特集「疑問視される教科書の正統性」


歴史教科書は操作するのか、されるのか?


ロランス・ドゥ・コック

高校の歴史地理教員。エマニュエル・ピカールと共著の歴史教科書がある。
Laurence De Cock et Emmanuelle Picard ,La Fabrique scolaire de l’histoire,
Agone, coll. «Passé & présent», Marseille, 2009.


訳:上原秀一


 教科書と教師、どちらが教室の主人公なのだろうか。教育現場では、教師は教材から距離を取る傾向にある。[フランス語版編集部]




 教科書は、黒板と紫インクが使われていた古い時代の姿とは似ても似つかぬものになっているが、それでもなお、人々にある種の不信感を抱かせ続けている。この不信感は、教科書を使ってどのような教育を子供に与えるのか、という当然の疑問から生じている。


 歴史の教科書に書かれている内容と教室で伝えられている事柄との間には何の関係もない、などと主張すればそれは言い過ぎになるかも知れない。しかし、他のあらゆる情報源と同様に、教科書も三つの側面から検証されるべきである。事前(作成の方式と担い手)、事後(教師と生徒による利用)、そして内容(歴史物語、提案されている学習活動、活用されている史料)の三側面である。そもそも、教育史や教育社会学などの分野では教科書を対象とする調査研究が数多く行われており(注1)、教科書に記載された物語と教室で伝達される物語との間には以前と同様に今日でもなお少なからぬズレが存在する、と指摘されているのである。


 1970年代中頃に、子供の自発性を重視した指導方法が歴史教育にも取り入れられるようになった。それ以前は、教科書は、直線的に進む長編物語をいくつかの史料を使って描き出すような形で構成されていた。それによって、教科書は教師主導の授業に適したものとなっていた。教師が語る物語を中心とした授業である。歴史教育は、一つの言説を信奉する姿勢を身に付けさせる上意下達の形式に支配されていた。まず言説を「物語」り、次にそれを「暗唱」させるのである。


 このような教科書の元々の形態には、教科書に書かれた物語と同じ物語を教師が語るに違いないという前提があったのかも知れない。しかし実際はまったく逆であった。例えば、もはや次のような主張を真剣にすることはできない。植民地の原住民の子供達が、「2000年前、私たちの国はガリアと呼ばれ、その住民はガリア人と呼ばれていました」(注2)などとつっかえながら読み上げていたなどいうことはないのである。各種の研究から明らかなのは、これとは反対に、植民地の教師たちが現地に順応する制度があったという事実であり、彼らは現地の文化遺産を守るよう公式に要請されていたという事実なのである(注3)。


生徒全員が同じ教科書を持っていた訳ではない


 これ以外の複数の研究もまた、19世紀第三共和政期フランス本土の小中学校における教育実践を取り上げて、当時の状況が地方毎に多様であったことを明らかにしている。こうした研究のおかげで、成立期の共和国において国民的小説が担っていた同化作用を過大評価しないで済むようになった。長期にわたって学校の歴史教科書を代表するとされていた『プチ・ラヴィッス』や『マレ・エ・イザック』といった有名な図書の影響についても同様である(注4)。例えば、長い間、一学級の生徒全員が同じ歴史教科書を持つという状況には至っていなかった。このため生徒にとっての歴史教科書の意義はさまざまであった。ある者にとっては授業の予習の道具であり、別の者にとっては個人的な読み物であった。歴史教科書は、知識伝達の媒体の一つではあったが、教育のかなめとなるほどのものではなかった。以上のような教育史研究の利点は、当時ジュール・フェリー教育大臣(注5)が作り出し今日もなお根強く残っている学校のイメージを部分的に解体してくれるということである。布教の武器を備えて、国家的なるものへの敬意に酔いしれた従順な若き愛国者を作り上げる学校、というイメージを解体してくれるのである。


 学校における歴史教育は、以後、内容面でも方法面でも新たな論理に従っていくこととなる。歴史教育には、歴史家と同じやり方で資料を分析する活動などをとおして批判精神の習得を支援することが、より一層強く求められることとなったのである。同時に、学校市場には出版業界が著しく集約し、最も繁栄した部門となった。小規模な出版社は消滅し、競争によって次第にそれまで道具だったものが製品へと変わっていった。説明の手段としても学習活動の補助としても、図像資料が文章資料に取って代わったのである。執筆陣は多様化し、中学高校教員の占める割合が増えた。これは教育方法に配慮して教科書が編集されるようになった証拠である。教育方法に配慮した教科書編集という目標は、さまざまな要求の間の板挟みに悩むこととなる。学習指導要領、市場、教員、そして生徒からの要求である。


パワーポイントとの競合


 最近になってデジタル機器が学校に導入されるようになり、情報通信技術(ICT)の教育利用が求められるようになる中、時に古くさい道具と揶揄される教科書の使用もその影響を受けている。歴史教科書も魅力がすべてだという至上命題に服従しているのだ。歴史的事実を語る物語は、多様な学習活動を行わせるページと比べると二次的な扱いとなることが多い。したがって、歴史教科書の中に支配的なイデオロギーの筋路を見出すことはほとんど不可能になっている。その内容は多方向に屈折させられているのである。


 教科書は、もはや単なる読本とはまったく違ったものとなっている。大流行のパワーポイントと競合しながらも、教科書は机の上に鎮座し続けている。しかし、それはもはや断続的にしか使われていない。授業の一部分で説明に使ったり、生徒に例を与えて自律的に学習させるのに使ったりするだけである。


 しかも、歴史地理教員の狭い世界には一つの伝統がある。教科書に示されている学習活動から距離を取るという伝統である。大部分の教師は、学習活動を自分で構想することを好む。確かに教科書の材料は使うが、学習課題は自分のやり方に合わせて考える。教科書のページを自分で手直しせずに使うことを受け入れる教師は少ない。多くの教師は、授業を組み立てるために複数の書籍を組み合わせる実践を行っているという。


 教科書が教室の「ブラックボックス」を象徴しているという幻想を抱かせるのは、おそらく、それが学校から家庭に持ち込まれる希少な歴史書の一つであり続けているからであろう。しかし、操作するというよりも操作されることの方が多いこの物体は、歴史を産出する巨大な学校装置から見れば一つの結節環でしかないのだ。






(1) Michel Berré, Florence Brasseur, Christine Gobeaux et René Plisnier (sous la dir. de), Les Manuels scolaires dans l’histoire de l’éducation : un enjeu patrimonial et scientifique, Centre international de phonétique appliquée, Mons, 2013 ; Eric Bruillard (sous la dir. de), Manuels scolaires, regards croisés, CRDP de Basse-Normandie, coll. « Documents, actes et rapports sur l’éducation », Caen, 2005.
(2)「ガリア」とは、古代ローマ人によるケルト人居住地域の呼称で、今日のイタリア北部、フランス・ベルギー全土、オランダ・ドイツ・スイスの一部に相当する。ガリア地方はフランス本土の人たちにとっては故郷の地だが、植民地に人たちにとってはそうではない。[訳注]
(3) Cf. Gilles Boyer, Pascal Clerc et Michelle Zancarini-Fournel (sous la dir. de), L’Ecole aux colonies, les colonies à l’école, ENS Editions, Lyon, 2013.
(4) Jean-François Chanet, L’Ecole républicaine et les petites patries, Aubier, Paris, 1996.
(5)ジュール・フェリー(Jules Ferry, 1832~1893)は、国民統合が課題となったフランス第三共和政期(1870~1940)を代表する政治家で、文相・首相・外相を歴任した。1880年代初頭の文相・首相時代に義務・無償・世俗を原理とする小学校制度を確立した。[訳注]


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年9月号)