ワイン、テロワールからブランドへ

グローバル・ワインから《ビオ》へ


セバスチアン・ラパーク

ジャーナリスト、評論家。
最新作に『別のやり方でもう一度――新聞に抗して(未邦訳)』がある。
Sébastien Lapaque, Autrement et encore. Contre-journal, Actes Sud, Arles, 2013.


訳:鈴木久美子


 ワインはテロワール(生産地)、ブドウ、天候、発酵の状況、そして技術によって左右されるもので、非常に繊細な飲み物である。そういう意味でワインには神秘性があり、特別な評価を受けてきた。ワインのグローバル化は古代ローマの時代から行われていたが、プリニウスは『博物誌』で「大事なのは国土であり土壌であって、ブドウではない。同じブドウでも所変われば価値も変わる」と述べた。現在、ワイン・ビジネスのグローバル化、テクノロジー化により、テロワールの意義が揺らぐ一方、これと真っ向からぶつかるビオ・ワインの評価が高まっている。[日本語版編集部]




古代ローマのグローバル化とテロワール


 「古代ローマ人は最初のグローバリゼーションの担い手だった」とピエール・ルジャンドルはかつて語っていた(注1)。それ故ローマ人は統治、権力、栄光を手に入れたのだ。ラテン語の博物学者、大プリニウス(紀元後23年生まれ)はトーグにサンダルの姿のジャック・アタリさながらにこのことを讃えている。「ローマ帝国が世界を統一して文明を発展させたのは、交易や帝国内の平和のお陰である。そしてすべての産物の使用が広く普及していき、かつては知られていなかったものの使用までも普及したことを否定する者は誰もいない」(注2)。


 プリニウスは『博物誌』第14巻でブドウの木とワインとワイン醸造について書いているが、こうして彼は幸運なグローバル化の最初の1ページを開いたのである。ワイン取引は地中海世界では古くから行われていた。共和制から帝政への過渡期の頃から、イタリアはワインの輸出ばかりでなく輸入も行っていた。かなり早い時期から、商人も農学者もワインを産地によって分類する習慣がついていた。紀元前2世紀の終わりには、ワインの質は、製造方法よりも産地(テラ)と生産地域(パトリア)に由来するとされていた。製造方法が問題になるのはむしろ調整され、香りづけや、味付けされた多くのワインの仕上げが関係してくるときで、それはブドウの手入れ不足や、醸造の不完全さを修正するためだった。プリニウスはイタリア、ガリア、スペインの特定地域のワインを挙げ、それに次いでギリシア、アジア、エジプトのワインを挙げているが、そのどれを飲むかはローマの社会的差異化の指標であった。《クリュ・ブルジョワ》(注3)の類はまだなかったが、すでに海外のワインは高い評価を受けていた。プリニウスは海外ワインの流行を嘆いている。ワインに関して、人間の技術、特にワイン醸造のようなデリケートな技術に対して加えられる商業的圧迫と流行の弊害を指摘している。


 「かつて帝国とその人々の知恵は帝国内諸国の国境をまたぐことはなかったため、手入れのされないやせたブドウ畑で、国民は技術を磨くことを余儀なくされた(…)。世界が拡大すると、巨富を得られるようになったせいで、後続世代の堕落を招いた」。ブドウ栽培について、プリニウスは世態風俗の変化が招いた栽培の衰退を嘆いてこう言った。「われわれの時代には完璧なブドウ栽培者のわずかな例しか見られない」。


 グローバル化した経済がワインに及ぼす影響を理解しようとするとき、最初に地中海世界を統一した時代に生きたプリニウスの指摘を思い出すといつも心乱れる思いがする。「ワイン戦争」(注4)の古い証言者をプリニウスに見つけるとは驚くべきことだ。この戦争はかつてないほど今日的なものだからである。「自然なワイン」対「加工されたワイン」、「産地によるワイン」対「品種によるワイン」、「職人によるワイン」対「販売者によるワイン」、「地元のワイン」対「他所のワイン」という対立が見られるのだから。


 古代ローマ人はワインだけを飲んでいたわけではない。しかし、すでにワインは他の飲み物と同じような飲み物ではないことを知っていた。他所よりももっといいワイン産地があることを知っていたし、「同じ樽から出した2本のワイン」が「容器や偶発的な状況によって」違うこともありうることも知っていた。ブドウの産地がものをいうことに感嘆していた。ピケヌム、ティブル、サビネ、 アミニア、 ソレント、 ファレルニアのワインの違いを知っていた。ビールや蜂蜜酒も飲んでいたが、ワインには特別な地位と神秘性を付与していた。


現代のグローバルワイン


 ワインは、特定のひとつだけ(もしくは複数)の品種・一定の土地・ブドウ栽培者の技術・その年の気候条件から作られるので、常に唯一無二、再現不可能な調和の花であり実である。この調和に古代のローマ人は感嘆し、工業化の進んだ現代社会は狂ったようになる。どこでも売れる飲み物を市場に売り込もうとしている農業関連の多国籍企業にとっては、穀物酒――ウィスキー、ウオッカ、ジン――の方が都合が良い。生産の地理的制約も、原料貯蔵の問題も、気候の心配もなければ、需給調整の難しさもない。ジョージ・オーウェルはそこを考慮して、自身の小説『1984年』で、全体主義社会で飲むことを許された唯一の酒が「勝利のジン」であるとしたのだろう。酸味があり透明でいい気分にしてくれるこの酒を、『1984年』の終わりにウィンストン・スミスはついにビッグ・ブラザーの権力に屈してしまってから飲むのである。


 ワインは産出国を問題にすると不都合がある。ロマネ=コンティは1.8ヘクタールの土地から、1年間に6000本分しかできない。このブルゴーニュワインの「花形」を渇望する世界規模の企業にとって、このような生産制限は特に足かせとなる。そこで、塀に囲まれた狭いブドウ畑の獲得者として名乗るよりも(たとえその畑が世界で最も貴重なものであっても)ブランド名の獲得者として名乗りを上げることになる。例えば、シャンパーニュ地方では、クリュッグあるいはドン・ペリニヨンが、世界の高級ブランドのLVMHモエ=ヘネシー=ルイ・ヴィトンに買収されてからその生産量が急激に伸びたことについて誰も疑問を口にしてはいないのはいったいどういうことか。広報担当は、慇懃に「特別な調達」を行っていると語る。そもそもブランドは全世界で売るのに有利である。シャンドンとその発泡ワインはアルゼンチン、カリフォルニア、ブラジル、オーストラリア、そればかりでなくインド・中国で作られているのである。シャンパーニュ地方では年間3億5000万本のシャンパンを生産している。世界の新しい中間層の「泡のワイン」の需要はその10倍に上る。シャンパーニュ地方で供給できないものを、ブランドが作って「スパークリング・ワイン(発泡ワイン)」として市場に供給する。正直に言うと、この健康的で科学的なシャンドンは全く飲みやすいし、むしろ美味だ。たしかに、テクノロジーの賜物のシャンドンにはフランシス・ポンジュ(注5)が「ワインの秘密」と名付けたものの形跡が見あたらないのは事実である。しかしこれほど大きな規模でこういうことがどのようにしたら可能なのだろう? ワインの秘密はワインのもろさ、変わりやすさと密接に結びついており、グローバル化した取引には向かない。ワインを変質しにくくするために、ワインが硫黄成分でしっかり「守られる」ことが要求される。ワイン評論家のベタンヌとデソーヴ(注6)もそう強く言っている。この二人はワイン界の「ローレル・アンド・ハーディ」(注7)で醸造のご意見番コンビだ。ワインの変質を押さえるために血眼になっているワイン産業の研究者たちは幅広い種類の化粧品を使いこなす。


グローバルワインに抗する動き、《ビオ》


 2004年のカンヌ映画祭で紹介されたドキュメンタリー・フィルム『モンドヴィーノ』(注8)でアメリカの映画監督ジョナサン・ノシターは、世界全体に広がる競争社会の中でワインが他の商品と同じような物になってしまったことを示している。グローバル化したワイン産業のテクノロジーはブランドの力を使って世界中のブドウ畑にその支配力を拡大した。メドック、メンドーザ(アルゼンチン)、ナパ・ヴァレー(アメリカ、カリフォルニア)のタイル張りのワイン醸造所で、ブドウの搾り汁に酵母を加え、果汁の酸味を調整し、ワインに色付けあるいは脱色を施し、遠心分離器にかけたり、ろ過して、輸出向けラベルの貼られたボルドーの瓶に入れて商品化する。しかしテリトワール(生産地主義)の論理の中には多国籍の巨大資本に譲れないものが存在する。ジョナサン・ノシターはピレネー山地、シシリー島、アルゼンチンのブドウ栽培者を撮影しながら、このことを指摘する。グローバリゼーションにふさわしい矛盾だ。ブラジル、チリ、ウルグアイ、ギリシア、グルジア、セルビア、日本、中国に、近い将来ワイン産業の言いなりにならないワイン職人が出現するだろう。なぜなら、この自然派ワインいわゆる《ビオ・ワイン》の運動は、毎年、新しいワイン畑に拡がっており、それもまた、国際化して世界に拡がっているからだ。プリニウスの時代と同じように、熾烈な戦いが、農業製品としてのワインをめざす人たちと、ワインを商品と見ている人たちとを対立させる。プリニウスの頃と何も変わっていない。変わったのは、工業の出現・マーケティングの発達・市場の無限の拡大のせいで生産規模が変わっただけである。


 確かに世界中のあらゆる分野に拡大する資本主義に取りつかれたドクター・ストレンジ・ラブ(注9)たちが統一規格のワインを作ろうとしている。ちょうどミネラル分を除去して産地の特色をすべて消してからミネラル分を添加して世界中で販売される統一規格の水を作ろうとしているのと同じである。「巨大資本の望むことは、味覚の記憶を消し去ることだ」とかつてマルセル・ラピエール(注10)は語った。ラピエール氏はボジョレーで起きているワインの惨状に対してにわかに立ち上がった陽気なゲリラの即席隊長である。我々は巨大資本が世界に及ぼす力を憂え、その支配欲に不安になるし、その狙いにぞっとする。それと同時に、場所の特色も記憶もないそういう存在はプリニウスが以下のように指摘したことを忘れさせることになるとは思わないのである。「人はそれぞれには自分土地のワインにこだわる。どこに行ってもそれは同じことだ」。






(1) Voir Dominium Mundi. L’Empire du management, film de Gérald Caillat, sur un texte de Pierre Legendre, DVD Idéale Audience International - Arte France, 2007.
(2) Pline l’Ancien, Histoire naturelle. Livre XIV, texte établi, traduit et commenté par Jacques André, Les Belles Lettres, 1958, p. 24 et suivantes.同書2003年版も同様。
中野定雄・中野里美・中野美代共訳、『プリニウスの博物誌 第Ⅱ巻』、雄山閣出版株式会社、初版1986年、pp.594–623.
(3)クリュ・ブルジョワとは、ワインの格づけのひとつ。ボルドー地方メドック地区のワイナリーの格付け。その後、この格付けは廃止された。[訳注]
(4) Cf. Alice Feiring, La Bataille du vin et de l’amour. Comment j’ai sauvé le monde de la parkerisation, Jean-Paul Rocher éditeur, Paris, 2010.
原書はAliceFeiring, Battle for Wine and Love: or How I Saved the World from Parkerization, Mariner Books, 2009[訳注]
(5)フランスの詩人。[訳注]
(6)ワイン評論家。毎年フランス・ワイン格付けの本を出版している。
(7)「ローレル・アンド・ハーディ」はアメリカのサイレントからトーキーの時代に活躍したコメディアン・コンビ。筆者はこの批評家二人がこのコメディアンに似ていることから引き合いに出している。[訳注]
(8)ジョナサン・ノシター監督、『モンドヴィーノ』、2005年。2006年DVD化。
(9)スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』の登場人物。私利私欲に取りつかれて暴走する人の象徴として描かれる。[訳注]
(10)オーガニック・ワインの先駆者(1950-2010)。栽培地の個性を取り入れるため、化学肥料、農薬を使わない完全有機農法を取り入れた。人工的に酵母を加えるのではなくブドウの皮などに存在する土着の酵母でブドウを発酵させてワインを作った[訳注]。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年10月号)