シリア・バーレーン・エジプト・チュニジア。革命を歩む4カ国


《アラブの春》は終わっていない


ヒシャム・ベン・アブダラ・エル=アラウィ

スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所員。

プリンストン大学北アフリカ・中東・中央アジア現代研究所創設者。


訳:﨑山章子


 《アラブの春》と呼ばれる運動が始まり、チュニジアのベン・アリ大統領やエジプトのムバラク大統領が追い払われてから3年が経過した。アラブ世界の民主化を求める闘いは、外国の干渉や宗派間対立の脅威にさらされながらも、巻き返しをはかっている。シリアでは最悪のシナリオとなっているが、チュニジアでは国民の民主化への強い要求と妥協の追求によって現実的に前進する可能性がある。[フランス語版編集部]





弱体化する国家

 当初、《アラブの春》は西側の人々の先入観を打ち破った。アラブ人たちには民主的な制度を考えだす能力が備わっていないなどと言うような、中近東研究者にありがちなに偏見を打ち砕き、アラブの人々は専制君主に統治されるのがふさわしいのだという思い込みを揺るがせた。3年が過ぎ、《アラブの春》は暗転した。その展開は将来に対する懸念を抱かせたまま第4段階を迎えている。

 第一段階は2011年に完了している。人々の尊厳や市民の権利に対する要求が巨大なうねりとなって拡大し、強く激しい抗議となって沸き立った。2012年には第二段階に入った。その時期というのは、それぞれの国の状況下で戦いが後退する段階であり、歴史のなかで受け継がれてきたものに適応していく段階だった。同時に、国外勢力が戦いをいっそう危険な方向へ向かわせるようになり、現況へと人々を導くことになった。

 昨年の2013年、第三段階に入ったことが確認された。各国の状況は国際問題化しアラブ諸国や西側の大国の干渉がますます激しくなった。スンニー派とシーア派の対立問題が中東全体に広がり、それぞれの国や地域社会がどの宗派に属しているかということが重みを増すようになった。イスラム主義と世俗主義との対立も非常に激しくなった。地政学的な対立関係や宗教的対立が、各国の独自の問題を上回るようになり、各国の指導者たちは外国勢力の操り人形に貶められているかのように見える。

 シリア・バーレーン・エジプト・チュニジアを比較すると、国際関係の多彩な影響が感じられる。シリアとバーレーンでは外国の干渉が内戦を激化させ、反政府勢力の中でも最も過激な少数派勢力の活動を強化している。エジプトでは、新政権の権威主義的政策に対する西側の支援が、当初の民主化志向の盛り上がりを押しつぶしてしまった。チュニジアだけは、民主化は順調に進んでいるようで、その歩みはアラブを混乱させている地政学的、宗教的さらにイデオロギー的対立を比較的うまく免れているからだ。

 しかしどの国においても、《アラブの春》が民衆を動員して印した刻印は消滅せず、国民は自分らの力を認識するようになった。国民のパワーは権力に対する異議申し立てという新たな扉を開いたので、これに対して国家は、「弾圧」という手段を行使しないと、もはや扉を閉ざす事は不可能になった。しかも、この「弾圧」は政治的に高くつくだろう。現在のところ、未来は定かではないが、かつて支配していた鉄の秩序は間違いなく崩壊したのである。


泥沼化するシリアの内戦

 シリアの内戦は一般市民の抵抗運動として始まったが、瞬く間に大規模な民衆蜂起に変貌した。危機を察知した体制側は容赦のない措置に及んだが、それでも活動家たちを怯ませることは不可能で、抗議活動と弾圧との果てしない応酬が国を荒廃させていった。バッシャール・アル=アサド大統領の政府軍は早い段階で平和的な革命への望みを打ち砕いたのだが、地政学上の駆け引きに加えて宗派間の対立が後から重なっていったことが、深刻な内戦下での激しい抵抗へと駆り立てたのである。目下のところ、死者12万人・難民250万人・国内避難民は400万人に及んでいる。

 昔から、シリアは宗教・地域の多様性を特徴としていた。同国内のこうした軋轢を悪用する外国勢力によって、この不安定なモザイク国家は破壊されてしまった。シリアは中東地域で重要な中心地で、ここでは、アメリカ・イスラエル・サウジアラビア・カタール・ヨルダン・トルコ・イランの利害が衝突するのだ。歴史上この地域ではイスラム教の対立する二つの勢力、スンニー派とシーア派によって度々分裂が生じたが、自国の勢力の拡大を狙う国々の野心がさらにこの分裂を煽っている。

 アサド政権を形成しているアラウィー派は、イランからヒズボラのレバノンまでつながる「シーア派のアーチ」(注1)の一部を構成する一派であると考えられている。それに対して、対抗勢力の大半はスンニー派に属している。しかし、この宗教対立は、遥かに深い陰影に富んだ利害衝突を隠している。1980年代におけるアフガニスタンのムジャヒデンと全く同じように、シリアの抵抗勢力はまとまりを欠いた状態である。海外にいる彼らの代表者たちは、国内で闘っている武装グループについて、ほとんどか全く事情がわかっていないのだ。国外で味方を求めようとするものたちは、北側ではトルコやカタールの援助を受け、南側ではヨルダン・サウジアラビア・アメリカの軍事的支援を受けている

 中東地域の地政学的混交状態について考える場合、紛争についての解釈をすべて宗派対立に求めることとは矛盾が生じることになる。サウジアラビアはエジプトのムスリム同胞団に反対する軍事クーデターを賞賛した。しかし同胞団は、サウジアラビアがシリアの前線で武器を供与しているグループと同じ信条に属しているのだ。最近のアメリカとイランの緊張緩和もまた、西側のメディアが度々流してきた善悪二元論的な捉え方を相対化して見せる。イスラエルとサウジアラビアはイランに接近するアメリカによって自国が置き去りにされていると考えるようになり、突如事実上の同盟関係を結んだ。

 世俗主義勢力とイスラム主義者との対立もまた深刻だ。《自由シリア軍(ASL)》は政教分離の定着を主張しているが、他の大半の反政府勢力を構成しているのは、穏健なイスラム主義者からサラフィー主義者(注2)、さらにアルカイダに近いジハード主義者まで含む、様々な宗教勢力の寄せ集めなのである。そのうえ《シャームの自由人》あるいは《イラク・イスラム国(EIIL)》のような最も急進的な過激派が、いったいどれくらいまで自分たちの宗教的信念を追求するか、あるいは宗教の旗だけ掲げて世俗的な目標を追求していくのかということを判断するのは難しい。このような分裂は不和をかき立て、反政府勢力の内部での争いが生まれ、多数の人命を奪う戦闘がおこっている。シリア北部では1月初めに《自由シリア軍》と《イラク・イスラム国》の戦闘があった。こうした内戦の拡大はアサド政権の存続にとっても無縁ではない。

 シリアの内戦は単純な発想をもとに語られる事が多い。つまり、政権が後退すれば反政府側が勢力を増し、政権が攻勢にたてば反政府側が後退する、という考え方だ。しかし、こうした見方は戦争において金と武力が全てではないという事実を見落としている。人的資源も重要なのだ。ところがこの面での欠乏が政権側を常に脅かしている。イランの革命防衛隊、レバノンのヒズボラの部隊、さらに国内の民兵組織(シャッビーハ)などの援軍が政権の軍事力維持にとって頼みの綱となっている。化学兵器という手段が選択肢からすでに消えてしまった以上、政権はかつてないほどそうした外国人の補充兵をたよりにしているのだ。


他国の思惑に引き裂かれる革命

 主たる懸念材料は反政権側と政権側がさらに急進化することだ。《アル=ヌスラ戦線》と《イラク・イスラム国(EIIL)》はいずれもアルカイダを後ろ盾にしている組織だが、湾岸諸国からかなりの援助を受けている。サウジアラビアもまたアルカイダ以外のグループを支援するのに一層熱心になり、反政権側の勢力関係を混乱させている。それに対して、シリアの正規軍は根本的に変化した。2013年4月のクサイル(注3)の戦闘以来、イラン革命防衛隊とヒズボラは、民兵のような機動力のある小部隊として組織した武装勢力に再編した。

 このような要因があるために、諸大国はこの紛争を終結させようと努力するつもりはほとんどない。アメリカは新たな戦争に首を突っ込む事ができず、中東で自らの覇権が揺らいでいくのをただ眺めているだけだ。なぜならその戦略は今ではもうアジアのほうを優先しているからだ。アメリカの現実的外交政策では、シリア問題はもう悪化を防ぐ手だてが無くなっている。政治・軍事戦略のコンサルタントのエドワード・ルットワーク氏が『ニューヨーク・タイムズ』の中で述べているように(注4)、アメリカの知恵に従えば、「戦争状態のシリアで当事者たちに可能な限り殺し合いをやらせておけ」と命じていることになる。なぜなら、イスラム主義者が支配する反政府側の勝利は、アサド側の勝利と全く同じくらいに西側の利益にとっては害になるだろうと考えているからだ。アメリカの同盟国サウジアラビアは、シリア政権の崩壊を歓迎し、シリアが分断され無秩序な状態にさらされているのに満足しているように思われる。シリアの混乱によって、レバノンとイランのシーア派を結ぶ枢軸を分断できることになるからだ。制御不能に陥ったシリアの状況は、イランとロシアにとっては、反政権側の勝利よりはましな選択だ。たとえ彼らの操り人形にしたアサド大統領の家族のだれかをダマスカスの官邸に置き去りにすることになろうとも。かつてアフガニスタンでもそのようにしてきたのだから。

 それゆえに早期の平和解決はまずありえない。この地で行われた残虐行為の張本人たちは自分たちが犯した行為について責任を取るべきだが、暴力を煽り立てる諸大国にも責任の大半があるのだ。内戦は最悪の状態になってしまったため、初期にあった出来事を覚えている者はほとんどいない。当時、人々はただ国民の尊厳や権利を訴えていただけなのだ。この悲惨な状況において、その事実こそが最大の悲劇なのである。

 バーレーンにおいても、諸大国が中東地域の緊張を激化させる傾向を示しているが、シリアにおいて行っているのとはまた別のやり方である。この湾岸の小さな島国バーレーンで《アラブの春》の初期の頃に行われたデモは、民主主義を求める運動であって、その思いは多くの人々に広く共有されていた。最高潮のときにはほとんど国民の5分の1を動員したほどだ。その後、湾岸諸国会議(CCG)(注5)の軍隊が干渉し、瞬く間に人々のこうした熱い思いは芽のうちに摘み取られてしまったが、この運動の挫折の要因はここでもまた主として、地政学的策略や宗派上の指令などの介入によると考えられている。

 シリアではアラウィー派の政権が、多くをスンニー派がしめる勢力と対峙しているのに対して、バーレーンでは君主がスンニー派、国民の多数はシーア派である。そのためにイランとサウジアラビアという、中東地域で対立する二つの大国のそれぞれの利益がここで真っ向から衝突するのである。サウジアラビアはバーレーンの地理的な近接性を考慮して、同国に対し非常に干渉的な監査権を行使している。CCG(湾岸諸国会議)の干渉は西側の支持を受けたもので、サウジアラビアがその勢力圏にバーレーンをつなぎとめようとする意向を積極的に支えたのだった。

 初期の段階では、シーア派とスンニー派は互いに肩を並べ、同じ民主主義的要求を掲げてデモを行っていた。宗派的な要因が政治的目的を徐々に退けていったが、それもサウジアラビアが民主化運動に介入するようになってからにすぎない。しかしこうした国内の政治的動きに諸外国の利害が置き換わることは、政権の脆弱さを証明する事になった。湾岸諸国の経済・軍事・政治的な支援が注入されなければ、アル=ハリーファ王朝には政権を維持するのに必要な力も正当性もない。もうすでに政権の存続は外国勢力の庇護に頼るしかない状況なのである。

 紛争の国際化のために、バーレーン社会が宗派間の古い対立を、民主主義的な対話によって解決するという歴史的に貴重なチャンスは失われた。シリアで戦乱を招いた理由と同じ理由が、バーレーンにおいては人工呼吸器のような役割を果たしていて、専制的な現体制の命を繋いでいるのである。


正体を露呈したムスリム同胞団

 シリアやバーレーンとは異なり、エジプトは強力な独立国家であるために外国の圧力に抵抗することが可能である。それでも外国列強はそこで繰り広げられる政治ドラマと密接な関係を結んでいる。2013年7月、軍事クーデターによって、国民に不人気ではあるが正当に選挙で選ばれたムスリム同胞団の政権が倒された。他の国の出来事だったならばそれがどこであれ、民主主義的なプロセスがあれほど無惨に打ち砕かれれば、世界中に憤激を巻き起こしたことだろう。しかし、エジプトでは、西側の外交筋はこの政変を承認してしまった。アメリカとヨーロッパの同盟諸国、サウジアラビアや近隣の湾岸諸国、さらにヨルダン、モロッコにイスラエル。みんな軍の策動をすぐに受け入れてしまったのだ。民主的に選ばれたが制御できないと判断されたムハンマド・モルシのような人物を軍が排除したのである。

 エジプトの新体制が確立するや、即座にサウジアラビア・アラブ首長国連邦・クウェートが120億ドルの経済支援を行った。この額はアメリカによる年間軍事援助額13億ドルの9倍以上である。こうしたサウジアラビアの選択には少なくとも2つの理由が考えられる。一つは、サウジアラビアはワッハーブ派(注6)の体制であるが、ムスリム同胞団に対してはずっと以前から警戒心を抱いている。またもう一つには、エジプトの新しい民主主義の実例の影響がじわじわと及んでくるのではないか、大衆からの信任をイスラム主義勢力に与えるようなことにならないか、さらにサウジアラビアの人々が国の指導者層に異を唱え始めるのではないかと危惧しているのである。

 西側は軍事クーデターを支持したが、そのために国民の間で軍部の威光が増すわけではなかった。エジプトの民主主義が認められるのは、外国列強のお墨付きをもらった候補者を権力の座につけるときだけだという暗黙の了解には、これまでも散々な目にあわされてきたからだ。歴史の皮肉というもので、スンニー派が結束してイランの影響に対抗しようとするアラブ=西洋同盟計画を、ムスリム同胞団を嫌うアメリカ・同盟諸国は自分たちの主導でダメにしたのである。またそのことによって、サウジアラビアとイスラエルが外交路線で一致するという意外な結果をもたらすことになった。

 アブデルファター・アル=シーシ将軍によるクーデターは、悲惨な経済状況やモルシ氏の人気急落が原因であることは事実である。彼を選挙で支持した人々さえも、失業や腐敗の問題に対処できる能力をムルシ政権に期待しなくなっていた。支配を強める野心に取り付かれたムスリム同胞団には、他の勢力と協力して政権を担う考えは毛頭なく、国民の信頼を失墜する道を突き進んでいった。同胞団はさらに国家機構の抵抗にも遭遇した。この国家機構とは今でも警察・司法・フールール(旧体制の貴族)のことで、同胞団とは根本的に敵対している。この「国家の中枢」は表舞台に登場する機会を逃さなかった。彼らにとってやるべきことは簡単だった。なぜなら、同胞団は国家機構の中にいる裁判官・知事・有力者を追い出して自分達の仲間に置き換えたために、左派やサラフィー主義者の中にもいた彼らの潜在的な理解者達を失っていたからだった。

 同胞団を襲った雷鳴はまた、これまでイスラム教を包んでいた無敵のオーラの終焉も意味している。同胞団は革命集団ではなく、国際的なテロ過激派の地元支部でもなく、むしろ信仰心や経済的自由主義、そして貧しい人々への奉仕などを掲げる保守的な組織なのである。同胞団は決してイスラム世界の独占的支配を企てたわけではなかったし、またサラフィー主義者とも、アズハル(注7)の神学者達ともつながりは一切なかった。同胞団の信奉者達は今では監獄の中にいるか地下に潜ってしまった。それに比べれば、アル=ヌール党のサラフィー主義者たちはずっとしたたかで、彼らのプラグマティスムを発揮して、軍事政権に忠誠を誓っている。《アラブの春》によって、イスラム教世界の領域は多様化し同時にバラバラに分裂し、宗教界や伝統的政治の枠を超える新たな人物達が頭角をあらわすようになった。


民意の重要性

 政権についていた短い期間、同胞団は社会を強引にイスラム化する事は差し控えていた。彼らの目的はむしろ、社会制度の分野に彼らの政治的支配力を定着させることだった。だから軍部のクーデターに際して、モルシ政権がイスラム法(シャリーア)ではなく法律上の正当性(シャライヤ)を論拠として抵抗したのは偶然ではない。こうした点に鑑みれば、《アラブの春》が中東地域におけるイスラム化の端緒を開くことになると西側世界が危惧しているのは、全く根拠のない事のようにみえる。

 エジプトでは、軍部のクーデターは若者たちの《タマルッド》[《反抗》の意味.2013年4月に設立された団体——訳注]の運動や、コプト正教会やリベラルな世俗的プループから支持されている。こうした集団の主張する《自由主義》は、政治の複数体制の擁護を含んでいないのは明らかだった。複数体制の立場はムスリム同胞団の排除というものとは相反することである。それゆえに政治の多元主義は完全に消滅した可能性がある。実際のところ、新しい軍事政権の行っている検閲は、ホスニ・ムバラク氏の大統領政権下での検閲よりももっと過酷に実施されていることが明らかになっている。ナーセル大統領時代以来、前代未聞の厳しさでムスリム同胞団はエジプトの地図上から抹殺されてしまっただけではなく、新政権は彼らを追放するとともに国家主義的で反外国人的なキャンペーンを繰り広げるようになり、同胞団の活動家達を外国に金で買われた《テロリスト》だと決めつけている。エジプトの革命は思いがけない結末をもたらし、横暴な大統領による統治は、戒厳令と超法規的措置に基づく軍事独裁に取って代わられた。選挙は廃止されたわけではないが、厳しい統制下で行われるのである。

 ムスリム同胞団を追放し、国内の政治勢力は全て細分化され、邪魔者がいなくなった軍部が幅をきかせるようになった。軍部は彼らの指導者が手にした権力を手放しはしないだろう。少なくとも西洋の列強や湾岸諸国から得ている暗黙の承認がある限りは。なぜならば、彼らは自分たちがエジプト社会の要であると考えているからである。

 エジプトは中東の他の近隣諸国が苦しんでいるような民族的・宗教的軋轢とは縁がない。それゆえ表立った争いは見受けられないようである。そうはいっても軍が旧秩序の復活だけで満足しているわけではない。だが大弾圧は政治的に非常に高くつくものになっているうえに、エジプトの人々は大衆運動のもつ影響力に頼るようになっている。一方、イスラム主義と世俗主義との溝は一層大きくなる可能性がある。ムスリム同胞団のなかには、武力に訴えることを望む者も出てくるかもしれない。

 しかし、これまでになかった重要なことがある。それは、国民に向けた説明に対する要請が徐々に強くなったことである。2013年7月のクーデターに際しても、軍は自分たちの行動を正当化しなくてはならなかった。市民のグループなどに支持された民主的なイニシアチブが声高に懸念を表したからだ。今、政権は微妙な選択を前にしている。軍服を脱ぎスーツとネクタイを身につけたアル=シーシ将軍が、ムバラク体制を復活させようとするのだろうか? それともパキスタンのような道を選び、国民は発言する事は許されるが、重要問題については軍に拒否権が与えられるのだろうか?


チュニジアにおける民主化の展開

 他の国々の場合と比較すれば、チュニジアでの《アラブの春》の展開は、ほぼ不戦勝に近いものである。この国の指導者たちは民主的なルールを尊重し安定させる事に腐心しており、いまだに他国からの介入を免れている。この理由は特に地理的な要因が大きい。すなわち、旧宗主国フランスから細かく監視されてはいるが、チュニジアが他国の利害をめぐる地政学的対立の舞台になることはほとんどなかった。人々は宗教的な面でほぼ同質である。ベン・アリ大統領の失脚以来、最も顕著な争いの種は、イスラム主義勢力と世俗主義勢力との間で繰り広げられた国内の争いである。

 イスラム主義のアンナハダ党は最初の自由選挙で勝利を収めたが、ムスリム同胞団と同じ過ちを犯した。すなわち彼らは与えられた権限を、絶対的権力を手に入れる呪文と勘違いしたのだった。瞬く間にその政治状況は悪化し、左派の反対勢力の人々が大勢暗殺され、サラフィー主義勢力が台頭して選挙の結果生まれたばかりの複数政党制に頑強に敵対した。サラフィー主義勢力の脅威は、そのような雰囲気にほとんど馴染んでいなかった国民に反発を抱かせたのだった。

 チュニジアでは、議会で特に支配的な党は存在しない。第一党となったアンナハダ党は世俗主義の二つの党と連立を組んだ。そのためにチュニジアの民主化運動は、政府が提案する国民的な対話を押し進め、イスラム主義者たちと協力しあって働くことになった。しかし最も急進的なイスラム主義者、とりわけサラフィー主義者たちは除外された。全ての議会政党は、政治的暴力がエスカレートする可能性がもはや看過できなくなったという点で意見が一致した。しかしまた宗教勢力と世俗主義勢力との間の亀裂が、予想したほどには克服しがたいものではないのも明らかになった。結局穏健なイスラム主義者と、彼らのライバルである世俗主義者との相違はほとんどない。また世俗主義者達も、全く新しい政治システムにおける宗教の重要性については十分認めているのである。

 しかし民主化への移行にとりわけ貢献したのは、活動的な市民団体である。《労働総同盟(UGTT)》や《チュニジア工業商業手工業組合(Utica)》、《チュニジア弁護士協会》、《チュニジア人権同盟》は国民的論争に積極的に加わった。彼らは政権に対して一連の新たな目標を定めさせ、憲法制定を強く訴えたのだった。

 軍の影響はエジプトのように大きくない。兵員の数が少なく政治色も薄く、2011年以来、街頭にはでていない。ベン・アリ大統領の旧体制は警察国家であって軍事独裁体制ではなかった。旧体制はテクノクラートによる官僚体制で、彼らはそこで私腹を肥やし、思想的な基盤など必要としなかった。そのためにチュニジアの革命は旧体制を支えた唯一の党のエリートたちを追い出すいっぽうで、官僚や警察組織をそっくり残すことができた。官僚や警察は体制とのつながりがなかったからである。このような骨格を残したことによって、法秩序の安定を比較的良好に維持することが可能だった。さらに、古い独裁政治は確固とした国政や法律の組織を確立していたので、それらは確かにベン・アリ時代の最後の10年間にはあまり役目は果していなかったかもしれないが、今日民主的で機能的なシステムを構築するために役立っている。正確に言えば、古い身内優遇主義が幅を利かせていたために、復活できるような思想は何もなかったので、専制的国家の復活はほとんどありえないように思われる。

 チュニジアはその不安要素に自分たちのやり方で対応できる可能性があるし、他国の思惑を気にかける必要はない。世界の列強や中東の大国は、進行する変化にあまり重要な役割を演じなかった。アンナハダ党が政権につくことにアメリカは反対しなかったし、特定の候補を援助したりもしなかった。湾岸産油諸国も自制をし、彼らの気に入る候補を押したりすることもなかった。フランスは用心深く中立の立場にとどまっている。それは、ベン・アリ体制を最後の最後まで支持したことでフランスは未だにイメージが傷ついているためだ。チュニジアの革命が成功したら、その体験は地域全体のみならず世界に希望の灯として受け止められることになるだろう。


臣民から市民へ

 《アラブの春》は4年目に入ったが、中東の紛争に他の勢力が介入することが継続することも、その悪い影響が拡大することも避けられない状況だ。地政学的・宗教的・イデオロギー的対立が中東を引き裂いている。この地域の再生のために諸外国が手助けできる事があるとしたら、それは中東諸国の革命に関わるのをやめることだけである。

 それでも今年に入ってこれまでよりも顕著な傾向が指摘されている。まず第一に、湾岸君主国が周辺のアラブ諸国の問題に、より大きな影響を及ぼしかねない状況になっていることである。原油マネーによって、湾岸産油国はエジプト、モロッコ、それにヨルダンのような石油の恩恵に預かれない国々に強い影響力があり、その援助額は西洋列強諸国からの援助額をしのいでいる。しかし西洋諸国の援助は大きくないかもしれないが、石油相場に振り回されたり王族の機嫌に左右されることはないのである。

 次に、民主化への過渡的段階に作られる協定というものの重要性を強調しなくてはならない。民主化した他の例をあげてみると、例えば南米のように、対立する勢力同士の間で妥協によって成立させる協定は非常に尊重され、どの立場の勢力にも受け入れられた。中東ではその反対に、分裂の論理が妥協を模索する努力にまさり、その結果各派は権力を分かち合うのではなく、権力を求めて分裂していくのである。

 三番目に、国家組織の脆弱さや列強の不当な干渉は、民主化プロセスの失敗の責任者たちにとって好都合であることだ。チュニジアのサラフィー主義者やエジプトのエセ自由主義者たちは二流の脇役で、交渉を重ねた末にやっとのことでこぎつけた歩み寄りの成果を無にしてしまっても彼らは何も困らない。新たな体制が徐々に力を失っていき、もうけ話が増えていくのに従って彼らは利益を得るからだ。極端なシナリオでは、弱体化した国々は悪化する治安の悪循環に歯止めをかける方策もない。イエメンやレバノンでは多くの勢力は国民を守れないような国家を信頼せず、武力に訴えることを選択する。そうやっていっそう国を弱体化させることになるのだが。

 最後は、もっと希望のあること、市民権に関わることである。人々は自分たちのことをもはや単なる臣民の集まりだとは思ってはいない。自分たちは尊敬と対話に値する市民勢力なのだと思っている。もし新たな蜂起が起こったら、こんどはもっと主体的で爆発的で持続的なものになるだろう。アラブの人々は、体制側の過激な解決方法を目の当たりにしたが、政権側はこの手段を準備して権力にとどまろうとしている。この強権的体制も、大衆が体制を「取り除く」覚悟があることを十分知っている。《アラブの春》はまだ終わっていないのだ。






(1)シーア派のアーチ  イラン、イラク、シリア、レバノンのシーア派の協力関係。[訳注]

(2)サラフィー主義  厳格な復古主義を特徴とするイスラム教スンニー派の思想。[訳注]

(3)クサイル  シリア北部、レバノンからの補給路にあたる戦略上重要な都市。2013年6月クサイルを制圧したことによって政権側は中西部の主要都市での攻勢を強めている。[訳注]

(4) Edward Luttwak, « In Syria, America loses if either side wins », The New York Times, 24 août 2013.

(5)サウジアラビア、バーレーン、アラブ首長国連邦、クウェート、オマーン、カタールの6カ国

(6)ワッハーブ派  復古主義、純化主義的で厳格なイスラム教の宗派。スンニー派に属し、サウジアラビアの国教である。[訳注]

(7)スンニー派イスラム教の中心的な宗教・教育機構で、カイロに本部がある。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年2月号)