アル・カポネの盗聴をアメリカ人は認めなかったのに


盗聴の社会史



デヴィッド・プライス


(ワシントン州レイシー・セイントマーチン大学人類学教授)


著書『兵器人類学、軍備国家の社会科学』
David Price, Weaponizing Anthropology : Social Science in
Service of the Militarized State
, AK Press, Oakland (Etats-Unis), 2011


訳:井形和正


 ワシントンが強力な盗聴システムを操っていると知っても誰も驚かなかった。しかし、エドワード・スノーデン情報によってこのシステムの拡がりぶりが十全に暴かれたことは世界的なスキャンダルとなった。一方米国では、このニュースはあまり関心を持たれていない。電話盗聴事件が国民、メディア、それに電話通信企業を怒らせた時代は過ぎ去ったのである。9.11以降、アメリカの盗聴に対する考えは変わってしまった。[フランス語版・日本語版編集部]





アメリカ人はいつから盗聴に同意したのか?


 国家安全保障局(NSA)の電子技術を用いた監視計画をエドワード・スノーデン氏が大々的に暴露したことは、市民生活へのアメリカ情報当局の介入を引き起こした。しかし、電話線やインターネット・ナビゲーションを元にしたメタデータの取得といった問題以上に、この事件はきわめて気がかりな別の実態を明らかにしている。すなわち、ほとんどのアメリカ人は私的な電子通信の調査に同意しているのである。スノーデン氏発言の数日後に実施された『ワシントン・ポスト』紙の調査によれば、人口の56%は、《プリズム監視計画》は「受け入れられる」とし、45%は、国家は「テロリズムに対して闘うためならば誰のメールであろうと監視することができる」ようにしなければならない、としている。さほど驚くべき結果ではない。10年以上前から、メディア・専門家・政治家は、テロリズムに対する戦争に必須な武器として盗聴・監視をいつも推奨しているからだ。


 スパイ行為に対するこのような同意は、常に米国に存在していた訳ではない。9.11テロの数週間前、日刊紙『USA トゥデイ』は見出しをつけていた。「アメリカ人10人のうち4人はFBIを信用していない(2001年6月20日)」と。数十年間、法務省の継続調査によると、国民は公権力による電話盗聴に対して激しい反対を示してきた。1971年から2001年の間に、反対の率は70%から80%の間を変動していた。しかし、世界貿易センターと国防省へのテロ攻撃、ついで大統領ジョージ・W.ブッシュの対テロ戦争は情況を変えた。戦争のせいで、アメリカ人は長年続いた市民監視反対を急にやめることになったのである。


 1877年、世界には電話線は1本しかなく、その電話線でボストンとセイラム(マサチューセッツ州)間の778の電話機をつないでいた。しかし、この科学技術は絶え間なく普及していった。20世紀初頭、アメリカ人1000人のうち1人が電話を所有していた。20年後、比率は1%を超えた。20世紀半ばには、国民の3分の1が電話を所有していた。今日、米国には住民数以上の電話がある。20世紀末に光ファイバーと携帯電話が姿を現す前、盗聴には電気通信会社側の精巧度の低い技術手段と僅かな共謀関係が必要なだけであった。銅線製の1本の電話線から会話を記録するには、電話線に接近し、ワニ口クリップを使ってマイクをつなぐだけで十分だった。


 盗聴に関連した初期のスキャンダルは20世紀初頭に遡る。第1次世界大戦間に国民から非難されたこの行為はあまりに広まったので、外国のスパイが真の脅威をもたらしたにもかかわらず、連邦議会はこれを違法と宣言した。戦後、多数の米国諸州はこの行為と足並みを揃え、地方警察の監視能力を制限する法律を採択した。


 それでもこの行為が長く続いたことに変わりはない。禁止期間(1919年―1933年)でも、地方および連邦警察はアルコール生産者・販売業者・消費者と連絡を取るために電話を使う密輸入業者を監視しようと考え、会話を録音して定期的に法律を破った。世論の圧力を受けて、1924年に米国検事総長ハーラン・F・ストーンは動揺し、法務省に盗聴の実施を禁じた。これは無駄な骨折りであった。財務局と調査事務局――FBIの始祖――はストーンの決定をほとんど尊重せず、秘密裏に活動を継続した。


オルムステッド会話盗聴事件


 2年後、新たな事件のおかげでこの問題で議論が沸騰した。シアトルで連邦職員がラム酒の不正取引の疑惑があった元警察代理官ロイ・オルムステッドの会話を盗聴した。盗聴の違法性にもかかわらず、司法当局は警察の主張を認め、オルムステッドに刑を宣告した。この決定は法廷すずめをざわめかせた。この時、裁判官フランク・ラドキンは、犯罪の恐れがあるからといって警察の違法行為を認めることはできない、と主張した。「いかなる連邦職員も他人の電話での会話を盗聴し、当人の意思に反して利用する権利はない。このような手口は嘆かわしいものであり、認められない。私たちの祖先は自分たちと子供たちのために自由と繁栄の保証された国をつくろうとしたのであり、こうした手口を受け入れることは、祖先の意志が失敗だったと認めることに帰着する」(注1)。


 1928年、オルムステッドは米国最高裁にこの事件を上訴した。彼はシアトル太平洋電信電話会社などの企業の支持を受けた。これらの企業は、密輸入者が盗聴されずに議論できる権利を守るとの声明を発表した。「2本の電話線が(電話会社の)センターで繋がる時、電話線は2人の利用者たち専用となる。その意味で、2本の電話線は利用者だけに排他的に属する。電話線を監視する第三者は利用者2名の所有権と電話会社の所有権を侵犯している」(注2)。今日では、インターネット・プロバイダーや通信会社が顧客の私生活の権利を守っているとは想像し難い。スノーデン氏に非難されて、フェイスブック、グーグル、MSNとその一味は、何も知らないふりをした…。


 最高裁は最終的にオルムステッドに対して、5対4で有罪の裁定を下した。裁判官の1人であったルイス・ブランデイスは、この決定に対して強固な反対を表明した。彼は論じる。「この種の犯罪は感染しやすい。もしも国家が違法行為に手を染めるならば、他の国家にも同じようにするよう促すに等しい。国家がアナーキーな状態へと誘っているのだ。犯罪との闘いにおいて、目的は手段を正当化する――犯罪人を有罪にするためには、国家は犯罪を行っても構わない――と明言することは恐ろしい結果をもたらす。最高裁は断固として、このような危険な見解と対決しなければならない」(注3)。


1940年代のアメリカ人の盗聴への同意


 アメリカ人のまなざしは1940年代に変化した。戦争が起き、更に、電話はもはや行政官が交際し保護するエリートの専有物ではなくなった。電話は庶民階級に手の届くものとなった。このことによって、公権力は盗聴の合法性問題を再検討するに至った。米国の戦争突入の直前に、FBI長官ジョン・エドガー・フーバーは連邦議会に対して、電話監視について新たな特権を要求した。連邦通信委員会(FCC)会長ジェームズ・フライの反対にも拘らず、フランクリン・D. ルーズベルト大統領は秘密裏に法務省に対して「国家を転覆する」個人とスパイらしき者を監視することを許可した。


 社会転覆についてのフーバーの概念がかなり広義なものであり、彼は手中に収めた新たな権力をナチス調査だけに利用したのではなかった。彼の助手であるウィリアム・サリヴァンは、FBIは戦中は定期的に令状なしで盗聴を実施したと語る。彼は説明していた。「危険にさらされている国家の将来を考えると、ワシントンの同意を得ることは無益な手続きでしかありませんでした。(紛争の終わりの)数年後でも、FBIは検事総長の許可なしに会話の盗聴を続けていました」。換言すれば、米国の盗聴の歴史は、FBI職員が次第に当初の使命――ナチスのシンパを追い詰めること――から逸れていき、公民権の活動家・組合の指導者・ソーシャルワーカー・進歩主義キリスト者・共産主義の疑いのある人物を誰彼構わず監視していった変化とつながっている。


 1950年以降、反共産主義者の上院議員ジョセフ・マッカーシーによって開始された赤狩りの一環として、FBIは冷戦で吹き込まれた不安を利用し、違法な盗聴を拡大した。法律との少々の調整を許可しなかった裁判所との対立も、ものともしなかった。たとえば、KGB――ソ連の秘密機関――のスパイであった被告人ジュディス・コプロンの控訴審の折りに、FBIは被告人と彼女の弁護士の会話を録音したことを暴露した。結果、控訴裁判所は第一審の有罪判決を破棄した。


アメリカ人市民の政治活動に対する監視キャンペーン


 1972年のフーバー死亡後の数年間に、FBIと中央情報局(CIA)によるアメリカ人の私生活への違法な介入について新事実が暴露された。1975年、チャーチ委員会とパイク委員会(注4)は、全く合法的な政治活動に参加した市民を標的とする大々的な監視活動を明るみに出した。この事件は新聞の第一面となり、世論は沸き立った。しかし、連邦議会は調査をすぐに放棄した。


 1978年に新たなスキャンダルが起きた。上院の諜報小委員会の尋問の折に、元CIA電話通信技師デヴィッド・ワターズは、米国であれ海外であれ、NSAは数千の電話の会話を監視し録音していると断言した。この証言は国民に怒りをもって迎えられた。しかし、何をしても無駄である。1978年10月、大統領ジェームズ・カーターは、外国情報監視法(FISA)を発布した。これによって「国家の安全」を監視するための合法的な秘密機関が確立されることになる。諜報部門の勝利である。諜報部門は盗聴の合法化のために数年前から闘ってきたのである。この法律の枠内で認められた許可の数は年とともに絶えず増えた(1980年の322件から2006年の2,224件まで)が、却下の数は常に呆れるほど少なかった。1979年から2006年の間では、22,990件の申請のうち、わずか5件であった。


 インターネットは当初、軍人と研究者だけに利用されていたが、大衆への公開は新たな問題をもたらした。1986年の「電子通信におけるプライバシー保護法」の採択まで、電話線で流通するメールの傍受は合法的であった。この法律によって、電子通信は電話会話と同様の合法的保護を受けるようになった。


デジタル・テレフォニー法の可決


 1994年、多数のアメリカ人がデジタル・テレフォニー法を告発した。この法律は、裁判所に認可された盗聴を容易に行えるように光ファイバーを装備することを強制するものである。米国自由人権協会(ACLU)と電子プライバシー情報センターは法案の反対運動を組織した。全国で本法案の自由侵害的な性質を告発するための手紙が新聞社に送られた。しかし、1927年のオルムステッドの控訴以来、時代は変わった。電話通信産業はデジタル・テレフォニー法を全力を挙げて支援し、結局、同法は可決された。国民が全く気づかないうちに、ロナルド・レーガン、父ジョージ・ブッシュ、ウィリアム・クリントン各大統領の政府は次々と、より重要な盗聴の実施ばかりでなく、企業による個人データ収集をも許可した。司法は文句をつける気がなかった。


 1990年代の終わりにも多くの訴訟事件が起きた。NSAは国際電話線の盗聴及びパスワード分析のためのコンピュータ利用のかどで非難された。同時に一連の訴訟が開かれ、業務上のメールが私信や電話の通話と同様に保護の恩恵に浴するべきか否かを決めることになった。しかし、大半の裁判官はインターネットの機能について全く知らなかった。彼らは電話での会話と同様にメール交換にも機密性を期待できると理解するのが苦労だった。


9.11以降の動き


 1990年代初頭に、もし司法権がメールは電子封筒以外のなにものでもないと考えていたならば、今日、米国は極めて異なった国になっていたかもしれない。オルムステッド訴訟時の召喚状の中で判事ブランデイスは電話と郵便物を対比していた。その時点で彼は断言していた。「封印された手紙と私的な電話による通信の間に実質的な違いはない」。しかし、9.11以降の世界では、同じ論理を用いて電子郵便物を保護できる可能性は少なくなっている….。


 2001年10月26日の愛国法は、連邦国家によって行われた電話盗聴に対するいくつかの司法上の制限――チャーチ委員会後に実施された――を取り除いた。愛国法は、諜報機関がアメリカ市民を盗聴することを妨げる制限をも取り除いた。例としては、被疑者の移動を監視できるよう密告者の利用を承認したり、オンライン上のメールや活動を大規模に監視することを許可する、などがある。2003年、国土安全保障省(Department of Homeland Security)の設立に伴って、国家は諜報活動を連携させる中央集権的機関を備えることになった。この機関が所有する手段は、フーバー長官さえも決して夢想したことがないようなものであり、個人監視を前代未聞のレベルにまで引き上げるものである。


 1世紀の激しい対立のあとで、アメリカ社会は、機密性への権利を放棄することを学んだ。こうした対立の過去を忘れがちな一部の国民の中では、テロリズムへの恐怖が巧みに保たれたばかりでなく、「無実の人々」の権利は尊重されるだろうという約束が重視された結果、私生活と市民的自由を保護しようとする希求に打ち勝ったのである。






(1) «Minority opinion on the appeal of the Olmstead defendants», Cour d’appel des Etats-Unis pour le neuvième circuit, San Francisco, 9 mai 1927, http://www.fjc.gov
(2) «Amicus curiae brief of telephone companies submitted to the Supreme Court in Olmstead v. United States», Cour suprême des Etats-Unis, Washington, DC, 1928, http://www.fjc.gov
(3) «Dissenting opinion of Justice Louis D. Brandeis in Olmstead v. United States», Cour suprême des Etats-Unis, 1928, http://www.fjc.gov
(4)リチャード・ニクソンに対立する民主党上院議員フランク・チャーチの名を持つ前者委員会は、CIA活動を調査するためにウォーターゲート事件後に設置された。下院議員で同様に民主党員であるオーティス・パイクの名前を持つ後者委員会は議会内において、前者委員会と同種の活動を行った。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年8月号)