特集「疑問視される教科書の正統性」


企業を讃える経済社会科教科書


シルヴァン・ルデール

高校教員(経済社会科)


訳:上原秀一


 かつては企業や経営者をけなしていた高校経済社会科の教科書が、今ではこれらを褒め称えるようになっている。40年前の教科書と今の教科書を比較すると、それがよく分かる。[フランス語版編集部]




実用的で啓蒙的で明るい教科書


 2011年にフランスで販売されていた高校経済社会科(注1)の教科書を見てみる。どこの出版社であれ——現在7社が出版しているが(注2)——、経済社会科の教科書は、いずれも鮮やかなカラーで強い印象を与えるものとなっている。パン屋の写真や有名ブランドのロゴなどが至る所に掲載されている。画像やイラストが豊富で、全体的に魅力的な印象を与える。参考図書からの抜粋や新聞記事の転載などの文章は、いずれも短い。明らかに、全体を実用的で啓蒙的で明るいものにしようとしているようである。


 一方、別の教科書を見てみると、それは、全体で約1,300ページほどもある分厚い6巻本である。6巻のうち、3巻は授業用、3巻は資料集である。写真がたまにあるが、図表は少なく、ときどきグラフがある程度だ。そして、参考図書からの(非常に)長い引用文がたくさん盛り込まれている。デュノ社の教科書である。1970年代に使われていた代表的な教科書だ。


 まず確認できるのは、これらの教科書が、レジス・ドゥブレの言う「活字の時代」(文字の時代)から「映像の時代」(イメージの時代)への変化(注3)を反映しているということである。しかし、これら二種類の教科書における企業の世界の説明ぶりに少しでも注意を払うならば、もう一つ別の違いが明らかになるだろう。前者が「社会的責任」や「対話」、「多様性」などを強調するのに対し、後者は、「資本と労働の対立」や「社会の分裂」、「経営者の権力」といった今では忘れ去られてしまった諸概念に読者の関心を引き寄せようとするのである。経営者の権力について、1970年代の教科書は、激しく情熱的な表現を使ってまで、ある種の社会階層を無くすことができると訴えようとしている。協同組合活動は、「労働運動の中で闘士としての資質と労働者としての資質を最大限に高めた人間性の在り方を作り出すものである」と主張するのである。


 1966年に経済社会科を学ぶコースが高校に創設されて以来、国民教育省は5年おきにこの教科の教育内容の基準を見直してきた。このため、担当教師は、その都度、新しい教科書を選ばなければならなかった。


企業をあたかも当然の存在と見なす


 フランス国立図書館では、教科書は重要な書物と見なされていないので、網羅的な調査を行うことはそもそも難しいのだが、1970年代に出版された経済社会科教科書は、同館とパリ教職学院図書館の書架を調べても、たった3種類しか見当たらない。2013年版の経済社会科教科書は、これよりも種類が2倍に増えている。しかし、その内容は、ほとんど多様化していない。二つの時期はどれくらい隔たっているのだろうか。50年に満たないのである。経済的・社会的な事象の説明に関しては変化が見られないわけだ。


 昔の教科書も今の教科書も、企業の機能の仕方——会計の基礎、ミクロ経済の仕組み、生産の組合せを多様化する可能性など——に関する情報を提供しているが、昔の教科書は、企業の社会における位置付けにも関心を払っていた。そしてそれは、歴史的なアプローチによってなされていた。


 フランソワ・ペルー(1903~1987年)は、レイモン・バール元首相(注4)を自らの理論的な後継者と見なしていた経済学者である。ペルーによれば、「企業は資本主義の小宇宙であり、資本主義の基本的制度である」(注5)。企業は、過去30年ほどにわたって前例の無いほどの再評価と地位向上の対象となってきた。教科書もこの現象を反映している。数年前から、女性経営者のソフィー・ドゥ・マントン氏が率いるETHICなどの経営者団体が、勤労者に対して「自分の職場を愛する」ように強く働きかけている。この動きが高校にも広められ、生徒たちは企業をあたかも当然の存在と見なすよう促されるようになっている。


「生産性という重要概念」、「利益を増やすためにコストを下げる」…


 しかし、以前からずっとそうだった訳ではない。1960年代の教科書には、企業を経済史全体の中に位置付けようとする配慮があった。この配慮によって強調しようとしたのは、企業は社会的なプロセスに由来するものであって経済的な必要性に従うものではない、ということであった。今日の教科書は、これとは逆の前提から始める。資本主義的な企業の存在が疑問に付されることはほとんどない。企業が誕生した際の葛藤よりもむしろ、企業が直面している「制約」の方に関心を向けることが好まれている。


 昔の教科書は、企業の特徴を「経営者」の存在によって説明していたが、この「経営者」という言葉は約50年後に消滅した。「経営者」よりも「起業家」や「生産者」という言葉が好まれるようになったのである(新古典派経済学のモデルに倣って)。これは、企業を技術的な次元に戻してしまうことで経営を脱人格化する用語法である。例えば、次のような題名の章が数多く見られる。「利益を増やすためにコストを下げる」、「収入と生産コスト」、「生産性という重要概念」、「資本と労働の組み合わせ効率」、「企業はいかに生産するか」などである。もはや企業は特定の個人によって作られたものではないかのようだ。


「ビジネスの倫理」が「生産手段の所有」の問題に取って代わる


 また、昔の生徒は、企業経営をより平等にするための方法を考察するよう促されていたが、今ではそれも忘れ去られた。デュノ社の教科書を使っていた高校2年生は、例えば次のようなことを学んでいた。「企業の経営に参加することは非常に重要な問題である。(…)その前提は、企業の経営組織に労働者の代表を参加させ、経営方針を共有しうるものとすることである。(…)このことは、企業の中だけではなく、今日の資本主義の在り方においても計り知れない重要な帰結をもたらす」。この教科書の著者は、「労働者が企業の資本の相当な部分を手中に収めることも必要かも知れない」とまで主張しているのである。


 2000年以降の教科書は、もはやこのような関心を表明することはない。企業の歴史は無くなり、(アップル、フェイスブック、ルノーといった)「大成功」の物語がそれに代わった。フェイスブックの創設者マーク・ザッカーバーグのような著名な経営者の姿が提示されるようになった。


 確かに、生徒たちは、企業がどのように機能するのかを理解し、どのようなコスト基準によって生産量が定められるのかを理解するだろう。しかし、企業は、生徒たちにとって、「インプット」(資本と労働)と「アウトプット」(生産物)の間のブラックボックスのようなものに見えるだろう。そして、実際の生産物のコストを計算できるようになったり、ルノー社の決算書を読んだり、…あるいは「自分の」小さな会社を作ったりすることもできるようになるかも知れない。


 「企業は、できる限り大きな金銭的利益を上げることを目的としている。(…)最大多数の消費者の欲求を満たそうとしている訳ではない。企業は道徳と無関係だと言っても過言ではないだろう」。このような1960年代の教科書における定式化は、フランス企業運動(MEDEF)のピエール・ガタズ新会長のお気には召さないだろう。しかし当時は、この定式化に対して抗議の声は上がらなかった。「収益の寄付」、「賃金の構成」、「生産手段の所有」といった問題は、今や「ビジネスの倫理」や「企業の社会的責任」といった問いに取って代わられた。こうした問いは、障害者雇用率や「多様性」への配慮などから説明されている。


 複数の小さな物語を賞賛するために企業を歴史から切り離す。これが新しい経済社会科教科書の意図であるように見える。しかし、イギリスの自由派週刊紙『エコノミスト』にとっては、これでもまだ十分ではないようだ。去る7月6日、同紙は、フランスの高校生に与えられている教科書を揶揄して、「いまだに社会的分裂が学習の中心であり続けている」(注6)と述べているのである。






(1)フランスの高校には普通・技術科高校と職業高校の2種類がある(いずれも3年制)。高校進学率はほぼ100%であり、普通・技術科高校に約7割、職業高校に約3割の生徒が在学している。普通・技術科高校は、第1学年は共通の教育課程で、第2、3学年は普通科3コースと技術科4コースに分かれている。普通科3コースとは、経済社会コース、文学コース、科学コースである。経済社会科は、経済社会コースの生徒が週5時間履修する教科である。経済社会コースには、普通・技術科高校2、3年生の約2割が在学している。なお、我が国と異なり、フランスの学校には教科書の使用義務が課されておらず、国による教科書検定の制度もない。[訳注]
(2)ブラン社、ボルダス社、ブレアル社、アシェット社、アティエ社、マグナール社、ナタン社の各社。
(3)レジス・ドゥブレ(Régis Debray, 1940-)は、メディオロジー(メディア論)の提唱者として知られるフランスの哲学者である。彼は、支配的なメディアの形態に応じて歴史や社会を分析する理念型として、文字の支配する「言語圏(logosphère)」、印刷術の支配する「文字圏(graphosphère)」、視聴覚メディアの支配する「映像圏(vidéosphère)」の三区分を提唱した。レジス・ドブレ(嶋崎正樹訳)『メディオロジー宣言』NTT出版、1999年を参照。[訳注]
(4)レイモン・バール(Raymond Barre, 1924-2007)は、フランスの政治家・経済学者である。ジスカールデスタン大統領の下で1976年から1981年まで首相を務めた。[訳注]
(5) François Perroux, Le Capitalisme, Presses universitaires de France, Paris, 1951. フランソワ・ペルー(金山康喜訳)『資本主義』白水社、1952年。
(6) «Class struggle», The Economist, Londres, 6 juillet 2013.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年9月号)