戦火を逃れ、リビアからパリ郊外モントルイユへ


行き場のないマリ人難民たち


ピエール・ベネッティ

(学生)


訳:川端聡子


 2011年、「文民保護」を目的にリビアへの軍事介入が敢行されたことは記憶に新しい。これにより、出稼ぎのためリビアで働いていた大勢のアフリカ人が避難を余儀なくされた。その後、彼らの一部はパリ郊外のモントルイユにたどり着いた。しかしフランス当局は彼らを受け入れようとはしない。[フランス語版編集部]





モントルイユの「バラ・ハウス」


 窓辺には衣類をいっぱいに詰め込んだいくつものカバンが、どうにか窓ガラスに寄せかけられている。レンガ状のスープ用紙パックが石垣沿いに並べられ、プラスティックの大きなサラダボウルはベンチの下で白っぽく劣化している。モントルイユ(セーヌ=サン=ドニ県)にあるこの広場で、100人ほどの人々が集会に加わっている。その目は不安げで疲れ切っており、表情は険しい。今夜、この男たちはヴォルテール小学校沿いの道端で眠るのだ。翌日になると、その姿は跡形もなく消え去る。日中、彼らは駆け回る子供たちでいっぱいになるこの小さな広場の周辺で過ごす。そしてその間に一時しのぎの宿が見つからない限り、夜になるとまた道端に舞い戻って来るし、別の者はガレージを利用するか、街のどこかで住居を不法占拠する。

 人ごみのなか、ニット帽にジャンパーのジッパーを首まで上げたケイタただ一人が熱弁をふるっている。ガオとトンブクトゥの出身だと言う彼は、握りしめた拳を突き上げ、負けないと叫ぶ。自分はこれまでも戦ってきたが、これからもまだ戦うのだ、と。正面の歩道では、他のいくつかのグループが集会には加わらず、しゃべったりDVDを売っている。警備員が、バラ通りにあるフランスでもっとも古い移民労働者用宿泊施設「バラ・ハウス」に居つく者のないよう夜通し見張っている。1969年に元ピアノ製造工場から転用されたこの共同宿泊所は、今では受け入れ場所としてマリ人たちの間で知られるようになり、マリ共和国大統領候補者のマディボ・シディベ氏の訪問も受けたほどだ。[その後大統領選が行なわれ、2013年9月よりイブラヒム・ケイタ氏が大統領となった――訳注]だが、最近たどり着いた者は、ここでせいぜいシャワーを使用し、2ユーロの食事がとれるだけである。定員400人のところに、すでに800人もが宿泊しているのだ。

 クリスティーナによれば「非人道的な話です」という。南モントルイユ界隈の住人である彼女は、2012年の夏以降マリ移民のグループがぽつりぽつりと現れるのを目の当たりにしてきた。彼らは、リビアを逃れ、イタリアから来たと話すという。

 彼らのほとんどが30歳未満で、約90人――その数は、彼らがフランスに着いた後増大している。グループ最年長のスポークスマン、ママドゥ・フォファナ氏が叫ぶ。「われわれのような者は、皆リビアから来たのです! リビアではは仕事をもち、家族に仕送りをしていました。リビアを離れてヨーロッパに来たくはなかったけれども、内戦後はあまりに危険な状態だったのです」。ケイタが続ける。「フランスがカダフィを殺したら、僕らも殺されるだろうことはわかっていた。諸君がパパ・カダフィを生き返らせてくれれば、僕はリビアに戻るんだが……。さもなければ、ここに残るさ!」とジョークを飛ばすが、その調子が突如変わる。ケイタはニット帽のふちを上げ、左眉上にある深い傷跡を指す。「リビアではこうなんだ、これが……」。彼ら黒人が受けた暴力の傷跡は、カダフィ失脚後のものだ。

 内戦後の混乱のなか、また、社会の武装化が進む状況にあって(注1)、外国人労働者らはただちに戦敗者キャンプに合流した。だが、彼らはこの戦争に加担したわけではなかった。彼らの多くが迫害や拘束に遇ったり、もしくは殺害されるなど、暴走する民兵の犠牲となったのみならず、周囲からの人種差別や報復攻撃をも受けた。旧独裁者[カダフィ大佐のこと――訳注]は、トゥアレグ人とサブサハラ人[サハラ以南のアフリカ諸国――訳注]の傭兵部隊を徴募していたから、「黒人であるというだけで、カダフィストと見做されました」とフォファナ氏は語る。

 彼らは戦闘に加担しなかったと断言している。確かなのは、リビアにおける「自由の戦争」が彼らにとって利のないものだったということだ。国際人権連盟(FIDH)のメンバーであるジュヌヴィエーヴ・ジャック氏は、2件の調査任務に携わった。どちらも外国人労働者への暴行に関する調査である(注2)。「移民問題アナリストや人権擁護家にとって、リビアはブラック・ホールです」と彼女は言う。そして「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」(1977年以降のカダフィのリビア統治体制の公式名称)独特の状況について指摘する。それは、42年間続いた旧統治システムにより、メディアは入り込めず、UNHCR(国連難民高等弁務官)の事務所のような文民福祉機関もなければ、移民のための一貫した政策もないといった状況である。しかしながらリビアは富める国でもある。豊かな石油資源に恵まれ、外国人労働者を大量に雇い入れていた。ところが内戦と、それに続くNATO軍の空爆で仕事は失われてしまった。


リビアから、イタリア、そしてフランスへ


 2011年2月から4月までの間に、出稼ぎ労働者たち10万人がリビアを離れた。彼らの一部は、リビアでもすでに不法入国者だった。このことは当時のイタリア外務省に『出エジプト記』(注3)並の到来という懸念を起こさせた。そこで彼らに3つの解決策が提示されたのである。すなわち、エジプトかチュニジアのUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民キャンプに入るか、国際移住機関(IOM)によって本国へ送還されるか、もしくは船でヨーロッパへ向かうかである。

 リビアへの軍事介入に拍手喝采した人々にはこうした背景がわかっていない。だが、国際連盟安全保障理事会決議1973が目的としていたのは、まず何よりもリビアにおける文民保護だったのだ。どうやら、この定義に外国人たちは含まれていなかったらしい。リビアは古くからの中継地――アフリカとヨーロッパの、そしてマグレブとマシュリク[西方のマグレブに対し、エジプト以東のアラブ諸国を指す――訳注]との架け橋――であるだけでなく、移民の集合地でもあるのだが……。

 2011年3月、国連難民高等弁務官のアントニオ・グテーレス氏は、リビア内戦による難民を受け入れることの可能な国々へ呼びかけを行ったが、フランスは無反応であった。ジャック氏はとくにこの点を非難する。「これは酷いスキャンダルです。自国への帰還が可能だった人たちは故国へ送還されました。しかし、連携国々のうち指導的な国々が自らの責任を果たしていません。フランスが受け入れたのはリビア難民のみです。それも、事態が悪化した後のことです。ヨーロッパとの移民協定は修正されず、リビアは政府が人権を守ることのできないほどの政情不安にあります。移民たちは常に武装民兵らの言うなりになるしかありません。彼らが国境の管理を引き継いでいるからです」。

 バニョレ[パリ東部の郊外都市。モントルイユと接している――訳注]の高速インター下にあるメトロのガリエニ駅には、ユーロライン社が運行するパリ発国際長距離バスターミナルがある。待合室の壁には全ヨーロッパを網羅する同社のバス路線図が貼られている。もう一方の壁には、大判の広告ポスターが「私たちに国境はない!」と訴えている。窓口に文無しの旅行者たちに混ざってアフリカ移民やアジア移民が並んでいると、前日にミラノを出発した2台のバスが夜明けになって到着したと掲示板が告げる。この旅程には80ユーロ近くかかる。このターミナルを経由して、リビアから来たマリ人たちはモントルイユに集まったのである。2012年の夏、フォファナ氏が「先発隊」と呼ぶ人々がたどりついた場所である。

 「先発隊」は数日間「バラ・ハウス」に泊まることができたが、他の間借り人たちに騒音公害を理由に追い出されてしまった。そして彼らはバニョルの難民収容センターへと散っていった。だが、この夏から3月までの間に口伝いで計画を進め、身寄りのない者たち――なかには未成年者もいた――をモントルイユへ呼び寄せていたのである。

 2012年12月、リビアを逃れたマリ人たちの「後発隊」がモントルイユに現れた。彼らはケイタに倣い、イタリアを経由してきた。ケイタはジャージに入ったネームを指差す。ナポリのサッカー・クラブ「SSC」のネームだ。ケイタ同様、ババとシディベも故郷に帰ることを望んでいない。理由はリビア内戦と、それに続くマリ北部の紛争だ。彼らは3年の滞在許可書を持っているが、イタリアの官僚たちによってフランスへと送り出された。また、ヨーロッパ南部の経済危機も影響している。彼らのビザは全シェンゲン圏[シェンゲン協定が適応されるヨーロッパ26カ国の領域のこと。これらの国の国境を越える際には検査を受けなくてよい――訳注]において通行の自由を許可しているにもかかわらず、働くことは許されない。ゆえに、ねぐらを見つけることもできないのだ。

 フォファナ氏は、刷り上がったばかりのビラの束をほどきながら、携帯画面で彼らの冬のキャンプの画像を見せてくれる。毛布や衣類が地面に積み重なっているだけだ。「想像してみてください。ここに90人の人がいるんです」と彼はため息をつく。「幸いにも私たちを援助してくれる住民がいます。しかし、その間に私たちの多くが希望を失い、精神的におかしくなりました。そうした人たちに現状を理解させることが、だんだん難しくなってきているんです。学校に通えなかった者が多いですから」。


警察を動員しての退去騒動


 若いマリ人たちは、小さい広場と仮の宿とのあいだを行ったり来たりし始めた。毎度のことだが、その場しのぎの策ばかりで、いつも試みは失敗し、また振り出しへと戻るのだ。彼らが住み着いては追い出されることを繰り返し、南モントルイユを右往左往している間、気温は低いままだった。クリスティーヌはこう思い出す。「4月初頭になっても、一番重要なのは雨露をしのげる暖かい場所を見つけることでした」。それで数人の地元民たちが、レジスタンス大通りにある空き状態の事務所をいくつか開放したのである。マリ人たちは二晩だけ適切な場所で過ごすことができた。それから、移民たちは感謝祭の週末を体育館で過ごした。だが翌日には、子供たちの活動のため体育館を明け渡さねばならなかった。

 再びフォファナ氏が携帯で動画を見せてくれる。5月6日、県議会がラパテル通りに所有する不使用公共施設の不法占拠が警察により解かれた。そして5月17日、ついに市長は県庁の介入を要請した。というのも、ヴォルテール幼稚園に通う児童の親たちが、通園するのに寝ている男たちの頭をまたいて行かねばならないと訴えたからだ。移民たちのグループは、巡査らに誘導されモントルイユとバニョレの境界にあるジャン・ムラン=レ・ギランド公園へと向かった。クリスティーナは語る。「また雨が降ってきました。雨よけを取り付けようとしましたが、もうパニックです。金曜の夜にモントルイユで雨よけを探すだなんて! 警官たちのメンツを立てるくらいの時間、彼らはそこに残っていました。。恥ですよ!」。同じ日、他の警官たちが広場にある建物の扉を閉鎖してしまった。雨露をしのぎ、持ち物を広げて整頓するのに使っていた場所だ。「以来、彼らがどこかに寝場所を見つけていることは知っていますが、それがどこなのか彼らはもはや話しません。また追い出されるのを恐れているんです。暖かな場所で眠りたければ沈黙せねばらなないと悟ったのでしょう」。

 クリスティーナは息子を学校に迎えに行ったとき、若いマリ人たちとすれ違った。彼女はできるだけのことをした。言葉をかけ、時間を割き、自宅のベッドを提供し、さらにはペットボトルの水も与えた。「彼女は僕らのお母さんです!」と、フォファナ氏は言う。「お姉さんにしてくれないかしら……」と、クリスティーナはイタリア語訛りで笑顔で返す。彼女は昨冬、モントルイユの住民の仲間入りをしたばかりだ。ここでは住民たちが、この問題で多くの議員たちを訴えていた。冬が過ぎたが、リビアから来たマリ人たちには解決の糸口すらなかった。問題の当事者たちが書類を送り合うだけだった。SAMU[路上生活者の健康を支援するためのフランスの社会組織。115番で通報できる――訳注]のコールセンターはパンク状態だし、セーヌ=サン=ドニ県知事のクリスティアン・ランベール氏は引退を迎えようとしている。モントルイユ副市長で外国人居住者担当のクロード・レズニク氏は、この6ヵ月間、同じ返答を繰り返している。「あなた方に申し上げます。もしモントルイユがあなた方を受け入れられるならそうしよう。しかし、ここにあなた方の居場所はありません。責任を負うべきは国なのです」。


仏政府に加え立場異なるマリ人からも冷たい仕打ち


 モントルイユで、ロマ問題に加えリビアから来たマリ人たちの問題が持ち上がったのは、政府と市長が「バラ・ハウス」の取り壊しと改築を表明したことと重なった。だが、2月にセシル・デュフロ住宅相が訪れた際も、事態の緊急性について何ら言及はなかった。その間、リビアから来た者たちと、彼ら以外の在モントルイユのマリ人たちとの間では敵対関係が進むばかりだ。2014年の選挙が近づくと、この問題は前市議会の共産党と現職市長であるドミニク・ヴォワネが所属するヨーロッパ・エコロジー=緑の党との間で争点にされてしまった。3月15日に県知事に送られた書類には、在モントルイユのマリ人による8団体から署名がされていた。このことは、今でもフォファナ氏と彼の団員たちを怒らせている。署名は以下のような市側の基本方針に賛同を表明するものだった。「大量の移民の到来は、フランスに深刻な治安悪化を引き起こすものであります。共同宿泊所にとっても、街にとっても、これほどの数の移民を受け入れることは不可能です」。この書面の内容はマリ領事館へと転送され、バマコにある在外マリ人担当庁へと転送された。「つまりは、彼らもまた私たちに出て行けと言っているんです」と、フォファナ氏は悲嘆にくれる。あらゆるところから排除される悲嘆に、恨みまで加わるのだ。

 地区議会では、この問題が3回議題に上げられた。現状で空き屋となっている建物を改築するという提案が出されたが、どれも採決されなかった。5月14日、レズニク氏は、彼らの帰国援助プロジェクトについて触れた。少しでもましな生活のをしたいという願望は、フランスでは実現されないだろう。ましてパリのメトロ9号線の終点では、いっそう難しい状況だ、ということである。

 トリポリからモントルイユにたどり着く間に、予定がまったく変わってしまったのだ。フォファナ氏は、44歳になったらヨーロッパでのこのつらい生活に別れを告げるつもりでいる。カイ州(マリ西部)にある村、故郷のセティフォに帰るのだ。だが、戻ったら人間としての尊厳をもって、収入の保証を得るのだ。アソシアシオンを立ち上げるのだ。トラクター、刈り取り機を買うのだ。種まき機、耕耘機を買うのだ。土地を耕し、山羊を飼う。他国でチャンスを掴もうとしないように若者たちを説得し、海外移住者たちに帰国するよう呼びかけるのである。

 まもなくバニョレの宿泊所の契約期間の終わりが迫っている。皆それをわかっている。そうした境遇の者たちは、他の仲間たちとモントルイユの街頭で一緒になるだろう。「皆さんの代表は、素晴らしい人です。彼は信頼できる人です」。アソシアシオン「住まいを持つ権利」のスポークスマン、ジャン=バティスト・エロー氏が群衆に向かってこう言葉を発し、フォファナ氏の肩を叩く。「まずは、皆さんに『フランスへようこそ』と言いたい。あなた方がフランスに着いた瞬間から、戦いは始まっているのです」と、活動家である彼は続ける。風のなか、パラパラと拍手が小さな広場に響く。演説はあまりに何度も繰り返され、モントルイユで安売りされた結果、マリ人たちは彼の話を真面目に聞かなくなってしまった。





(1) Lire Patrick Haimzadeh, «La Libye aux mains des milices», Le Monde diplomatique, octobre 2012.
(2) Geneviève Jacques, Sara Prestianni et Messaoud Romdhani, «Libye : en finir avec la traque des migrants», FIDH, Paris, octobre 2012.
(3) «La droite italienne croit affronter un “exode biblique”», L’Humanité, Saint-Denis, 24 février 2011.
(4)4月末、パリ通りのバラックが火事にあって以降、ルーマニア系やブルガリア系のロマの家族数十組もまたモントルイユで住む場所がない。

●本記事は、仏語版本紙の定期購読者で作られた「ル・モンド・ディプロマティーク友の会」(www.amis.monde-diplomatique.fr)主催による「学生コンクール2013」において、応募作品54本から選ばれ、最優秀賞を受賞しました。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年11月号)