あなたが中国人になれない訳


変化する世界の国籍事情


ブノワ・ブレヴィル

訳:石木隆治


 中国は人口13億に対し帰化者1500人、国籍付与に関しては最も厳しい国の一つである。だが、フランス、カタール、ブラジル、マリではどうだろうか? 出生地主義と血統主義、どちらを採択するか、今、財政危機にある国で議論が沸き起こっている。国籍法を調べてみると、驚くべきことがたくさんある。出生地主義と血統主義の違いは国家観の違いに基づくという考え方はまったく不十分である。また、二重国籍が禁止から容認に大きくかじを切った点に、国籍をめぐる状況の著しい変化が見て取れる。その究極の表れは「お金で買える国籍」の登場だ。[フランス語版・日本語版編集部]





 10月半ば、ある日刊スポーツ紙は卓球ヨーロッパ選手権準決勝の模様を伝えた。「女子シングルスでは、ヨーロッパ選手権2大会制覇(2007年、2011年)のリ・ジャオ(オランダ)が、フ・ユ(ポリトガル)に敗れた。フ・ユは決勝でリ・フェン(スウェーデン)と対戦する。リ・フェンはヨーロッパランキング一位(世界ランキング11位)のシェン・ヤンフェイ(スペイン)を制した強者。もうひとつの準決勝はいずれもドイツ人同士、シャン・シャオナとハン・インの対戦となる」(注1)。[ここに上げられた選手名はいずれも中国系と思われる――訳注]

 新しい国籍を獲得するにあたって、全ての外国人が平等に扱われているわけではない。トップスター選手、裕福な実業家、高学歴の移民などは、貧しい難民に比べて限りなく、新しいパスポートを手にする機会に恵まれている。自由裁量で行われる適当な国籍付与はどの国でも行われていることだが、この行為と対照的なのが、19世紀ヨーロッパでパスポートの発明を担った理念である。パスポートは国家主権のしるしの一つと見なされているが、研究家ジョン・トーピーの言い方を借りれば、個人の「合法的交通の許可権(注2)」が公権力へ譲渡されることを象徴したものだった。


国家と戸籍

 事実アンシアン・レジーム体制下では、戸籍は小教区教会で管理され、人々が移動するためには、農奴は領主の、奴隷は主人の許可が必要だったし、あるいはまた船舶主は正式な手続きなしに勝手に客人の乗船を拒否できた、等々のことがあった。移住が国際化するとともに、国民国家の誕生には次のような定義が伴った。すなわち、「誰が国に属していて、誰が属していないか、誰が行き来ができて、できないか」という定義である。従って、外国人と国民を分ける法的な区別が設けられた。国民は、様々な権利、例えば投票する、国内を旅行する、外交上の保護、社会福祉を得る、公務員として働く、etc.などの権利があり、一方、兵役、納税の義務があった。

 こうした基本線に沿ってどの国も次第に「国籍法」を定めるようになった。その原理は多岐に渡るが、それらは今日でも優先的な位置を占めている。出身国の国籍付与――これは誕生の際に与えられる――は、出生地の国、家系の継続が基準とされ、それから他の国の国籍取得のためには、婚姻、居住が必要である――こちらは人生の途中で、「帰化」によって授かる。こうした基準の案配の仕方は国家が国民にどのような特質を与えようとしているかを示すものとなる。こうしたことで国はその政治的共同性の枠組みをどのように考えているかを示すのである。

 こうして、1931年のハーグ条約が記すように(この協定は国籍法についての規定を示している数少ない取り決めである)、「各国が、各国の法律によって、どういう人がその国民になるかを決める」。これは国の主権にかかわることである。


契約国家と民族国家

 19世紀の終わり、ヨーロッパにおいて二つの概念がぶつかった。一つはフランスのもの。包括的概念で、その基礎は人間の権利にある。「主権は国民にある」と、1789年の人権宣言は謳ったが、これはシェイエス神父の著書『第三身分と何か』に影響を受けたものだった。これを受けてエルネスト・ルナンは国民というものの政治的概念、すなわち国民とは市民としての「日々の信任投票(注3)」によって培われるという構想を練り、「人種の政治」に反対した。もう一つはドイツの排他的な国民概念で、これはフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』で唱えた。フィヒテにとって国民とは民族の集団、「真実のドイツ精神」を持つ組織的総体を意味した。国籍法は長い間この対立のもとに解釈されてきた。すなわち、市民的国民は出生地主義を適用し、民族的国民は血統主義を適用する。こうした信条は、ニコラ・サルコジも持っており、2012年には「出生地主義、それがフランスだ(注4)」と断言した。しかし、こうした考え方は大部分間違いだ。国籍法は一つの国と不可分ではない。国籍法は変動の産物であり、移住の歴史、政治的人口的状況、法律の伝統、外交関係などが関与するのである。

 たとえば、この問題に関するフランス法は19世紀に2度、変わった。アンシアン・レジーム体制下で国の法律義務の土台となっていたのは「忠誠主義」。いわば個人を領地に結び付ける封建的隷属と、そして出生地主義を合わせたものだった。――フランスで生まれ、そこに住まい、主権の権威を認める全ての者がフランス人であった。――このような原則が何世紀にも亘りヨーロッパを支配した。だが、王制の遺物と見なされ、フランス革命とアメリカの独立革命により崩される。1804年のナポレオン民法は、旧体制との分岐をしるすため、国籍について血統主義を導入する。このフランス型血統主義には、たくさんの国が倣い――オーストリア1811年、ベルギー1831年、スペイン1836年、プロシア1842年、イタリア1865年――、出生地主義のイギリス型に反対した。出生地主義はイギリス旧植民地、インド、パキスタン、ニュージーランドで今なお採択され続けている。

 フランスが1889年、大英帝国に同調し、再び出生地主義に戻ることを選択したが、それはフランスにおける国民の概念が突然変わった訳ではなく、二つの要請に答えるためだった。「人口の赤字」を緩和するため(この時の人口不足は1871年の敗北の原因であると考えられた)と、国家共同体に外国人を統合するため(つまり軍隊に組み込むこと)である。ベルギー、イタリア、スイス、ドイツから19世紀半ばからフランスに渡ってきた移民たちは、現地フランスで子供をつくるが、この子たちはフランスで生まれたにもかかわらず、フランス市民ではなかった。国籍法を変えなければ、彼らフランス国籍を持たない者の数が機械的に増えることにしかならなかった。1851年には38万人だったのが1881年にはもう100万人になってしまった。その時のフランス人口4千万人である。このため、法律は改定されることとなるのだ。


血統主義から出生地主義へ

 ドイツは血統主義に非常に執着していると言われるが、20世紀終わりにフランスと同じ運命をたどる。遅れて移住の多い国となったドイツだが、血統を国籍継承の排他的な基準として守っていた。そのため外国人の数は増え続ける。1998年、改革の2年前には730万人に上った。フランスの2倍以上だ。フランスでも移住の波はかなりの多さであるのに。こうして移住度の高い国は早かれ遅かれ血統主義に代えて出生地主義に、法律を変えていった。その国は、イタリー、スペイン、アメリカ、カナダ、オーストラリア、南アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、等々。

 アメリカ大陸の国々では、その歴史・成り立ちは移民の動きと密接に結びついている。出生地主義が特別に包括的なものとなる。アメリカ大陸で生まれる子は全て、生まれた国の国籍を授かることができる。ヨーロッパはもっと厳しい。フランス、デンマークあるいはイタリアでは――この3か国は「遅れた出生地主義」を実行している――、成人になるのを待ち、その土地の「定住者」としての証明をして初めて、二つ目のパスポートを得る。ただし両親のうち一人がフランスで生まれたのならば、その場合はその子供は生まれた時からフランス国籍を取得する。これが「二重出生地主義」である。このやり方はルクセンブルク、オーストリア、スペインでも実行されている。研究者のパトリック・ヴェイルとランドール・ハンセンが以下のようにまとめている。「ヨーロッパの経験が示してくれたことがある。それは、夥しい数の移住は、移民の多量の定住に帰着し、国籍権付与のための条件緩和に向けて圧力をかけることになる。この圧力に民主主義は長いこと抵抗できないのだ」(注5)。

 独裁制の国々ではこの圧力にもっと簡単に対処する。アジアとアフリカでは、移民国の多くが血統主義である。この選択の根底にあるものは、植民地化の遺産であるかもしれない。フランスとイギリス帝国で優先的に行われた出生地主義は、住民に階級制を生んだ。宗主国の国籍を持ちながら、「原住民」はその国の市民ではなかった。本国人と同じ権利を享受できなかったのである。独立を果たすと、新しいアフリカの国々は出生地主義を廃止し、血統主義を選択した。このことにより国家としての団結心が生まれる。以前のアフリカは土地の現実を無視して境界線が引かれていたので、愛国心などなかったのである。


外国人に禁止されている職業、床屋、酒類取扱い業、葬儀社社長…

 血統主義はこの最初の目的からずっと離れてしまい、多くの場合外国人の統合を阻み、受入国にとってより利益のあるように二級市民の地位に彼らを保持する。程度は様々だが、どの国も外国人に不利益を与えている。例えば幾つかの社会保障を得られないということがよくある(注6)。フランスでは民間部門でも外国人に禁じられている職業が多数ある。葬儀社社長、酒類取扱い業、警備会社社長…。タイでは、このリストはもっと長くなる。床屋も会計係も旅行ガイドも禁止されている。ベトナムとカンボジアでは不動産さえ持ってはいけない。血統主義だと、こうした地位が後続世代へ永続する。

 血統主義はどの国でも行われているが様々な様式があり、移民にでることが少ない国では期間を限ることがある。例えば外国生まれの、カナダ人を母とする子供がカナダ国籍を得るのは、その母親が「外国で生まれた最初の世代である(注7)」場合のみという風に。移住度の高い国(中国、フィリピン、ベトナム、ハイチ、タイ、アルジェリア、モロッコ、マリ、セネガル…)の在外自国民は、反対に、子孫みんなに国籍を伝えることができ、外国のコミュニティー形成に有利に働く。比率で見るとハイチは世界で最も移住が多い国の一つ、人口1千万のうち300万人が海外へ移り住む。《在外ハイチ人省》が存在する程だ。この状態は無条件な血統主義の適用によって可能になったもので、この適用によりハイチは、在外自国民との共同体的連携を永続し、移民ネットワークを構成し、資金輸送や、国境を越えたパートナーシップ実施が可能なのである。


国籍法における男女・民族差別

 血統主義は、外国人を排除するために利用されることもあるが、同じく男女差別にも使用される。ほとんどのアラブ系諸国(ワルダ・モハメドの記事参照http://www.diplo.jp/articles14/1401femmesarabes.html)、ブルンジ、スワジランド、ネパール、スリナム――家父長制伝統を特に重視している――では、女性は自分の国籍を子供、夫に伝えることはできない。パキスタン、中央アフリカ共和国、グアテマラ、マレーシア、タイでは、夫に妻の国籍を与えられないという規則のみを適用する。西洋の国々でも同じく長いこと、女性が彼女の国籍を家族に移すことは拒否されてきた。フランスは1973年になってやっと、メキシコに4年遅れて、この禁止を解いた。フランスに引き続いて数年後にドイツ(1979)、イタリアとスペイン(1983)、ベルギー(1984)が禁止を解除した。

 平等への動きはアラブの国ではすぐには感じられないが、サハラ砂漠以南のアフリカ地域でここ20数年来、感じ取れるようになってきた。1992年、ボツワナの弁護士ウニティ・ドウが法律の合憲性に異議を唱えた。彼女は自分の国籍を子供たちに伝達できない。夫であるアメリカ人ももう10年以上もこの国に住んでいるというのにだ。3年の戦いの末、正義は彼女に微笑んだ。「女性が家畜のように扱われ、男性の気まぐれと欲望に従うだけにしか存在せずの時代はもう随分前に終わった」と、高等裁判所は判断したのだ。続く数年間で、アフリカの多くの国、ブルキナファソ、コートジボワール、エチオピア、マリ、ニジェールなどが同じ道をたどる。もっとも最近では2013年6月にセネガルが、国籍法における男女平等を定めた。

 性差別の消滅が進んでも、人種的民族的差別は続いた。リベリアでは――解放奴隷者たちによって成立した国である――「黒人の先祖」の子供しか、出生地国籍はもらえない。「リベリアの良き文化、価値観、特質を守り、維持するために」、リベリアは黒人でない者の帰化も禁じている。他の例を挙げると、マラウイでは、出生地国籍は少なくとも片方の親が「マラウイの市民」で、「アフリカ人人種」である子供だけに与えられる。ニジェールの憲法は、人種への固執がより巧妙に表現されている。市民権が与えられる子供は「少なくとも親にどちらか、もしくは祖父母のどちらかが、ニジェールの原住民コミュニティーに属するか、あるいは属していた」のでなければいけない。

 世界が二つのブロックに分かれ、一つは専ら血統主義を貫き、他方は出生地主義の要素を血統主義に混ぜるようになったために、一部の子供たちは、二重国籍を望むことができるようになった。例えば、レバノン人の親からブエノスアイレスで生まれた子供は、出生地主義によってアルゼンチン国籍と、血統主義によってレバノン国籍を申請できる。反対に、アルゼンチン人の親を持ちベイルートで生まれたとすると、その子はレバノン国籍を取得できない。しかし、アゼルバイジャンや中央アフリカ共和国、日本といった国は二重国籍を拒み、自国民が他の国へ帰化を申請すると、国籍を躊躇なく剥奪する。


次第に容認される重国籍、「明かな不合理」から有為の人材に

 一世紀以上の間、地球上の圧倒的多数の都市が、2枚のパスポート所有を防止しようとしてきた。二重国籍は裏切り、スパイ行為、国家転覆を想起させるからだ。テオドール・ルーズベルト大統領によれば「明らかな不合理」だった。こうした疑いは国際の不安定さに影響されていた。いったいどこで、二重国籍者は兵役を務めるというのだ? 戦争の場合どちらの国を選ぶのか? 1963年のストラスブールヨーロッパ条約はまだ「二重国籍の削減」を目標に掲げていた。

 昨日は禁じられていたのに、しかし今では世界のおよそ半分の国が重国籍を認めるようになった。今日評価すべきは「国際的な影響力」であり、重国籍はその力を持つということのようだ。上院議員のジョエル・ガリオ=メイラムはこう宣言した。「250万人の在外フランス人は、その半分の人がバイリンガルであり、企業家、企業家、商人、コンサルタント、教育者などのぶ厚く多様な組織網を作っています。彼らは我々の海外事業、我々の『ソフトパワー』に欠かせない人々です(注8)」。西洋の移民国は風向きが変わるのを一番に感じた。そしてこうした状況を抑えるのは無理だと考え、重国籍を次第に容認し始めた――どの国家も、他国へ、個人の国籍喪失、取得を告げる義務はないというわけだ。イギリス1949年、フランス1973年、カナダ1976年、etc.のことである。

 この動向は1990年代にアフリカにも波及した。独立の達成後、アフリカ大陸の新しい国々はかつての植民地開拓者との明確な断絶を示すことにしたが、それは二重国籍を禁じることによってだった。従って各自が自分の国籍を選ぶ責任を負わされた。アフリカ内の、また国際間の移住が進展すると、この状況が変わった。祖国を離れた者に国籍選択を迫れば、彼らが住み移った国のパスポートを選ぶのを見ることになろう。外国にある彼らの共同体(ディアスポラ)との縁が切れてしまう恐れがあったこともあるかも知れない。こうして次第に、二重国籍が承認されるようになった。認めた国(アンゴラ、ベニン、ブルキナファソ、シブチ、マリ、ナイジェリア、アルジェリア…)のなかには、政府の許可が条件となる国もあるが(エジプトやエリトリア)、禁止する国を上回る(注9)。

 毎年、二重国籍と闘うことを断念する国が新たに出る。ベルギー2010年、ハイチ2011年、ニジェール2012年。こうした世界的な変化は抗えないのだ。なぜなら変化は移民問題を越えた、地政学、経済、科学技術などの要素が合わさって生じているからである。冷戦終結と国際的政治協力の発達は国家間の平穏化を伴った。戦争の危惧が減少するにつれて、市民の忠誠に対する不安――二重国籍に反対する議論に使う主な論拠――は消滅した。

 さらに、交通の発達(より速くより安い)とテレコミュニケーションにより移住の様相は変わった。19世紀の移民たちは国に残った同郷の人と連絡を取る機会があまりなかったのに対し、21世紀の移民は、電話やネットで日常的に家族と話している。休暇中に家族を訪れたり、退職後は故郷に戻ったっていい。こうして移住民と本国の国民との関連はいっそう強まり、最初の国籍を保持しようとする関心も高まる。


一方で重国籍を禁ずる国

 二重国籍は「グローバル化の後戻りできない結果(注10)」だと法学者ピーター・スピロは言う。社会学者サスキア・サッセンによれば「国家国民に基づく主権の部分的失墜(注11)」のしるしであり、その道具ともなる。二重国籍は世界中に拡がる運命にあるようだ。だが禁止し続けている国もある――中国、日本、ウクライナ、イラン、タイ、ミャンマー、クウェート、アラブ首長国連邦。他の国では、一定の場合にしか二重国籍を許さない。例えばドイツ、デンマーク、オランダでは、最初にもっていた国籍の破棄を禁じられている国の難民、移民に限られている(注12)。

 二重国籍の禁止あるいは制限は、帰化のブレーキとなる。ドイツに移住したトルコ人は、出生国のパスポートを諦めることをドイツから強制され、従って遺産相続権を犠牲にするが、ドイツ市民権を熱望しないことが多い。なぜならトルコ移民はドイツ国民とほとんど同じ権利を享受しているからである。こうしたこともあってドイツは帰化者数の割合(注13)が西洋で一番低い国の一つだ。アメリカ、オーストラリア、フランス、イギリス、スウェーデン、スペイン、スロバキアに次いで低い(注14)。


恣意的に与えられる国籍

 一般的な規則として、国籍取得のためには主に二つの基準がある。居住の場所(過去、現在、将来)と婚姻の状態であるが、一部の国ではこの婚姻状態によっては必要居住期間を減ずることができる。元々の国籍は自動的に付与されるという特質を持っているが――生まれる子供は全ての必要基準に応えることが充分に可能であるから――これとは反対に、人生の途中の国籍取得は、ある部分恣意的な判断に従わせられる。例えばフランスでは、ベトナム人の移民が、フランスに5年以上住み、フランス語を話し、充分な収入を得、前科もない――こんなにもたくさんの要求が帰化志願者に対して作成されている――としても、きっぱりと、申請を県知事から拒否されることがある。

 当局は毎年付与する帰化の数を調整することで、国の人口数を決めることができる。フランスでは、申請者書類の内実は変わらないのに、帰化通達の数は2010年と2012年の間に半分になり、9万4千から5万以下になった。アメリカよりずっと少ない数であるが(アメリカは人口3億に対し年間の帰化者60万人)、他の国に比べればかなりの数だ。セネガルは人口1250万、過去50数年間に1200人の外国人にしかセネガルのパスポートを与えていない。中国では2010年の年の調査目録によると、人口13億に対し、帰化したのはたったの1448人にすぎない…。

 西洋の国々において、帰化は統合プロセスの最終地点をしるすものである。比較的柔軟な法律が帰化を後押しする。国籍取得志願者に要求される居住期間は、アメリカ大陸の国々ではあまり長くない。ボリビアとアルゼンチンは2年、ウルグアイは3年、ブラジルやカナダは4年、ペルー、チリ、メキシコ、アメリカ合衆国が5年、ヨーロッパ大陸ではブルガリアが3年、ベルギー、フランス、イギリス、ポーランドが5年。


簡単でない帰化

 ヨーロッパで居住期間要求のもっとも気難しい国としては、リヒテンシュタイン(30年)、アンドラ公国(25年)、スイス(12年)、ルクセンブルク(10年)がある。ヨーロッパ以外では、アラブ首長国連邦(30年)、カタール(25年)、ブルネイダルサラーム国(20年)などが最も厳しい国に数えられる。これらの国では国富――オイルダラー、豊富なガス資源、有利な税制など――にあやかることができる人口数はごく僅かである。国富は僅かな国籍保有者だけが念入りに共有しているのだ。例えば2013年にカタールの住民190万人のうち80%が外国籍で、主にインド、イラン、バングラディッシュ、イラクからの外国人労働者である。彼らはカタール人コミュニティーから念入りに引き離され、従って天然ガスのもたらす利益から離され、最低限の賃金ももらえず、組合活動もできず。労働許可証はいつ何時でもとりあげられる。ペルシア湾の小さな王国カタールは移民たちを帰化させる考えなど、全く興味がない。惜しみ惜しみ国籍付与をしないでもないが、するのはカタールに「奉仕」してくれた、あるいは、してくれるかもしれない外国人だけだ。たとえば、ソマリアの陸上走者モハメッド・スレイマンは1992年にカタールにオリンピックのメダルをもたらした最初のカタール人となり、ブルガリアの重量挙げ選手アンゲル・ポプフがサイード・サイフ・アサドと名前を変え、二番目のカタール人メダル保持者となった。

 言葉、歴史、文化、特殊な民族的理由など、そして、国民の統一性を守るために、一部の国は一定の国の外国人に特別制度を設けている。たとえばアラブ首長国連邦では、カタール、ドバイからきた移民は3年後にアラブ国籍を申請することができる――他のアラブ国出身の者は7年後、その他の国の者は30年後だ。バーレーンでは「非アラブ人」25年後、「アラブ人」15年後だ(注15)。イスラエルでは優先権はユダヤ人に与えられる。「帰還権」により、ユダヤ教の者で、イスラエルに住み、残留を表明した者は全て、イスラエル国籍を得ることが出来るからである。

 ヨーロッパの多くの国も同様に、国別の措置、いわゆる「簡易帰化」を導入している。1969年条約に基づき、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドが例外枠を設けた。デンマークのフィンランド移民は2年住めばデンマーク国籍を取得できる。他の国は7年。スペインは移民に特別条件を計画中で、対象とするのはラテン系アメリカ人、ポルトガル人、フィリピン人、アンドラ公国人、セファルディム出身の者。居住10年でなく、2年にする予定(注16)。フランスは独立以前に生まれた旧植民地市民、その子供たちを優遇する。

 民族による優遇措置は、間接的にも存在する。20世紀アジアの多くの国々では移住出稼ぎする者がたくさんいた。日本人はブラジルへ、韓国人は中国へ、ベトナム人はフランスへ、等々。国際結婚、出生地主義、帰化により、彼らの子孫は親とは別の国籍を持つことになった。1980年代以降、外国に住む子孫たちの「民族コミュニティー」への帰還を助けようとする試みがなされた。それは彼らに対して優先的に居住許可証を与えることによったが、この許可が最終的には国籍付与の端緒となる(注17)。


血統主義と出生地主義、そして「財布主義」

 しかし、パスポートは一度獲得しても、どれも同じ価値を持つとは言えない。ニューヨーカーの実業家がある取引を契約するために緊急にパリの取引先に会いたいとすると、そのニューヨーカーがパリへ行くのに必要とする時間は12時間を超えない。彼はボツワナのライバルに対し、とてつもなく有利なのである。ボツワナの彼は、ビザ申請をし、申請書費用を払い、その「ひらけごま」の手段をもらえる(もしかしたら)のに何日間も我慢しなければいけない。ボツワナの彼は書類騒ぎで身動きできなくなるのなら、むしろ「シティズンシップ・プログラム」専門キャビネットに直接出向くとうい方法もある。そこで彼は即刻実効性ある待遇を受け、二つ目のパスポートを手にする。「弊社はお客さまに代わり行政手続きを迅速に効果的に致しております」と、この分野のパイオニアの一つ、《ヘンリー&パートナーズ》が誇る。従って、出生地と血統主義に時としては「財布主義」が加わることもあり、それがあれば途上国の金持ちは国籍の不運を修復できるのである。

 《ヘンリー&パートナーズ》は、EUが提供する自由越境を利用したい客に、とても簡単な解決法を提示する。プログラムにも載っている「投資による市民権」である。オーストリアは、400万ユーロを投入すると約束する人全てに国籍を18か月以内に授ける(注18)。一般移民と反対に、金持ち申請者は10年以上住んだ経験を持つ必要は全くないし、ドイツ語が話せなくても前の国籍を捨てなくてもいい。オーストリアのモデルにヒントを得、また、財政危機という口実のもとに、EU圏のますます多くの国が法律を改定し、経済投資をしてくれる外国人に滞在資格を与えるようになった。各国ともそれぞれのお値段がある。ハンガリー25万ユーロ、アイルランド50万ユーロ、ポルトガル100万ユーロ、オランダ125万ユーロ、etc.(注19)。彼ら金持ち移民は数年も経てば、国籍選択権を望むことができる。リッチな家系を考慮すれば、彼らの申請が好意的に判断されることは誰も疑わない。






(1)L’Equipe, Paris, 13/10/2013. Cité par Le Canard Enchanté, Paris, 23/10/2013.

(2)John Torpey, «Aller et venir : le monopole étatique des moyens légitimes de circulation», Cultures&Conflits, Paris, No.31-32, printemps-été 1998

(3)Ernest Renan, Qu’est-ce qu’une nation ? , Pocket, Paris, 1993

(4)Reuters, 29/04/2012

(5)Patrick Weil et Randall Hansen (sous la dir. de), Nationalité et citoyenneté en Europe, La Découverte, coll. «Recherches», Paris, 2012.

(6)Lire Alexis Spire, «Xénophobes au nom de l’Etat social», Le Monde diplomatique, décembre 2013

(7)«Obtention et perte de la citoyenneté canadienne», ministère de la citoyenneté et de l’immigration, Ottawa, avril 2009, www.cic.gc.ca

(8)La Tribune, Paris, 17/06/2011

(9)Brown Manby, «Les lois sur la nationalité en Afrique : une étude comparée», Open Society Institute, 2009. 二重国籍を問題視しない法律の国では、二重国籍は許可されているものと考えられている。

(10)The New York Times, 18/07/2012

(11)Saskia Sassen, Critique de l’Etat. Territoire, autorité et droits, de l’époque médiévale à nos jours, Demopolis-Le Monde diplomatique, Paris, 2009

(12)Thomas Faist, Jürgen Gerdes, «Dual citizenship in an age of mobility», Migration Policy Institute, Washington, DC, 2008.

(13)全外国人の1年間の帰化率

(14)Dietrich Thränhardt, «Naturalisations en Allemagne : progrès et retard», Homme et Migrations, No.1277, Paris, 2009.

(15) «Discrimination in granting citizenship in Bahrain», Bahrain Center for Human Rights, 01/03/2004, www.bahrainrights.org

(16)Francisco J.M. Fuentes, «La migration et le droit de la nationalité en Espagne», dans Patrick Weil et Randall Hansen (sous la dir. de), Nationalité et citoyenneté en Europe, op. cit.

(17)John D. Skrenty, Stephanie Chan, John Fox et Denis Kim, «Defining nations in Asia and Europe : a comparative analysis of ethic migration policy», International Migration Review, vol.41, No.4, New York, hiver 2007.

(18)The Global Residence and citizenship Handbook, Henley&Partners-Ideos Publications, Zurich-Londres-Hongkong, 2011.

(19)Jean-Pierre Stroobants, «La surenchère de pays de l’Union pour offrir un titre séjour aux étrangers», Le Monde, 26 septembre 2012.



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年1月号)