ヨーロッパの極右II

ウクライナのナショナリズム過激派


特派員エマニュエル・ドレフュス

国際関係コンサルタント、ポストソヴィエト問題専門家

訳:石木隆治


 ヨーロッパの地で極右が勢いづいている。その多くが新しい装いをこらしての登場だ。(ジャン=イヴ・カミュの記事参照)。明らかにウクライナではそうした動きが重要な役割を演じている。スヴォボダ自由党、より急進的な極右勢力《右派セクター》などが民衆の反乱を利用し、ヴィクトル・ヤヌコヴィチ大統領の腐敗した政治に対抗しようとしている(なお、本記事はウクライナの春によって、ヤヌコヴィチ政権が倒れ、ロシアのクリミア占領が実行されるより以前に書かれた)。[フランス語版・日本語版編集部]





 バリケードがキエフ中心地を覆う、それを守るデモ参加者の小グループの数々、間に合わせの《ブラセロ》[スペインの伝統的暖房器具――訳注]の火で体を温める。雑多なものが入り乱れる派手な様相。ウクライナの国旗とヨーロッパの国旗、詩人タラス・シェフチェンコ(1814-1861、ウクライナ精神の父として慕われる)の肖像、ステパーン・バンデラ(1909-1959、見方によって、偉大な愛国主義者ともナチ協力者とも言われる)の肖像、さらにはグルチェスコヴォ通りの衝突で死亡し、ヒーローとなった5人の写真。

 このバリケードが作られたのが2月初めのこと。2週間後、抗議運動の中心地、独立広場マイダンが血の戦場となり、権力の残忍な弾圧と、デモ隊の一部の暴力的な抵抗が拡がった。広場を埋め尽くしたデモ参加者はウクライナのいたる所から集まった。ナショナリズム色の濃いリヴィウ、テルノーピリ、イヴァーノ=フランキーウシクからだけでなく、東部の工業大都市ルハーンシク、ドネツクからもやって来た(この東部の二都市は絶えずロシアの影響を受けている)。コサック人は伝統衣装を誇らしげに着飾っている。あらゆる年齢層の女たちが盆に黒パンと脂身を乗せ、防御を張る男たちに配って回る。漂う紅茶とキャベツ・スープの臭い、木の燃える臭いが漂う。数千人の活動家たちが平日には日常の仕事に勤しみ、日曜日には数万もの人々が野党指導者の演説を聞きに集まり、祈り、国歌を歌った。

 反抗運動が起こったのは11月末。ヴィクトル・ヤヌコヴィチ大統領がEUとの自由貿易調定交渉を中断したことが原因だ(原注1)。マイダン独立広場は一変した。まず数千人のヨーロッパ主義者が集まることから始まり、そこに政府の鎮圧が加わり、広場は、金儲け優先の腐った政治体制に反対する全ウクライナ人の反乱の象徴の場となった。その反乱は第一にヤヌコヴィチ体制に対する抵抗であり、またそれだけでなく、この危機によって乗り越えられてしまった野党の拒否でもあった。

 いくつものナショナリズムグループの、少数だが非常にはっきりした関与。それから超過激派勢力――この過激派は民主主義を表明せず、ヨーロッパ統合支持を主張しない――の登場。この二つの現象が二つの対照的な反応を生んだ。一つは、彼らの存在はロシアによって(見方によってはヤヌコヴィチウ体制によって)利用され、反抗運動の信憑性を貶めたという見方である。もう一つは、彼らの存在のせいで、マイダン広場が右翼によって統制されるのではないかという恐れを引き起こしたことだ。実際のところは、所詮、民衆運動であり、政治的分類分けの試みは単純化し過ぎと言える。


極右の源泉、ナショナリズム

 極右はそのモデルの大半をナショナリズムの運動から汲んでいる。このナショナリズム運動というのは1920年代から発展したもので、この時代、ポーランドとロシア・ソヴィエト連邦が現在のウクライナの大部分を分割していた。ウクライナの最初の成り立ちからして、数々の政治的影響の錯綜がある。イタリア・ファシズム、一部指導者(例えばバンデラのような)のナチとの部分的協力関係――一、一部の者にとっては実利的な協力関係であり、他の者にとってはイデオロギー的な協力だった――、第二次大戦中ウクライナ隊が参加してのユダヤ市民とポーランド市民の殺戮に関与したことなどである。

 キエフ・モヒーラ大学教授の政治学者アンドレアス・ウムランド氏は次のように言う。「バンデラについて客観的な記録は書かれていません。ロシアの研究者はナチと手を結んだファシストと描いていますが、ウクライナの研究者たちは今ひるむことなく彼を褒め称えています。マイダン独立広場のバンデラ崇拝者は彼に対し少しナイーヴで偏狭な見方をしています。これは問題です。しかし、ロシアがそうするように彼をファシストと呼ぶこと、こちらも偏っていて正しくありません」。

 旧ソ連時代は眠っていたナショナリズム運動、1991年の独立後目を覚ます。ウクライナ社会国民党(PSNU)が結成される。2000年代始めまではマイナーな、外国人嫌いの急進愛国主義の組織であり、僅かな影響が西部地域で確認されるだけだった。現在の党首オレーフ・チャフニボークは1998年に初めてウクライナ議会議員に選出された。


スヴォボダ

 PSNUは2004年の第6回総会の折り、ファシズムの旗印を取り下げた。そして《スヴォボダ》(全ウクライナ連合「自由」)と名前を変え、ネオナチの紋章《ボルフザンゲル》を捨て、中立的シンボルにした。ゴルシェニン・分析研究所の研究者オレクシフ・レシェンコはこの旗印の変化についてコメントしている。「この変化はまず、選挙民を安心させることが目的でした。また良きイメージを国境の向こうにまで拡げることでもありました」。

 敬意を得ようと、スヴォボダはヨーロッパの他の極右党との接触を増やした。2004年にはフランス国民戦線の党首、ジャン=マリ・ル・ペンが主賓として招かれたことがその一例だ。その他にも、スヴォボダはナショナリスト的な姿勢をますます和らげ、バンデラの援用を弱め――彼はウクライナでは一致して指示されているにはほど遠い――、より一般的な、ヨーロッパ右翼の間で約共通した演説を採用し、「体制」に対しては急進的で激しい告発を基調としている。外側の塗り替えはしても、チャフニボークはその華々しい演説によって、彼の外国人嫌いと反ユダヤのお里が知れる。2004年には「ユダヤ・モスクワ系マフィア」がキエフを統治していると発言した。このことで、《ナーシャ・ウクライナ》(我らのウクライナ)党から締め出されることになった。また2005年、大統領に公開の書簡を差し出し、「ウクライナユダヤ人の犯罪活動を終わらせる」ことを要求した。

 2012年の議会選挙では、スヴォボダは投票率10,5%を獲得して37人を議会へ送り、注目の的となる。投票総数は200万を超え、国民的な党となった。伝統的にナショナリズムの強い西部地方以外でもかなりの投票率だった。

 スヴォボダの反体制の姿勢が選挙での成功に大きく貢献した。野党グループ・バトゥキフシナ(中道右派)党員で、ウクライナハウス(マイダン独立広場で占拠された建物の一つ)の「指揮官」イヴァン・ストイコ議員は「選挙民は従来の政治指導者に失望し、劇的な変化を待っていました。スヴォボダのものの言い方、親しみやすさ、地域活動に惹かれたのです」と言う。一方、シンクタンク・ラズムコフセンター所長のユリ・ヤキメンコによれば、スヴォボダの獲得した10%のうち「5%は固定票です。残りの5%は何よりもまず他の政治勢力への反対を示すもの」である。

 スヴォボダは「おそらくフランス国民戦線から忠告を受けて」(A・ウムランドによる)、福祉を盛った経済計画を発展させた。その計画は、一部の企業の再国営化、累進課税の導入、政治経済体制の少数者支配との戦いなどを予定している。こうした政策と腐敗に対する活発な戦いを強く支持したのは、一部の階層の有権者、小経営者、中間層である。彼らは不況の影響をもろとも受け、ヤヌコヴィチが選挙されて以来ますます強まった身内びいきにも失望していた。

 スヴォボダはまた、ナショナリストという姿勢によって実った果実を収穫した。その姿勢は和らいだものであったとしても、この党のアイデンティティーの核心は変わらない。こうしてヴィクトール・ユシチェンコ元大統領(2005-2010)に向かった選挙民の支持を一部獲得した。キエフにいるフランス人研究者のソフィー・ラムブロシニは以下のように考察する。「ユシチェンコの時代はナショナリズムの開花という点で、最も豊かな時代でした。彼の時代には公的な場所,政治的な場所で言論の自由が得られました。しかしこれからはスヴォボダがその成果を刈り取る時期なのです。ナショナリストの投票者はユシチェンコにとても失望したのです。


ウクライナのアイデンティティー

 ヤヌコヴィチ大統領時代に企画された数々の政策は一部の選挙民をいらだたせていたということもあった。彼らはウクライナの言語とアイデンティティーを守ろうとしていた者たちである。例えば、方言に関する法律が2012年夏に発布されたが、これは希望する地域によってはロシア語を第二公用語とすることを狙っており、場合によっては、教育の場でのウクライナ語使用を一部減少させることも謳っている。文部大臣ドミトル・タバチニクによればウクライナ語の普及は「無駄」だからである。スヴォボダは新方針のもとに結集した。だが極右であることに変わりはない。スヴォボダの第一方針は、ウクライナ・アイデンティティー強化のための戦いだ。つまりこの国のロシアの影響を終わりにすることである。外交政策面で言えば、この戦いはまず第一にウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟、そして再核武装、ポストソヴィエトの全て政治機構からの離脱という意思に他ならない。

 国内政策ではスヴォボダは、その最優先事項をウクライナの「非ソヴィエト化」としている。すなわち、スヴォボダの前身であるPCUS(ウクライナ社会国民党)の旧幹部とKGB(ソ連国家保安委員会)局のスパイをお払い箱にすること、あるいは遠ざけることこと、道や広場の名前を変えること、ソ連時代の英雄像の撤廃などだ。クリミアの自治廃止も唱えている。また、ウクライナ民族アイデンティティーを推進して一連の計画を行っている。その計画には、ナショナリズム運動のシステマティックで一貫した称揚から始まって、身分証明書上に民族的・宗教的帰属を印す制度の再導入などを含む。

 スヴォボダは統一ヨーロッパの理念を支持しており、EU加入に賛成であることを現在表明している。しかし方針のプラグマティックな転換が進められたのは、EUに加盟したいという真摯な思いよりも、他の野党勢力との「大事な協力関係」という便宜的な戦術であり、選挙に勝ちたいという狙いからである。スヴォボダがロシアを遠ざける方法としてEUを考えていることには変わりない。


移民排除のスヴォボダ

 現在、移民問題は二次的課題であるが、スヴォボダは移民を告発し、規制する政策を提案している唯一の党である。外国生徒に対する大学入学の制限、ウクライナで生まれた者または「民族的にウクライナ人」だけに国籍授与することなどだ。スヴォボダは外国人嫌いであることを否定するが、混血という観念を拒否する。スヴォボダ幹部のイオウリ・レフチェンコが次のように説明した。「私たちは多文化主義に反対し、家族という価値、ヨーロッパの国民という価値を擁護します。多文化主義は様々な文化を溶かしあわせることを目的とする政策だと思います。それはありえないことです。ご自分の国をご覧になってください。移民から生まれるのは新しい文化ではなく、ゲットーだけです。一つの同じ街のなかで異なる文化を共存させるのは正しくありません。うまく行くわけがありません」。

 さらにスヴォボダは、反ユダヤ主義の痕跡を払拭することに努めている。その結果ウクライナのユダヤ人コミュニティー協会のジョゼフ・ジゼル会長が確信を持って以下のように認めた程だ。「スヴォボダにはユダヤ人にたいする脅威はひとつもありません。彼らの真の敵はロシアです。たとえスヴォボダがバンデラやシュキエヴィチ(原注2)の思想に従う唯一の大政党であることが本当だとしても――それは認めざるを得ませんが――、そうだとしても、反ユダヤではないのです」。しかしちょっとした誤りが起こるのは致し方がない。例えば2012年11月、イゴール・ミロシュニチェンコ議員がアメリカ人女優のミラ・キュニスがウクライナ出身であることを否定し、彼女は本当は「ジドフカ」だと言ったのだ。この言葉はウクライナの怪しげな俗語で、ユダヤ教あるいはユダヤ人血統の者を示す。

 スヴォボダの存在がマイダン独立広場で目立っていたとしても――壮大なキエフ市庁舎を2月16日まで占拠していた――、しかし結局のところ現場での影響力は大きくはなかったのである。これは他の野党にも言えることだ。この政治的空白は、ここ数週間権力側から繰り広げられた暴力と相俟って、新しいいくつもの組織の出現に有利な状況を生んだが、その組織の形と思想にはたくさんの 疑問が沸いた。


スヴォボダに失望、《右派セクター》に共感する人々

 新しい組織の中でも一番大きなものとして、グルチェスコヴォ通りの衝突により生まれた《右派セクター》は、国中から数千のメンバーを集め、少なくとも現在は、民衆の共感を勝ち得ている。スヴォボダに失望したウルトラ・ナショナリストたち、フーリガン、ホームレスたちがここに含まれる。右派セクターは多くの人々を惹き付けているが、支持する人の共通点は、まずこの党が急進的行動を好むことである。そして、指導者アンドレイ・タラセンコが労働組合組織のある建物の6階、過剰警備された本部から放つ思想に傾倒していることである。

右派セクターは、自分たちを定義して、「クレムリンのプロパガンダが言うような外国人嫌いでも反ユダヤ人でもなく」、何よりもまず「ナショナリストである」と言っている。「白人であり、キリスト教ヨーロッパ人の価値を擁護し、国民と宗教の喪失に反対して戦う」としている。スヴォボダと同じく多文化主義は「十字架の消滅を招き、学校でのブルカの少女登場を招いた責任がある」として反対する一方、ヨーロッパ共同体への統合には賛成しない。なぜなら「自由主義的全体主義において神は消え、価値観がくつがえる」からだ。

 右派セクターはどの野党も、とりわけスヴォボダを支持しない。「平静を訴えたこと、権力者との取引にがっかりした」からだ。このグループ右派セクターが政党になるかもしれないという見通しはスヴォボダのチャフニボーク氏にとって気掛かりの種だ。衝突の間、穏健な行動を訴えたことにより、反体制の演説家としての名声がひどく損なわれたことに加え、チャフニボークはこれから、自分たちの右側に位置する政党と妥協していかなければならないかも知れない。この極右政党は決然とした意志をもち、あらゆるものを武器に闘うことがわかっているのである。


ウクライナ社会の危機

 ここ数年のスヴォボダの成功、そして右派セクターのようなネオファシストのグループによるマイダン広場の占領は、ウクライナ社会に潜む奥深い危機を証明している。まずアイデンティティー問題だが、独立してから22年の間、ウクライナは、党派争いに終わらないで、ウクライナ全国・全国民を積極的に統合した歴史を創ることが出来なかった。今日でもなお、ガリシアにおける解放者とみなされるウクライナ人がドンバスではファシストとして見られることもあるし、その逆もある。次に政治問題だ。ウクライナ人は「オレンジ革命」(原注3)に失望し、苛立ち、一部の者は過激な党に票を入れた。それもその党の思想に賛同するからではなく、悔しさからだった。マイダン独立広場は、国民が一団となって起こした素晴らしい行動として歴史に残るかも知れないとしても、現時点では政治の建設的な将来の見通しを描けていない。新しい力、本当に、ウクライナの人々に役立ち、増殖する社会の分裂を超える力が現れるだろうか? あるいは、従来の政治に対する不信感をますます強め、制御不能状態に陥って、新運動は消えてしまうだろうか? 賭はなされた…。





原注

(1) Lire Sébastien Gobert, « L’Ukraine se dérobe à l'orbite européenne », Le Monde diplomatique, décembre 2013.

(2) Roman Choukievitch (1907-1950),ウクライナ・ナショナリストを代表する人物。《ナイチンゲール軍》と名付けられた、ドイツ国防隊ウクライナ部隊指導者

(3) Lire Vicken Cheterian, « Révolutions en trompe-l'œil à l'Est », Le Monde diplomatique, octobre 2005.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年3月号)