地域の混乱を奇貨とするイラン外交戦略


テヘランから見える世界


シェルヴィン・アフマディ

(『ル・モンド・ディプロマティーク』イラン版編集長)


訳:﨑山章子


 昨年11月ジュネーブでイランの核問題をめぐる合意が成立し、30年以上にわたる対立を乗り越えたアメリカとイランは、和解にむけて大きな節目を迎えることになった。困難は山積しているが、イラン・イスラム共和国は中東の新しい力関係を利用して、アメリカや周辺国との建設的対話を重ねていく決意を抱いているようだ。[フランス語版編集部]





イランの大統領選挙

 イランとアメリカが互いに歩み寄りを見せている。これまではずっと、両国の国民それぞれの脳裏に歴史的大事件の記憶が深く刻み付けられていた。イラン国民にとってのそれは、1953年にモハンマド・モサッデクの民族主義政権に対して、アメリカ合衆国中央情報局(CIA)が画策して行われたクーデターであり、一方アメリカ国民にとっては、1979年のアメリカ大使館人質事件である。だが、イランは両国をめぐる歴史において新たなページをめくり、初めてアメリカ政府、すなわちバラク・オバマ政権との信頼関係を築こうという姿勢を示している。これは中東政治に計り知れない影響をもたらす決断である。

 この画期的な方針転換は突然降ってわいた出来事などではない。それどころか、周到に準備されてきたのである。そのことは、イランの大統領選挙における体制側の行動が物語っている。体制側は仲間同士の対立を招くような危険を完全に回避するために、いちばんうるさい候補者たちを外した。国民はその隠された争点をしっかりと感じ取り、圧倒的多数の有権者が、アメリカとの対立を終結させることに賛成な候補者に投票した。だからハサン・ローハニー氏は投票率72%の第一回投票で新大統領に選出されたためアメリカと交渉を進めることのできる強力な立場に立ったのである。

 イランの選択は、オバマ政権のお人好しの展望や意図によってもたらされたのではない。すなわちイランは、世界や中東地域の情勢が変化していること、アメリカがもうイランとの戦争状態に突き進めないことを確信しているのである。

 オバマ大統領はシリアに対する攻撃命令を控え、バッシャール・アル=アサド大統領の化学兵器廃棄という解決法に同意した。このことが中東地域の秩序の変化を決定づけた。西側のメディアはロシアの役割を強調したが(注1)、イラン側の主張によれば、もともとイランがシリアの化学兵器廃棄の提案をしていたのであって、シリアに提案を受け入れさせたのは自分たちだったということになる。アメリカの進路変更が何によるものであれ、イランにとって、今は戦争ではなく交渉の時であると確信するきっかけとなった。たとえアメリカとの関係正常化のために、ある程度は譲歩が必要であるとしてもである。

 イランとアメリカは、アフガニスタンとイラクにおいて戦略上の利益を共有し、パキスタンの動きには同じ懸念を抱いている。しかし同時に両国はそれぞれ、敵対しあう軍事・政治的同盟に加入している。イランはレバノンのヒズボラ、シリア、それにパレスチナのハマスを支持している。それに対してアメリカは、湾岸の産油諸国やイスラエルと同盟関係にある。そのため、たとえ中東地域の重要性がアメリカにとって薄らいでも、それらの国々との関係を危うくすることは問題外なのだ。


イラクとの和解

 経済分野では、イランとアメリカの関係改善によって短期間で解決可能になる問題がある。例えばアメリカにあるイラン資産の凍結解除があるし、さらにイランにとって切迫している部門、とりわけ航空産業の分野で良い契約を結べる。アメリカの企業は経済上の成果を上げるのに好都合な立場にいる。なぜなら、アメリカ企業は経済制裁にも拘わらず、間接的にイランとの関係を繋いでいたからである。別の切り札は、アメリカに根をおろしているイラン人の大きなコミュニティの存在で、彼らは決して本国イランとの関係を断つことはなかった。一方、アメリカも同様にイランに確固とした文化的な基盤を持っている。その基盤は皮肉なことに中東で唯一の(イスラエルにはあるが)ものであり、イランにはアメリカに対する敵対的感情はない。反米の宣伝活動がうまくいかないとわかったからだ。

 しかし、イランの外交政策の方針転換は、単に対米関係だけに関わる問題ではない。それどころではない。イランの外交はかなり以前から、対外戦略の基軸をイデオロギーよりはむしろ中東における利益や力関係に置いている。

 中東を舞台にしたこの10年間のイランの伸長は驚くほどだ。イランはこの地域において著しい能力と現実感覚をもって行動してきた。国家指導者たちの目にはこの分野での関係は軍事力に次いで第二番目に重要な問題なのである。イラン国家安全保障最高評議会と外務省には、付随して多くの専門研究機関が設置されている。1989年に最高評議会の監督の下に設立された戦略研究所は1997年以来ずっと、指導者たちに向けて重要問題に関する研究報告を提出している。研究所はこれらの研究の一部を季刊誌に出版しているが、これは新大統領のローハニー氏に指導されていた(注2)。この定期刊行物の中で展開されている分析は政府のプロパガンダ的なトーンとは打って変わり、どちらかといえば伝統的な政策であり、また外国の専門家の寄稿を受けることにも積極的である。

 イランは複雑な国際情勢のもとで、高い柔軟性を発揮しつつ行動している。国境の東側ではパキスタンが主たる懸念材料である。パキスタンのアフガニスタンでの役割、対米協調、イスラム過激派に対する保護、そして核兵器の問題などがイランの念頭から去ることがないのは言うまでもない。このようなパキスタンの相矛盾した行動に基づく不安定ぶりも心配の種だ。イランはシーア派に関わる問題を煽り立てないように気を配りながら(注3)、パキスタンがイランのエネルギー資源に依存しなくてはならないことを利用して、パキスタンとの関係を安定化したいと望んでいる。《平和のガスパイプライン》と名付けられたこの計画は、もともとはイランのガスをパキスタン経由でインドに運ぶというものだったが、ようやく2013年3月にイランとパキスタンの間で締結された。アメリカの圧力によって、インドは2005年にこのプロジェクトへの参加を諦めたが(注4)、イランはインドが中期的にはエネルギー資源に対する必要性に迫られてその立場を修正せざるをえなくなるだろうと確信している。

 アフガニスタンについては、イランはアメリカが据えたアフガニスタン政府と常に良好な関係を維持してきた。この政府はイランにはタリバンよりも好まれている。イランとアフガニスタンの貿易額はこの4年間に8倍になり、50億ドルにのぼったとされている。この数字は誇張されて見えるが、イランの生産物はアフガニスタン市場に大量に入っている。アメリカはイランが経済制裁をこのような方法で回避しているのではないかと疑い、圧力を強めているのだが(注5)。

 対イラクについて見ると、サダム・フセインの失墜によってイランはこの最大の敵の一つから解放され、この国・地域における政治的影響力を増大させることになった。20世紀で最も長い戦争だったイラン・イラク戦争(1980-1988)を忘れ、今では互いに貿易相手国であり同盟国である。イラクのフセイン政権時代、イランはフセイン政権の対抗勢力・シーア派だけではなくクルド人に対しても援助を行っていた。2003年からは、一部の勢力はクルド人と緊密な関係を維持し、そのためにクルド人がイラクの政治の舞台において影響力を拡大することが可能になった。イラクのヌーリー・アル=マーリキー首相はイランと非常に関係が深いと見られており、またイラクのクルド人指導者であるジャラル・タラバニ大統領はアメリカとイランの接近に重要な役割を果たした。タラバニ大統領の提唱によって、イラクの安定化にむけてのイランとイラクの最初の公式な話し合いが2007年におこなわれた。

 イランの西側にある隣国トルコとの関係はもっと微妙なものだ。両者の経済的な関係はこの10年間に増大し、貿易取引は2002年の21億ドルから2012年の213億ドルになった(注6)。アラブ首長国連邦にあったイラン人社会は、この地域の輸入活動のかなりの部分を担っていたが、アメリカによる経済制裁の影響を受けてトルコに移ってしまったほどだ。イランにとってトルコは戦略的パートナーとなっている。なぜなら、ヨーロッパの魅力が薄れ中東地域において両国に共通する野心が互いを近づけるようになったからである。もっともシリアの将来については両国は意見が分かれている。この問題についても、両国の対立が続くことは間違いないが歩み寄りは可能である。それは昨年11月27日トルコ外相アフメト・ダブトグル氏がテヘランを訪問したことが証明している(注7)。

 イランと南に隣接するサウジアラビアとの冷たい戦争は未だに継続中である。1980年代、イラン・イラク戦争ではサウジアラビアはフセインのイラクを支持していた。そして1987年にはメッカでアメリカとイスラエルに対するデモを行っていた巡礼者たちにサウジアラビアの警察が発砲し、400名以上の死者を出したが、そのうち250名はイラン人だった。その後両国間の関係はハーシュミー・ラフサンジャニ大統領(1989-1997)とモハマド・ハタミ大統領(1997-2005)の政権下で改善がなされ、両氏は度々サウジアラビアを訪れている。しかし2003年、アメリカのイラク攻撃は新たな緊張をもたらした。サウジアラビアはイランの影響力が増大することとスンニー派が政治的に疎外されることを警戒した。アフムード・アフマディネジャド大統領(2005-2013)の政権は対外的に挑発的な姿勢をとり、緊張関係の鎮静化を図ろうとすることは全くなかった。

 レバノンのヒズボラは、核開発問題を巡るジュネーブでの交渉のさなかの昨年11月19日に起きた、ベイルートのイラン大使館に対するテロ事件の責任がサウジアラビアにあるとして非難した。レバノンを舞台に、ここでもイランとサウジアラビアは対立しており、サウジアラビアはレバノンのサアド・ハリーリ元首相を支持しているだけでなく(注8)スンニー派の過激派組織にも肩入れしている。その多くはアルカイダに近い関係にある。

 イランとアメリカの緊張緩和は状況を複雑にした。イランはいくつかの問題についてこれからアメリカとの特別な連携を模索するつもりだ。例えばアフガニスタン駐留軍の撤退に関わる安心感の付与、あるいはイラク南部の油田開発である。後者はサウジアラビアの地位を弱める可能性がある。それゆえにイランとサウジアラビアの冷戦は続いていくことになるだろう。

 ここ数週間、イランは他の湾岸諸国に対する懐柔策を行っており、ジャヴァドザリフ外務大臣が昨年12月初旬に歴訪している。彼は対アメリカ・オマーン・クウェート・カタール・アラブ首長国連邦・協調路線の立役者である。ジャヴァドザリフ氏はアラブ首長国連邦で、ペルシャ湾の島々の領有問題についてのイランの立場を見直す用意があるとの見解を述べた。小トンブ、大トンブそれにアブ・モッサ島の3島は、1968年にシャー[国王—訳注]時代のイランが併合した。アラブ首長国連邦は3島の領有を主張している。

 カタールとの関係は昔からかなり良好である。カタールはイラン・イラク戦争の間も他の湾岸諸国とは異なり、イラクを支持しなかった。また、2006年国連安全保障理事会のメンバーであった時にもイランに対する経済制裁に賛成しなかった。しかしシリアの紛争は両国の立場の違いを際立たせることになった。カタールがシリアのイスラム反政府勢力を支援していることはイランにとって無関心ではいられないことだ。さらにカタールはイラク元副大統領タリク・アル=ハシミ氏の逃亡を助けた。ハシミ氏は「テロ攻撃に資金供与した」としてイラクの裁判所に訴追されている(注9)。

 激動する国際情勢に対処するため、イランはパートナーを求めている。すでに上海協力機構(注10)のオブザーバーとなったイランは、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)のメンバーになることを夢見ているが、エネルギー資源の分野以外では経済的な重要性の薄いことがハンディキャップとなっているのだが。BRICSの側でもまた、イランの軍事的脅威に対して度々懸念を表明している。

 アフマディネジャド前大統領の政権時代、イランは南米に多くの投資を行った。南米の2人の大統領、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領とボリビアのエボ・モラレス大統領はテヘランを訪問し、経済関係は非常に拡大した。そのために2009年には当時のアメリカの国務長官ヒラリー・クリントン氏が南米におけるイラン外交の成功に対して公然と懸念を表している(注11)。


信用を失ったフランス

 ヨーロッパとの関係は、1979年のイラン革命以来揺れ動いてきた。1992年にベルリンでイラン・クルド民主党(IKDP、DPIK)のメンバーが幾人も暗殺され、その一人には書記長のサディク・シャラフカンディ氏もいた。この事件はEUとイランの間で行われていた《微妙な対話》を決裂に至らしめた。再びEUとイランの関係が回復するためには1997年のハタミ大統領の就任を待たねばならなかった。さらに、2003年、ちょうどイラク戦争が始まったばかりの頃、ドイツ・フランス・イギリスに代表されるヨーロッパはイランの核開発プログラムについての交渉を開始した。イランはいくらかの譲歩を行い、そのなかにはウラン濃縮の凍結や核不拡散条約の付随書の実施が含まれていた。しかしアメリカはイラクで《楽に勝った》ことに増長し、このプロセスを頓挫させてしまった。2006年12月、EUはイランに最初の制裁を課す国連安保理決議1737号に賛成し、自分たち自身でさらにもっと強制力のある措置をとった。2012年、欧州理事会はイラン産原油の輸出禁止措置を行い、イラン中央銀行が保有する資産を凍結した。

 このようなことにもかかわらず、ヨーロッパの数カ国はイランとの経済関係を維持し続けた。確かに貿易取引は減少した。すなわち、10年間にヨーロッパ向けのイランの輸出額は165億ユーロから56億ユーロに、輸入額は105億ユーロから74億ユーロに減少した(注12)。しかしBP[イギリスに本拠を置く国際石油資本—訳注]は、イランの会社と共に《シャーデニス2開発プロジェクト》への投資を可能にするために制裁を外すように働きかけている。(注13)。イギリスはイランの核開発問題の交渉に重要な役割を果たし、交渉を合意に導いた。ローハニー大統領の選挙戦以来、イランで大変人気のあるテレビ放送、《BBCペルシャ語放送》はイランについて肯定的なイメージを振りまいている。イランはイギリスのこのような新たな野心を利用しようとしているが(注14)、一方フランスは今でもまだ全く評判が悪い。イランとアメリカが関係を回復したとして、ヨーロッパ企業は30年間イラン市場で優遇されていた彼らの地位を失うようなリスクを冒そうとするのだろうか……。






(1)「ロシアが国際舞台にもどってきた」(『ル・モンド・ディプロマティーク』日本語・電子版2013年11月号)参照。

(2) www.isrjournals.ir/en

(3) Christophe Jaffrelot, « Le Pakistan miné par les affrontements entre sunnites et chiites », Le Monde diplomatique, décembre 2013.

(4) Michael T. Klare, « Oil, geopolitics, and the coming war with Iran », 11 avril 2005, www.commondreams.org

(5) Michel Makinsky, «Iran-Afghanistan, les dimensions économiques d’une interdépendance, ou commerce et investissements comme outils d’influence», dans «L’Afghanistan 2014 : retrait ou retraite», EurOrient, n°40, Paris, 2013.

(6) Bijan Khajehpour, «Five trends in Iran-Turkey trade, energy ties», 31 octobre 2013, www.al-monitor.com

(7) Ali Mohtadi, «Damas, l’allié encombrant de Téhéran», Le Monde diplomatique, octobre 2013.

(8)サアド・ハリーリはレバノンの元首相(2009−2011) 。レバノン政治にはシリアを巡る二つの勢力があるがハリーリは反シリア側。父ラフィーク・ハリーリが2005年暗殺された事件は反シリア運動をおこし、レバノンのシリアによる実効支配が終わるきっかけとなっている。[訳注]

(9)ハシミ副大統領はイラク国内のスンニー派を代表する人物でマリキ政権と対立していた。イラク裁判所は死刑判決を下し、副大統領はクルド人自治区、カタール、サウジアラビアを経てトルコに逃亡した。イラク政府は国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配し、トルコ側に身柄の引き渡しを求めている。[訳注]

(10)上海協力機構とは、中国・ロシア・カザフスタン・タジキスタン・キルギス・ウズベキスタンの六カ国による国家連合のこと。2001年設立された。[訳注]

(11) Les Echos, Paris, 4 mai 2009.

(12) http://ec.europa.eu

(13) シャーデニスはカスピ海のアゼルバイジャン領大陸棚にある巨大ガス田を開発する企業連合でBPが主導し、第2期開発計画(シャーデニス2開発プロジェクト)に投資決定した。アゼルバイジャン・グルジア・トルコ・ギリシア・アルバニアを経由しイタリアまで、ロシアを迂回し直接欧州へガスを輸送することが可能になる。シャーデニスガス田にはイランのNICO社が10%の権益で参加している。[訳注]

(14) Jean-Claude Sergeant, «Londres réexamine sa relation avec Washington», Le Monde diplomatique, septembre 2010.



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年1月号)