膨大なデータ集積はデジタルユートピアを生み出すのか?

エフゲニー・モロゾフ(Evgeny Morozov)

ジャーナリスト

訳:土田 修


 2014年、プロクター・アンド・ギャンブル・グループの子会社であるオーラルBが、「ネット接続タイプのバスルーム」の中核商品として、双方向通信機能の付いた歯ブラシを売り出した。無線で携帯電話と接続され、歯磨きがどこまで進行しているか、口腔内のどの辺をもっと丁寧に磨くべきか、液晶スクリーンに刻一刻と映し出すというのがウリだ。正しく力を入れて磨いたか、フロスするのを忘れていないか、舌もきれいにしたか、最後に口腔をもれなくゆすいだか、目に見えるかたちで教えます、というわけだ。

 いや、それだけではない。オーラルBのPRサイトはこんなふうに謳っている。「歯磨きの動きをデータ化します。そのデータはグラフにして表示することもできますし、歯科業界と共有することもできます」(1)。とはいえ、そのデータがどうなるのかという点には議論の余地がある。データを利用できるのは自分だけなのか。歯科業界の手に渡ったり、保険会社に売却されたりすることはないのか。フェイスブックやグーグルが集積してきた情報の一部となるのではないのか。

 歯ブラシやトイレ、冷蔵庫といった身近な家庭用品がネットにつながれ、個人データが記録されるようになれば、それらのデータは金になる。そうした認識が急速に広がると、シリコンバレーの大手企業によるデータ集積という方式への反発が起こるようになってきた。

 それらの企業は、インターネット利用者がお気に入りサイトに残した利用履歴を広範に収集し、自社の事業に利用したり、広告主その他の企業に売り払っている。そして何十億ドルも稼いでいる。なのに当の利用者の方には、ちょっとした無料サービスぐらいの利益しかない。そうした現状に対して批判が起きているわけだが、その批判には奇異なところ、ポピュリズム的なところがある。彼らは言う。独占するなんておかしいじゃないか、多数のミニ企業家たちに任せるべきだ。みながそれぞれ自分のデータを資産として管理して、利益化を図ればいい。歯磨きのデータを歯磨き粉メーカーに、遺伝子情報データを製薬会社に売るとか、自分の位置情報を近所のレストランに渡して、かわりに割り引きしてもらうとか。

 そうした新たな経済モデルが、批評家で企業家のジャロン・ラニエーや、情報科学の研究者で通称サンディことアレックス・ペントランドなど、影響力のある論者によって唱えられている(2)

 彼らは言う。そうした新たな世界では、プライバシーが守られるようになる。各人の私有財産とみなされるようになれば、個人データは整備された法制としかるべき科学技術で保護されるようになり、第三者にかすめとられるのを防ぐことができる。それだけではない。経済的にも豊かな未来が開かれる。どんな奇跡によってか、だって? 「モノのインターネット」によってだ。ぼくたちの一挙手一投を記録し、分析し、そして換金してくれる機器を増やせばいい。ぼくたちがシャワーを浴びながら口ずさんでいる歌の題を知るために、金を払う用意があるという人だって、きっとどこかにいる。そういう人がまだ出てこないのは、バスルームにまだ、ネットに接続された音センサーが付いていないからにすぎない。

 大手企業との対立点は明らかだ。家の中が、グーグルの子会社ネスト製のしゃれたITセンサーだらけになったとする。そこのシャワーで口ずさまれた歌で金儲けするのは、住人ではなくグーグルの方だ。自動運転の乗用車、メガネ型の端末、電子メールなど、様々なところからデータを集積し、そんなユビキタス(遍在)状態がシステム全体の効率を高めるという世界を作り出す、それがグーグルの戦略だ。利用者の側から見れば、システムをうまく活用するには、グーグルのサービスが日常の隅々にまで空気のように浸透した状態でなければならない。これほど膨大なデータの蓄積がグーグルのものになれば、競争相手はいなくなる。規模で劣る競合他社は、そのことをすでに痛感している。となると、それらの企業に残された道は一つしかない。ペントランドとラニエーの呼びかけに続くことだ。データはそもそも利用者のものだと主張するか、利益の少なくとも一部は利用者に配分されるべきだと主張すれば、グーグルの独り勝ちを阻むことができる。

 グーグルとペントランドらの立場は、一見、違っているように見えるが、二つの源には同じイデオロギーがある。ただ、それぞれのベースには異なる学派がある。英国の社会学者であるウィリアム・デイヴィスが言うように(3)、ペントランドとラニエーの描く展望は、ドイツの「オルド自由主義」の伝統と結び付けることができる。そこでは市場競争が道徳的要請としてたてまつられ、独占はなんであれ危険視される。グーグルの側は、道徳よりも経済効率や消費者の利益を打ち出しており、シカゴ学派の新自由主義イデオロギーと合致する。独占は、本質的に有害というわけではなく、場合によっては社会的に有益な役割を果たすこともあるという考え方だ。技術をめぐる両者の目下の論争は、イノベーションを実現するとか、規制秩序をひっくり返すとか謳ってはいるが、以上を押さえるならば、毎度おなじみの限られた枠組みから一歩も出るものではない。要するに、情報を商品とみなしているのであり、自由主義パラダイムの内側にとどまる論争でしかない。

 別な形で情報を考えていくためには、経済の領域から引き剥がす必要がある。急進左翼の一部がよく口にする「コモンズ」として情報をとらえるのも一案だ。だが、その前にまず、人々が情報の商品化を当たり前のように受け入れるのはなぜか、という問いを立ててみたい。その答えは、現代という歴史的な段階において、技術に求められている役割のうちにある。技術は今日、デウス・エクス・マキナ(機械装置の中から出てくる神)として、雇用の創造主のようにみなされている。経済を刺激して、富裕層と多国籍企業の租税回避策が引き起こした財政赤字を補填するのが、技術に課せられた使命となっている。そうした前提の下では、諸国の政治指導者たちにとって、情報を商品とみなさないような立場をとることは、自分の活路を断つに等しい行為となる。

19世紀への回帰

 金融危機に関して鋭い洞察を示した識者でさえも、これほどまでに技術が万能視されている現状を捉えそこねている。その一例が、ドイツの社会学者のウォルフガング・ストリークだ(4)。彼は次のように説いている。大戦後の労使妥協による福祉国家モデルに、崩壊の前兆が現れた1970年代初め、欧米の指導者たちは時間稼ぎと現状維持のため、三つの方策を実行に移した。インフレを促すこと、国家の借金を増やすこと、そして個人の借金を暗に奨励することだ。個人については民間部門が、住宅ローンと消費者金融を拡大するようになった。このような先送り政策の説明のうちに、ストリークは情報技術を加えていない。

 人々がそれぞれ企業家になり、アプリを作るためのプログラミングを自分で習得することが前提となるが、情報技術はたしかに富と雇用の創出につながる。そうした潜在力を国家規模で引き出そうとして、先陣を切ったのが英国政府である。患者データを保険会社に、学生データを携帯電話会社と栄養ドリンク会社に有償で提供しようと企てている(前者については大衆的な抗議によって頓挫した)。もし消費者が自分の個人データを管理する(つまり売る)ことを可能にする仕組みを整備すれば、経済効果は165億ポンド(約2兆8,000億円)にのぼるという。資金の一部をボーダフォンが負担した最近の報告書で挙げられている数字だ(5)。国家の役割は要するに、そうした消費者とサービス事業者の間をつなぐデータ業者のための、法的な枠組みの整備に尽きるという姿勢である。

 国家はこのように、上からの時間稼ぎを図っている。他方、シリコンバレーの新興企業が示す解決策は、下からの時間稼ぎに相当する。これらの企業にしてみれば、個人の自家用車をタクシーに変えるウーバー社や、個人の部屋を宿泊施設に変えるエアビーアンドビーのようなサービスは、超優良な事業である。旧式のアナログ資産を、利益を生み出す新型のデジタル資産に変身させる。自家用車や部屋の持ち主の副収入源につなげる、という目的に見事に適う。エアビーアンドビーのブライアン・チェスキー社長の言葉は象徴的だ。「失業と経済的不平等は記録的な水準にある。しかし、われわれの足下には金鉱がある(……)。われわれはこれまでに、自前でコンテンツを作りだした。さらに今では、誰もが自前で雇用を創出できるようになっている。自前で産業部門を創出することだってできるだろう(6)

 シリコンバレーは例によって、コモンズを意識したカウンターカルチャー的な言い方を繰り出して、ウーバーやエアビーアンドビーを新たな「シェアリング経済」の担い手として持ち上げる。それはつまり、無政府主義者やリバタリアンが夢見てきたユートピア、中間業者を飛ばして個人が相互に直接取引するような世界である(7)。しかし現実的に見れば、タクシー会社のようなアナログ仲介業者が、無政府主義で知られるゴールドマン・サックスの出資を受けたウーバーのような、デジタル仲介業者に置き換わるだけのことだ。

 ホテル業界やタクシー業界への反発は世界的に共有されている。だからウーバーやエアビーアンドビーは、個人データをめぐる一連の論争の中ですぐに、鈍重で新機軸を打ち出せない既得権者に対抗する果敢な先駆者だというイメージができあがった。このような偏った見方では、重要な事実が隠蔽されてしまう。それは、「シェアリング経済」の果敢な担い手たちを取り巻く世界が、19世紀に特徴的に見られたメンタリティに満ちているということだ。労働者は一人ずつ分断され、社会保障をほとんど受けられなくなる。雇用主の負担だったはずのリスクを自分で負い、労使間の団体交渉の可能性はゼロだ。

 かくも不安定な労働者の状態を正当化するのに、この新たな経済モデルの推進者らが展開するのは、自由主義者の理論家フリードリッヒ・ハイエクが唱えそうな論理である。つまり、自動制御的なメカニズムだ。タクシーのドライバーや宿泊施設の提供者の質を認定するのは市場であって、市場による制御は法律より効率的なのだから、法律など不要になるという。たとえば有名なベンチャー投資家のフレッド・ウイルソンは、「真に自動制御された経済システムができた暁には、規制する者は必要なくなる」と語っている(8)。そんなシステムをどうやって作り出すのか。フィードバックのループを社会の隅々にまで張りめぐらせれば十分だという。具体的には、市場参加者が次から次へと発する質的評価、要は利用者の意見とコメントのことだ。

 日常生活のデジタル化が、金融化の進行による強欲さと結びつく、そんな現状が予見させるのは、遺伝子情報からベッドルームに至るまで、何もかもが生産財に変じてしまう未来である。「個人向けの遺伝子情報解析サービス」の先駆者で、23andMeの大株主であるエスター・ダイソンは、「遺伝子の中に埋もれた富を引き出すためのATM」に同社をなぞらえた(9)。まさにこれが、シリコンバレーが約束するバラ色の未来なのだ。ネットに接続されたセンサーが普及すれば、われわれの生活そのものが巨大なATMに変わるというわけだ。

 未来はやがて、こんなふうになるだろう。「シェアリング経済」が差し伸べる救いの手をつかまない者は、経済を阻害していると断じられる。データを単に保持しているだけなのは、経済成長に寄与する可能性のある資源を無駄にしている以上、まったく許しがたい行為となる。「シェア」をしないことは、働いたり、節約したり、借金を返したりするのを拒否するのと同じほど、恥ずべき真似だとされる。そして、ここでもまた、実際には搾取であるところの事態が、道徳の美名の下に覆い隠されていく。

 そうした流れの中で、緊縮財政の重荷に押し潰されている階層の人々が、自宅の台所をレストランに、自家用車をタクシーに、そして個人データを金融資産へと転じることは、意外でも何でもない。他にどうすることができるのか。起業家精神の勝利、というのがシリコンバレーの言い分だ。そこでは技術発展は、自然の成り行きとして、金融危機をはじめとする歴史的な背景とは切り離された形で提示されている。だが現実には、その素晴らしい起業家精神とは、希望という希望を失って、家賃を払うために売春や臓器売買に追い込まれた世界中の人々のそれと同種のものなのだ。こうした流れに対して、国家が歯止めをかけようとすることもないではない。しかし、それよりも国家にとって大事なのは、財政の均衡をとることだ。だから、ウーバーやエアビーアンドビーが、好き放題に「金鉱」を掘ろうとするのを放任する。国家がこうした妥協的な姿勢をとるのは、税収が増えるし、国民がなんとか家計をやりくりできるようになる、という二重の利点があるからだ。

悲嘆へと追い込まれた批判

 だが、「シェアリング経済」の出現によって借金経済が消滅するわけではない。それどころか、両者の共存は必至である。何もかもがデータ化され、ますます強力な分析ツールにかけられるようになれば、銀行はこれまで返済能力なしとしていた人々にも、ローンを売り付けることができる。そうした低質の顧客の上澄みをデジタルの篩で選別すればいいからだ。そうした新興企業が出てきている。たとえばゼストファイナンスは、オンラインで融資を申し込んだ者について、7万件の基準を駆使して査定するという形で銀行を補佐している。その基準のうちには、インターネットや携帯電話の利用法も含まれる。コロンビアでは信販会社のレンドーが、申込者のソーシャルメディア上での行動に応じて、クレジットカードを発行するかどうかを決めている。クリックの一つ一つが、まさに勘定に入れられるということだ。ゼストファイナンスの共同創設者ダグラス・メリルにとっては、まったく当然のことだ。同社のホームページは、「あらゆるデータがクレジットのデータとなります」と高らかに宣言する。それが本当であれば、われわれの生活は、そこかしこのセンサーによって隈なく監視され、何をするにも借金を意識するようなことになりかねない。

 シリコンバレーで能天気に先棒を担いでいる者たちは、自分たちのしていることで世界中が助かるのだ、貧しい人々が借金を望んでいるのに、彼らを助けない道理はない、と反論するだろう。将来を見通しているつもりの彼らの頭には、融資が必要になったのは失業の増加や社会保障の削減、実質賃金の急減のせいかもしれないなどという考えはかすめもしない。経済政策を変更すれば、こうした流れを変えることができ、借金の拡大を可能にする素晴らしいデジタル・ツールなんてものは、無用の長物かもしれないとも思わない。彼らの収入源でもある仕事というのは、次々と現れる問題を解決するための道具を作ることだけだ。それらの問題を原因にまでさかのぼって捉え直すような政治的、経済的な分析を深めることではない。

 その点からすると、シリコンバレーも他のあらゆる産業と変わりない。社会の急激な変化を望むとすれば、そこから利益が得られるときだけだ。とはいえ、グーグルやウーバー、エアビーアンドビーの言い方は、JPモルガンやゴールドマン・サックスに比べてずっと手が込んでいる。もし誰かが金融業界を批判しても、それは資本主義やウォール街や、納税者によるウォール街の救済への反対者として片付けられるだけだ。この手の批判は陳腐すぎて、あくびが出るぐらいにしか思われていない。ところがもし、シリコンバレーを批判しようものなら、その人は技術アレルギーで、iPhoneのなかった古き良き時代をなつかしむ阿呆者だと言われることになる。政治的、経済的な観点からIT産業を批判し、その新自由主義イデオロギーとの結び付きを批判するのも同じことだ。文化的な視点で現代文明を批判するやからだというレッテルが、即座に貼られてしまう。そんなことを口にした者は進歩の敵であり、シュヴァルツヴァルト(黒い森)にマルティン・ハイデガーを訪ねに行って、水力発電ダムの寒々しいコンクリートの塊を物憂げに眺めていたいだけなのだ、と切り捨てられることになる。

 このような恐るべき状況になっている一因は、ツイッターや電子ブックが文化的退廃を引き起こしたと、嘆き悲しむタイプの立論が絶えないことにある。新種のメディアが提起する問題を前にして、20世紀の初めの時点では、哲学者のヴァルター・ベンヤミンや社会学者のジークフリート・クラカウアーが、社会経済的な観点からの考察を示してくれた。それが今日では、神経科学の方向に走っているニコラス・カーや、「加速」の問題を生物生理学的に捉えて批判するダグラス・ラシュコフ(10)ぐらいしかいない。カーやラシュコフの分析がいかに鋭いとはいえ、彼らのアプローチが技術と経済を切り離してしまったことは事実だ。こうして今や、技術をめぐる議論の中心は、iPadの画面がいかに頭脳の認識過程を左右しているのか、といったことに収束してしまっている。iPhoneを通じて集められたデータがどのように、為政者による緊縮財政政策に影響しているかを把握すべきにもかかわらず。


* エフゲニー・モロゾフ:<< To save everything, click here. Technology, solutionism, and the urge to fix problems that don't exist >>, Allen Lane, Londres, 2013の著者。 仏語訳は<< Pour tout résoudre, cliquez ici. L’aberration du solutionnisme technologique >>, FYPLimoges, 2014.



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年8月号)