の資本収益率と経済成長率の決定因を提示しないかぎり、何も説明したことにならない。ところで、おのおのの時期はそれなりの決定因を持っていて、それはそれぞれの時期の構造の特殊な動的編成に依存するのである。そしてその動的編成は、政治的闘争の産物、いうならば階級闘争の産物なのである。第二次世界大戦の直後の時期に大きな制度的同調の動きが起きた——その結果資本/労働の力関係が相対的に労働の側に傾くことになった——のは、1936年にその土壌がつくられた[フランスにおける人民戦線政府の誕生を示唆]からであり、1920〜30年代の自由主義者エリートたちが一掃されたからであり、経営者が対独協力を恥じたからであり、フランス共産党支持率が25パーセントに達したからであり、ソ連が資本家に対して一定の敬意を払ったからである。そして力関係が労働の側に傾いた結果、資本に対するコントロールが強化され、株式市場がじり貧になり、国際競争が大きく規制され、経済政策が成長と雇用に向かって方向付けられ、恒常的に通貨切り下げが行なわれるようになった。こうしたことが5パーセントの成長率をもたらし、資本をいくらか節度のあるものに引き戻した(力でもって)のである。

 ところがピケティは、《制度と政治》を繰り返し喚起するにもかかわらず、こうした実際に起きた制度的・政治的歴史をなんら見ようとしない。彼はそれに取って代えて、戦争の影響や、さらにはもっと関係の希薄な脱植民地化といったなんとも言いようのない外因性の影響を持ち出して、それが資本(資産)を破壊しカウンターをゼロに(向かって)引き戻したとするのである。この本で言及される戦争や植民地の明け渡しのなかをいくらかきわけて探しても、社会闘争やゼネスト、資本と労働の抗争、そしてその制度的帰結はまったく出てこない。

 実際のところ、ピケティによると資本主義に歴史はないのである。資本主義は千年にわたる不変の法則にほかならず、偶発的出来事によって一時的に混乱しても、その長期的持続性——堅固な流れ——を不可避的に取り戻すものだという。そうした捉え方のなかには、抗争する社会的諸集団つまり制度的変化の実質的原動力にとって、もはやいかなる場所も存在しない。

 しかしながら、資本主義の分岐を決するのはこうした抗争の成り行きにほかならない。そしてこうした抗争がある意味で戦後に決定力を持ったように、1970年代以降、また別の意味で決定力を持つことになった。しかしピケティの著作のなかには、ある時期所有が減少したために、再び以前のように所有をしようと思った資本家たちによる政治的・イデオロギー的レコンキスタについて一言も触れられていない。そのレコンキスタは、たとえば1970年代のアメリカの保守派の“ロールバック・アジェンダ”のイメージに似ているが、歴史を《巻き戻し》、つねに制度的獲得物として体現されてきた社会的獲得物をたたき潰そうという明瞭な意図をともなっていた。

 要するに、誰が制度や構造を左右する力を持っているかということが決定的な問題なのである。誰が制度や構造をつくり、あるいはあるやり方でつくり直す力を持つのかということである。こうした政治的問題は、いっさいの具体的対立関係への言及が絶望的なまでに欠如したこの本のなかにまったく顔を現わさない。1980年代の金融規制撤廃——これが企業をかつてないほど株主による拘束に従属させたことは周知の事実——の分析はどこにあるというのか? 当時の社会党政府が果たした中心的役割の歴史、《左派》と右派がないまぜになった政治的・経済的エリート層による経営改革の歴史への言及はどこにあるというのか。1984年を起点としたヨーロッパ連合構築にともなう歯止めなき自由主義的偏向の物語、《とどまることのない自由競争》つまり先進的社会モデルを破壊するきわめつけの機械の物語は、どこにあるというのか。生き生きとした経済政策の活動の余地をいっさい奪い去る凶悪な条約の物語は、どこにあるというのか。これらの事態が天から降ってきたと信じないのなら、それは人間の手よってなされたということ、しかもどこの誰と特定しうる人間たちの手によってなされたことであるということに気づかねばならない。

 社会集団としての資本が戦後譲り渡したすべてのものを資本は再び手にしたのである。かくして資本は、資本にすべてを引き渡そうと決めたソルフェリーノ通り[フランス社会党本部がある通り]の補充兵のかつて例を見ないほどの奉仕に後押しされて、その特権を倦むことなく追求し続けるところとなる。マクロ経済学的な抽象化の霧のなかにとどまり続け、資本収益率が経済成長率を上回る(r>g)という不等式を馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すのもいいだろう。しかし、これでなにかものごとが解明できたなどと思わないことだ。ましてや、自分も《真の科学》に参加することができるかのごとく夢中になっているジャーナリストのように、これで《理論的突破口》が切り開かれたなどとはなおのこと思わないことだ。

ごまかしの戦略

 私が上で述べたこのような物語のつながりをピケティはほとんど見いだすことができなかった。なぜなら、彼のこれまでの知的軌跡にはそのような準備がいっさい欠落していたからである。つまり社会民主主義の機構的経済学者の立場から21世紀のマルクスに移行するのは容易ではないということである。ピケティは、ロザンヴァロン一門の直系であり、また2007年の社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル女史の大統領選挙キャンペーンの経済顧問として、《新哲学派(ヌーヴォー・フィロソーフ)》という名称で知られる道化者たちに取って代わるべく呼び寄せられた《代替知識人》としてメディアが喧伝した専門家たちのひとりである。時代(1990年代末)は、もはや打ち解けてのびのびと議論する作風が廃れて,生真面目に折り目正しい議論をする作風が重視される方向に向かっていた。つまり数字であり科学であり、なによりもイデオロギー論争は御法度であった。唯一のイデオロギーは、当然のことながら、資本にとって予定調和的に好都合に働くグローバリゼーションのイデオロギーであり、そこにいくらか不完全なところがあっても《われわれ専門家がそのためにいる》のだから反逆しないのが正しい、ということを説明するためにしつらえられたロザンヴァロン流の回りくどく曖昧な手管が主流となっていた。社会党の知的教化のために申し分なく用意された専門出版社、思想の共和国が、この居心地のいいサークルから社会党を遠ざけるようなことはなにひとつ持ち出さないように専心した。むろん、以前から不平等の問題の検討はなされていて、ときには労働にまつわる苦悩に熱い涙を流すこともあっただろう。しかしそれは、テクノロジーの遅れ(テクノロジーは急速に前進する)、教育の欠如(教育されることは重要である)、大学における研究成果の停滞(研究成果は言うまでもなく重要である)などを断罪するためであった。では、自由貿易とそれがもたらす破壊についてはどうだったのか? それへの言及は見たことがない。また、株主利潤(企業が生み出す)の専横についてはどうだったのか? 聞いたことがない(4)。さらに、自由主義の最終段階としてのヨーロッパ(連合)についてはどうだったのか。それは宿命として片づけられていた。かくして、思想の共和国路線は一貫して回避の戦略であると要約することができる。くわえて言うなら、ごまかしの戦略である。この勤勉サークルにおいては、メディアにおける評判や影響力を維持するために、まともな話はついぞ語られることがなかったのである。

 やがてどたばた劇が起きる。2007年の金融危機。2010年のヨーロッパ危機の始まり。押し殺されていたものが荒々しく回帰してくる。死に体に陥りたくなかったら、そのことについて言及しなくてはならない。しかし、彼らにはもともとそうした仕込みがないので、そう一朝一夕にはいかない。反射能力が欠如していて、盲点に目が眩み(見えるところもなくはなかったのだが、ほとんどといっていいほど見えなかった)、なかなか言葉を口にできない。グローバリゼーションはまた金融のグローバリゼーションでもあったのに、彼らは決してそれに関心を持とうとしなかったからである。しかしここにきて、すべてがバラ色というわけではないことを認識せざるをえなくなる。驚いたことに、経済学者ダニエル・コーエンとピケティは、数十年間もまったく沈黙していたあと、いまになって突然気がついたのか、ヨーロッパ通貨の構築は「当初から欠陥があった」(5)と、われわれに通告したのである。《専門家》はディーゼルエンジンで走らねばならず、予熱の時間が必要であるということなのか。

 しかし、この時期遅れの修正からいったい何が出てくるのだろう? たいしたことではあるまい。長年かかってできた知的な——そして政治的でもある——皺は簡単には消えない。ピケティの「資本論」にはその皺がいっぱいついている。まずフォーディズムがつくられ、ついでそれが解体されて新自由主義につくりかえられたという政治的・社会的歴史を説明できないところに、それは十分に示されている。しかし、この本の最後の部分が、ためらいもなく《資本を規制する》と自称しているところに、それがもっと赤裸々に表わされている。これは21世紀のマルクスのくわだてであると言いたければ言うこともできようが、そこには時代の病が期せずして刻印されていると言わねばなるまい。

 多くのことを放棄するというこのような回避戦略の論理的帰結として、唯一残されたテコとしての税制が登場する。ものごとを少しばかり手荒に言うと、構造を変革することを放棄すると、雑巾がけをせざるをえなくなるということである。これは社会民主主義的な雑巾がけであり、ことの原因に手を触れないまま、とにかく結果だけ緩和しようというやり方である。ピケティは、時間が切迫しているということと、根本的にはなにひとつ混乱させたくないという欲望とのあいだで引き裂かれながら、税金が現存する方法のどれよりも——なんと国際金融を規制するという方法よりも(原著840ページ)!——すぐれた効果を発揮することを願望するのである。しかし、税金が自由化された金融の“構造”への立ち入り検査による大規模な打撃に取って代わることができるなどとは、とうてい考えられない。どんな税金が銀行の分離に取って代わることができるだろうか? あるいは、いくつかの市場の閉鎖に取って代わることができるだろうか? はたまた、証券化の廃止に取って代わることができるだろうか? かりにピケティがこうした角度からものごとに向き合おうとしたら、脱金融化の飛地をつくって、たとえば資本の移動の完全な自由に厳しい制限を設けるといったような、それにふさわしい保護政策をとることに同意しなくてはなるまい。しかしピケティにとって、それはやりすぎなのだ。ピケティは自らの反ナショナリストとしての信用に傷がつくことを恐れて、フランスのケースについて検討するとき腰がひけるのである(原著59ぺージ)!

 この居心地のいい学者サークルは、その暗黙の特性にしたがって、決定的にジャック・アタリ主義に踏み出す。すなわち、たしかにグローバル化された資本主義にはうまくいかないところもあるが、われわれが解決策——これまた必然的にグローバル化された解決策——を見つけてあげよう。民衆よ、もう少しの我慢だ(!)、というわけである。解決のグローバリゼーションがもうすぐ到来する、《社会主義》フランスは金融取り引きに対するヨーロッパ規模のほとんど無意味な課税をやめさせようとしているが、資本に対する世界的規模の課税は前進している、というのだ。そして、世界的課税か《国家的引きこもり》かという二者択一(原著752ページ)に至るために、膨大なページが費やされる。誠実な読者はイバラの道から抜け出せなくなり軽い衰弱感に襲われる。

 ピケティを信じてまじめに向き合った読者は、いささか純真にすぎたのだが、これはいたしかたのないことだ。メディアが、この機をもっけのさいわいと捉えて今風のサンタクロースを読者に売り込むために、このブランドの中身を明示することを念入りに省いたからである。そして読者はそのメディア仕立てのブランドをそのまま信じ込んだというわけである。しかし、なかには事情によく通じている——通じていなくてはならない——多くの人々がいたはずで、彼らがこの術策に与したことは驚くべきことである。このブランドの中味のなんたるかに気がつくには、なにもこの本をそんなに先まで読み進む必要はない。ピケティは早くも次のように言っているからだ。「私は怠惰で決まりきったことしか言わない反資本主義的言説に対して永久になくならない免疫を保有している」(原著62ページ)。これはマルクスかもしれないが、ただしヒゲのないマルクスだ。しかも、毛も生えていないつるつるのマルクスだ。

 しかしこのマルクスは鬘には頼る。だからピケティは、アメリカの市場が彼を受け入れやすくするために行なった宣伝インタビューのなかで、自分は《絶対に》マルクス主義者ではないことを神にかけて誓うのだが(6)、フランスに戻ってくると、アラン・バディウを前にして、自分も「共産主義思想の発展に寄与したい」とためらいなく平然と宣言する(7)」。こうしたすべてがすんなりとすすんでいく。2014年12月22日、ピケティは再び「市場の力への信頼」を断言し、ポデモスやシリザといった「ヨーロッパにおける極左翼の新たな運動」に苦言を呈する(8)。しかし2015年1月12日(!)、彼はパブロ・イグレシアス[ポデモスの指導者]の助言者となる。なぜなら彼は、今度は「反緊縮を唱える諸党の台頭はヨーロッパにとっていいニュースである」と考えるからである(9)。2月7日、《オンネパクシェ》というローラン・リュキエ司会のテレビ番組[毎回ゲストを呼んで討論する《フランス2》のバラエティー番組]は、仲間内的な雰囲気のせいで、ピケティが左派の経済学者か右派の経済学者かを彼自身の口から言わせることができなかった。ともあれ、知的一貫性が欠如していても、リアルタイムで世論の流れに寄り添い、交通整理を最大限行なって、できるかぎり広い層の聴衆に身をすり寄せていく修正主義的日和見主義が称賛されるということである。

構造を変革すること

 こういった趨勢のなかで彼らが付帯現象を培養する技術も見過ごせない。なぜならピケティ作戦はどこに行き着くかというと、不平等が存在するという共通感情の科学的公認(これはこれで意味のないことではない)にとどまらず、このテーマが“資本主義についての”議論の全空間を占めることにもなってくるからである。しかも、このテーマはすでに十分な広がりを見せていた。『エコノミスト』すら、数年前からこの問題に関する論説や資料を提示し、この問題は状況診断をするときのもっとも軟弱な環、つまり実際には資本主義に対するもっとも害のない諸批判の合流点になろうとしている。要するにすべてが“貨幣的”不平等のなかに収斂されてしまうのである。それは資本主義のもたらす他のさまざまな不平等——それらは偶然的なものではなく、まったく根元的なものであり、実際上社会構成的なものである——を黙殺してやりすごすことを可能にする。賃労働関係のなかにおける位階序列的従属というまさしく政治的な不平等、企業のなかで命令する者と服従する者を生み出す原初的不平等、こういったことに対して、いかなる租税も——たとえ世界的規模の租税であろうとも——なすすべがないだろう。

 結局のところ、営利をもとにした所有による生の支配、ベルナール・フリオ(10)を借用して言えば、雇用を盾にとった脅しによる人間の生の支配の問題に行き着くこの不平等の問題を提起することは、資本の問題、まさしくマルクスの問題、真の問題を提起するということである。それは少なくとも、資本主義の現在的形状の問題であり、世界的規模の税金——しかも確実に日の目を見ることはない——などでは、どうしようもない問題なのである。唯一、本源的な性質を持った闘争の再開、ひとつの国あるいは複数の国々における——政治的状況に応じた可能性にしたがった——民衆的主権の確立だけが、なにごとかをなしえるだろう。資本が社会全体を人質にすることを許している力関係を“構造の変革によって”解体するしかないのである(11)

 ピケティによる富の不平等の批判には、こういった視点はいっさいに含まれていない。ピケティの批判は、富の所有の最上位にある1パーセントあるいは0・1パーセントの卑劣な分子を排した調和のとれた社会ヴィジョンを好ましいものとして提起するだけである。それはあたかも残りの99・9パーセントが成果に応じた賃金によってしかるべきかたちで統合されているかのごときイメージである。しかし彼らは彼らのおのおのがおかれた状況の違いと結びついたあらゆる紛争に巻き込まれ、のみならず企業の位階秩序の連鎖に沿って広がった新自由主義暴力にさらされているのである。そしてこうしたすべてのことは、現代資本主義の特殊な構造の君臨によっていやまして強化されている。この構造は、おのれ自身のあり方とおのれの利益に完全に自覚的なひとつの階級によって執拗に定着しているのである。にもかかわらず、勤勉学者サークルは《資本の理論》をつくると自称しながら、こういった現象に対してなんら手を触れようとしないのだ。

 最悪なのは、ピケティの本に明白に示されているある種の社会哲学である。すなわち、成果は労働のたまものだが、企業活動によって得られた企業家の富はその富で金利を利用した蓄財活動をしないかぎり善である、というものだ。ピケティは言う。「あらゆる富は部分的に正当化されるものであり、潜在的に過剰になるものである」(原著709ページ)。これは実際のところ、上流社会におよそ脅威を与えない言い回しであると言わねばならない。株主の統制下にあり、誰もだまさないというだまし方に精通したメディアは、この点ピケティをよくわかっている。平和の普及、資本と労働の和平、99・9パーセントの平和、《世界的統治》による平和といったものを希求するピケティは、結局のところ《制度》や《政治》や《紛争》について申し訳程度に言及するだけで、最後に、われわれに向かって預言者的ヴィジョンを提示する。「1917年から1989年の時代の二極対立的闘争は、いまやはっきりと過ぎ去ったのである」(原著949ページ)。資本主義の歴史的危機が、とうとう資本主義を厄介払いしなくてはならないという考えを改めて今日的な知的課題に押し上げつつあるこの時代に、こういう託宣を述べているのである。なんというお粗末な予知能力であることか! なんという鈍感な時代感覚であることか! ピケティにとっては安堵感が大事であって、したがって深刻な問題は何もないのだ。最後に、せめてマルティーヌ・オブリー女史[フランス社会党の左派を代表する女性政治家]の選挙キャンペーンに向かって前進せよ、とでも激励しておこうか。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年4月号)