イスラーム恐怖症、あるいは下層階級恐怖症


ブノワ・ブレヴィル(Benoît Bréville)

ジャーナリスト

訳:川端聡子、土田修



不平等な「表現の自由」

 シャーリー・エブド社とイペール・カシェール(ユダヤ食品スーパー)で襲撃事件があった翌日のことである。一部の中学生が犠牲者への黙祷を拒否する、という事態が発生した。彼らはフランスに「表現の自由」のダブル・スタンダードが存在するということを持ち出し、黙祷を拒否したのだった。なぜ今回の殺人行為がこれほど話題となるのか? 中東の人々が命を奪われても報道されないではないか。なぜシャーリー・エブドがイスラームの聖なる象徴を罵倒しても許されるのか? ユダヤ人を批判したコメディアンのデュードネは、公演禁止の措置を受けたというのに……。事態を重く見た教育省が動き出し、1月15日、ナジャ・ヴァロー=ベルカセム教育相は、こうした反抗的な生徒に対処すべく教員訓練を実施する意向を表明した。

 ベルカセム氏の言う教員訓練が、ムハンマドの風刺画が問題となって以降主要メディアや各政党が展開してきた論理を踏襲したものになるのは間違いない。「イスラーム信者にすれば冒涜的と思える風刺画と、反ユダヤ発言を同列に語ることは当然ながらできない。なぜなら、反ユダヤ発言は個人の名誉毀損という一種の犯罪に当たるからである」という論理だ。だが、この説明ですべての反抗的な生徒を納得させることは、おそらく不可能だろう。つまり、デュードネと風刺画、この二つの件が問題の本質を見えにくくしている。アラン・フィンケルクロート、エリック・ゼムール、フィリップ・テソンといったコラムニストや知識人、さらにはル・ポワン、レクスプレス、ヴァリュール・アクチュエル、フィガロ等の新聞諸誌までが反イスラーム路線を掲げている状況が、関係者の対立を深めてしまうのだ。たとえばイスラーム教徒について、反動的宗教の信者だと表現したり、アトランティコ・フランス(右翼系インターネット・ニュース・サイト)に至っては、実施した調査結果で「わがフランスの価値観を脅かすもの」と表現している。こうした言葉がイスーラム以外の宗教に向けられるとは考えにくい。民族学者のジャン=ルー・アムセールは以下のように述べる。「デュードネの人気は(話題になっているのだから彼にとっては人気といえる)ある事実に支えられている。つまり、黒人やアラブ人、ムスリムたちを『下等民』呼ばわりしてもほとんどお咎めなしだ。(中略)だが、ユダヤ人に髪の毛一本でも触れれば、あるいはイスラエルを非難するようなことがあれば、間髪入れずに「反ユダヤ主義」との批判が飛んでくるという事実である」(1)

 上記のような「表現の自由」における不平等には、さまざまな解釈がある。ある者は、自己防衛のため、ホロコーストや、昔からフランス社会にある反ユダヤ主義に常に警鐘を鳴らさなければならないことを理由に正当化する。ある者は、植民地時代からしみついた「イスラーム嫌悪」という考え方によって、イスラーム教徒を侮辱するようなコメントをしても一向に構わないと考えている。また、偏った「表現の自由」はユダヤ人によるマスメディア・政治の独占の証拠だとの仮説を立てるユダヤ陰謀説論者もいる。いわゆる「ユダヤ・ロビー」が、イスラームへの憎しみを利用して欧米によるアラブ世界への介入を正当化し、最終的にはイスラエルやアメリカに都合のいい筋書きを作ろうとしているというのである。この種の説は、アラン・ソラールやティエリー・メサンのサイトを通じ、よく知られるところとなった。左派陣営の衰退によってカバーされなくなった論理的・政治的な空白を埋めるようにして、ユダヤ陰謀説は人々に浸透している。

 これらの「表現の自由」における不平等の解釈はそれぞれ異なってはいるものの、共通して民族文化的アプローチに立脚している。ユダヤ人、イスラーム教徒、アラブ人といった出自や宗教により、各人が所属する社会グループを定義することを基本としているのだ。だが、問題になっているダブル・スタンダードは差別的なスピーチに関する問題であり、まったく別方向からの、主として社会学的見地からの理解が必要である。ユダヤ人がフランスに入植したのは、はるか西暦の始まりのことである。19世紀末から第二次世界大戦初めにかけては東ヨーロッパにおける虐殺とナチスの台頭から逃れ、多くのユダヤ人がフランスに亡命した。第一次世界大戦終結後から第二次世界大戦開戦にかけてはユダヤ人の工員や職人、小売商らがフランスに移り住んだ。彼らはたいてい場末や貧しい地区に暮らし、隣近所のフランス人から差別を受けていざこざを起こすこともあった。多くの難民たちがそうであるように、彼らは自国で平均より高い水準の教育を受けていた(アフガニスタンやシリア、アフリカからの難民たちも同様である)。そして1945年の第二次世界対戦終結後、北アフリカ諸国の独立によって今度は北アフリカに代々暮らしてきたユダヤ人の集団移住が発生した。数十年の歳月とともに彼らの子孫の一部は出世し、今日では、特にジャーナリズムや政界、大学などの高等教育分野において要職を占めるまでになった。公論を作り出したり、方向性を決めたり、その指標を示すほどの存在となったのである。

 第二次大戦が終結すると、フランスはイスラーム圏からより多くの移民を受け入れた。特に60年代初頭、マグレブやサブサハラから多くの移民が体力を買われて製造工場での仕事に就いた。経済危機のなか、大量失業と高まる雇用不安に打撃を受けた社会で育った彼らの子や孫は、その最初の犠牲者である。彼らが出世できるチャンスは、ほんのわずかだ。中流階級や上流と言っていい階級に属することのできた者も一部にはいるが、世界的に見れば最富裕層に属する者は少数だ(2)。在仏外国人やフランス国籍のムスリムたちは、メディアや政治リーダーからの攻撃に常にさらされても公論の場において身を守る術をもたない。それゆえ人種差別的なコメントに歯止めがかからない。もっとも、ロマ人というヘイト・スピーチに抵抗する手段に一番乏しいグループは、ムスリムたち以上に過酷な攻撃の的になっている。たとえば、彼らの存在は「臭くて目障りだ」というジャン=マリー・ルペンの発言から、「大半のロマはフランスにとどまるべきではない。自国に戻るのが妥当である」というマニュエル・ヴァルス首相の発言まで枚挙にいとまがない。

 現在のユダヤ人とムスリムとの関係は、あるいくつかの面において、二つの大戦の間にフランスに亡命してきたロシア移民とアルメニア移民との関係と相通じるものがある。ロシア人がフランスに移住してきたのは1905年と1907年、ロシアにおける2度の革命後のことだ。特に1917年のロシア革命の影響でその数は増え、1931年には7万2000人に上った。大部分は、自動車工場の労働者やタクシー運転手として働く貧しい庶民階級だった。しかし、ロシア移民のなかにはフランス語を話すエリートも存在し、彼らは往々にして貴族やブルジョア出身であった。画家、ジャーナリスト、出版関係者、作家として活動する彼らはパリの文化界にうまく溶け込み、20年代の「ロシア・ブーム」を巻き起こした。その恩恵で、ロシア移民グループ全体が「特別待遇」を受けたのである(3)。他の出稼ぎ移民のようなよそ者いじめに遭わずにすんだのだ。

 一方、アルメニア人は1915年の大虐殺後にフランスへやって来た。彼らはもっぱら労働者階級の仕事に就いた。1931年で約1万7000人とそれほど多くはなかったにもかかわらず、たちまち彼らはフランス社会に「同化不能」との評価を下された。「ロシア人がいかにフランス人と異なっていようとも、彼らは通常コミュニケーション可能な文化レベルにあった。だが、アルメニア人とはコミュニケーションをとることすら困難だった」と、30年代からヴィシー政権時代にかけてフランスの移民政策ブレーンだったジョルジュ・モーコは述べている(4)。このように、移民やその子孫は、社会的地位によって社会的権利が守られる度合が違ってくる、ということを強烈に自覚させられる。だがこの30年来、こうした「理解のための鍵」としての社会的分析は次第に用いられなくなった。それよりも出自によって移民問題を検証する文化的分析のほうが好まれるようになったのである。

 転換期となったのは、1977~1984年である。それに先立つ30年ほどの間、マスコミで移民がテーマとなって論じられることは少なかった。住居や雇用、経済について論じる際、外国人についても触れる、そんな程度だったのだ。彼らの立場は30年代とは打って変わり、保守派は外国人労働者の導入を歓迎していた。たとえば、5人のアフリカ系労働者が亡くなった事件について。パリ郊外北部オーベルヴィリエの労働宿舎で暖房の不完全燃焼によって窒息死した外国人労働者に対し、現在のフィガロでは考えられないほど同情的な論調を展開した。「誰が不幸な移住者の健康に注意を払うのか。彼らは排水溝が凍るときも道路を掃き、結核に冒されまい、あるいは一酸化炭素にやられまいとしているのだ! どれほど惨めな生活か。早急な救済策が必要だ」(5)

 1975年の経済危機とともに状況は変化し、フランソワ・ミッテランの大統領就任後さらに大きく変化した。3年のうちに「移民労働者」の問題は「アラブ人」と「移民二世」の問題へと移り、そしてイスラーム教徒問題にスライドした。以降、かつて社会学に沿って分析されたさまざまな出来事は民族的偏見をもって検証されるようになったのである。

イスラーム問題へのすり替え

 1981年7月、リヨン郊外ヴェニシユのマンゲット地区で若者たちが警察と衝突した(6)。1976、79年にも同様の騒ぎがあったが、その当時は地方紙が「三面記事」扱いで伝えていた。だが1981年の衝突の際は、野党勢力となった右派が、不法移民約10万人にビザを発行したばかりのミッテラン内閣を弱体化させるため事件を利用した。右派はこれらの衝突を社会問題にすり替えた。外観も人間関係も荒廃した集合住宅や、ブルーカラーの需要激減や慢性的失業状態のなかで若者たちが感じた落胆の表れであるにもかかわらず、「移民問題」だと示唆したのである。1981年7月7日付の記事でフィガロは以下のように伝えている。「マグレブ系移民がひしめき合う地区は緊迫状態となっている。挙動不審人物の国外追放を廃止する政府は、非行少年を奨励している」。以後、フィガロ紙で用いられていく時論を、歴史家のジェラール・ノワリエルは皮肉混じりに「国家安全保障テーマ」と名付けている。フィガロ紙は手を変え品を変え、不法移民へのビザ発行を糾弾した。「わが国を移民の襲来と危険にさらす愚策である」(1981年9月22日付)、「ごろつき集団は(中略)主にマグレブ系移民だ」(1982年7月5日付)、あるいは「我が物顔の移民」がマンゲット地区を支配している(1983年3月22日)。

 移民問題がイスラーム教問題と絡めて語られたようになったのは、1981年秋に自動車製造工場でストライキが起きた時のことである。経済危機でもろに打撃を受けた自動車製造業の従業員は、半数以上が外国人労働者だった。1983~84年、ストはピークに達した。最初は単なる労働闘争として浮上したこのストは、1936年にフランス人民戦線(当時の左派連立政権)が勝利したことで自然発生的に起きたストといくつかの面で違わなかった。にもかかわらず、あたかも文化的衝突であるかのように報じられたのは、労働者たちの要求に「工場内における礼拝室の設置」が含まれていたからだ(70年代、雇用主らは社会的調和の手段として礼拝室設置を奨励していた)(7)。政府やマスコミは、こうした要求をもって労働者側の揚げ足をとり、イランの最高指導者に操作されているとして彼らを非難したのだ。ストに加わる労働者たちは「現実のフランス社会とはほとんど無関係の宗教・政治団体に扇動されている」。1983年1月11日、ピエール・モーロワ首相はこのように述べている。

 フィガロ紙は同様の見解を示した。「フランスでは、外国人の同化能力をあてにしていた。過去には、イタリアやポルトガルの入植地などであったことだ。だがこの前例はもはや通用しない。新移民の文化的出自が乗り越え困難な障害になっている」。ところでポルトガル人は常に世間での評判が良い訳ではなかった。これ見よがしでしかも迷信に凝り固まった彼らの信仰が非難されていた。それは彼らが二つの大戦の間に、「風変わりな民族」と言われるほどイタリア人より統合が難しいと思われていた(8)。それ以前にイタリア人はベルギー人より統合されにくいと考えられていた。

 80年代の左派は右派に同調こそしなかったものの、北アフリカの移民への攻撃に対しては反発した。それは右派の文化主義者たちの主張を逆手にとってマグレブ系移民文化を評価したのだ。前述の活動の中で積極的な役割を果たしてきたリベラシオン紙は1982年9月、アラブ系移民の「コミュニティ」のメンバーが興味を持つと思われる芸術イベントの情報を掲載する「ブール(フランス生まれのアラブ系移民)」というコーナーを始めた。次いでリベラシオン紙は「平等と人種差別のための行進」を積極的に支持した。同紙はそれを「ブールの行進」と名付け、社会党側近による反人種差別団体「SOSラシスム」の設立に手を貸し、平等のための戦いを差別に反対する戦いにすり替えた。ル・モンド紙は「移民第二世代の子どもたちが歌や映画、演劇を独占している」(1983年7月4日)と評した。一方では女性誌マリ・クレールは「ブールのクリーム」(1984年4月)を賞賛した。だがマグレブ系エリート層の文化が正当性を勝ち取る一方、ベースの方は、生活水準が脱工業化に応じて悪化の一途をたどっており、依然として非難の的となっている。

 移民をめぐる議論の中から社会における実際の生活が姿を消すまでに3年もかからなかった。それ以来、外国人とその子孫は彼らの宗教およびコミュニティに絶えず引き戻されているが、それが「土着の」フランス人の間の溝を深めてしまう恐れがある。移民に結びついた課題(人種差別、社会的差別など)は、関係している人々の人種にこだわることで、文化の問題として扱われ始めている。その理由がどうあれ、あらゆる地政学の、社会の、あるいはスポーツの出来事でさえ、アラブ人やイスラーム教徒に由来する大多数の関係者に関するものは、イスラーム、移民、そしてフランス国内での移民とその二世、三世の居場所をめぐる議論を活発にしている。湾岸戦争、「9・11」同時テロ、イスラエルとパレスチナの紛争、郊外での若者と警察の衝突、フランス国家斉唱を避けたアルジェリア系のサッカー選手などだ。

 アラブ人やイスラーム教徒の「コミュニティ」への帰属意識は自然的所与ではない。それは移民を彼らの出自へと立ち帰らせるこうした出来事に応じて作り出されてきたものだ。この点で湾岸戦争(1990-1991)が決定的なきっかけとなった。有志連合の爆撃機がバグダッドに向けて飛び立った時、少数の中学高校の生徒が西洋支配を告発しアラブ世界への連帯を表明した。「サダムはあらゆる排斥の対象になったアラブ人だ。郊外団地にいる私たちと同じように。私たちは常に屈辱を味わっているが、例外的に今度は(サダムによって)守られていると感じている」とある高校生は語った(9)。こうした反応はごく少数であり、即座に移民の子どもたちの忠誠心に関する議論を引き起こした。「何をしようと何と言おうとパリ北部郊外サン=ドニのブールは常にアルジェやチュニスの街角でフランスを罵る仲間の同類だ」とル・フィガロ・マガジン誌は書いた(1991年1月25日号)。その反発として移民の子どもたちは、公然と非難されている自分たちの出自や宗教をはっきりと主張することになる。社会学者のステファヌ・ボーやオリビエ・マスクレによると、この戦争は「マグレブ移民の子どもたちに社会的意識より『人種的』意識を与える上で重要な役割」を果たしたと説明する。それは「『彼ら/われわれ』『西洋人/アラブ人』『フランス人/移民』『金持ち/貧乏人』など多くの対立項として社会をとらえる傾向があるが、彼ら自身が社会において経験してきたさまざまな格下げがそれを促している」(10)

差別の理由は肌の色か貧しさか

 アラブ人や黒人が移民の歴史に新しい問題を提出するという考えは徐々に政治の面にも及んでいる。その議論をめぐって急進左派内で対立がある。具体的にいえば、「ポスト植民地時代」の移民の特異性や「白人」の目にどう映っているのかについて派閥によって考えが異なっている。「植民地出身者の扱いは、植民地だけでなく植民地政策の延長である」と2005年に発表された「フランス共和国の土着民」運動の声明は述べている。「まさしくアラブ人、黒人、イスラーム教徒として旧植民地出身者は差別され非難されている」(11)と運動の創設者の一人、サドリ・キアリは説明する。彼によると、「黒人とアラブ人が対象になり、彼らが植民地化され移民になった人々の末裔として記憶に留めている特有の暴力は、彼ら自身のものでしかない要求を引き出している。それは人種差別に関する要求であり、また彼らの先祖にとって二重の苦しみを撤廃する要求であり、イスラーム教にとって祈祷の場所を確保しスカーフをかぶる権利の要求でもある。実際、彼らの要求は彼らの隣人である白人にとっての要求と同じなのだが、移民の要求は同じレベルの要求として認識されることはない」(12)

 正当な理由(白人の理由やマイノリティの理由)を競わせるようなこうした発言は怪しげな前提に基づいている。すなわち黒人やアラブ人が差別されるのは本来、肌の色によってなのか、貧しさゆえなのか? 若者と警察の衝突の原因となる「風貌検査」の実例は、さまざまな問題の存在を明らかにしている。2007、08年に一人の社会学者がパリの地下鉄の北駅とシャトレ・レアール駅近くで、目立たないように警察のパトロールの後を追った(13)。二人は525回、警察のチェックを吟味したところ、「黒人」や「アラブ人」と識別された人たちが検査を受けるリスクは、白人の6~7.8倍高いことが分かった。だがもう一つほかの条件もまた決定的であることが明らかになった。それは服装上の見かけのことだ。「若者の身なり」、とりわけ「ヒップポップスタイル」の人たちは、「タウンウエア」か「ラフな服装」の人たちより検査を受けるリスクが11.4倍高かった。言い換えると、郊外の若者に人気のジャージとキャップ姿の白人は、スーツにネクタイ姿の黒人よりも警察の取り締まりにさらされるということだ。

 当然ながら、移民とジャージが完全に別々のものというわけではない。というのもジャージを着ている若者の大多数は移民系の若者だからだ。人種差別が加わることによって社会不平等には歯止めがかからなくなるし、この二つの問題を不可分なものにしてしまう。肌の色か庶民階層の服装といった基準にこだわった選択は政治的で戦略的でもあり、フランスの社会的破断を示す定義に起因している。それはフランス社会の破断の本質にかかわるものである。不平等の社会的構成要因を重視することで、マグレブやアフリカ出身の人々自身が特有の問題であるという考えに立ち向かうことができる。それは歴史において行われた集団移住や庶民階層とは全く関係のない問題なのだ。