アルジェリア独立戦争を生きた闘士たちの回想録


本紙特派員:ピエール・ドーム

(ジャーナリスト)


訳:川端聡子


 何十年ものあいだ、アルジェリア戦争の記録はフランス人歴史家——そしてフランス人証言者たち——によって独占されていた。だが、ここにきて8年にわたり植民地主義に抵抗し続けたムジャヒディーンや「ジウヌー」(兵士たち)の回想録が次々と出版されている。限界はあるものの、こうした数々の記録によって、「公式な」アルジェリアの歴史という重石が除かれ始めた。しかし、いくつかのタブーは存在し続けている。[フランス語版編集部]




溢れでる膨大な「記憶」


 アルジェの中心部、植民地時代からその名を留めるヴィクトル・ユゴー大通り。椰子の樹茂るこの広い幹線道路は、ディドゥーシュ・ムーラッド通り(旧ミシュレ通り)の下手にあり、ここには首都アルジェでもっとも居心地のいいカルチャー・スポットが存在する。「カリマト書店」だ(「カリマト」はアラブ語で「言葉」の意味)。一組の夫婦が店に入っていく。60歳くらいだ。アメルが満面の笑みで迎える。


 「で、今週はなにか新しいものが入りました?」


 「第1ウィラヤ[第1軍管区、すなわちオレス山地]司令官の回想録、それからアッバーン・ラマダーンに関する本、それにALN[アルジェリア国民解放軍]諜報組織の元指揮官の戦時中の記録です」


 「わかった、全部もらうよ!」


 「独立後もアルジェリアに残留したピエ=ノワール[アルジェリア植民地時代のヨーロッパ系の植民者を、のちにこう呼ぶようになった——訳注]の夫婦、ピエールとクロディーヌ・ショレの本はもうお読みになりました?」と、この若い女性店員が訪ねる。 


 「それなんだけど、この前に来た時は売り切れてたんだ。あるなら最高だよ!」


 カリマト書店のオーナーであるファティハ・ソアルは、こう説明する。「お客さんはこんな調子で、一日に何十人も来ます。アルジェリアの歴史に関する本は、戦時中だけでなく、その後のベン・ベラやブーメディエンの時代についても、出るものすべて読みたがっています。で、そういった内容の新刊が毎週出るものだから切りがないんです!」。


 ここ数年の間、アルジェリアで驚くべき現象が起きている。100人近いかつての抵抗運動の闘士たちの回想録が出版されているのだ。「解放運動の大物については、すでにこれまでに回想録が出版を出版しています(注1)。しかし、下士官やただのジウヌー[一兵卒たち]の観点で語られた話が出版されるのは画期的であり、まさしく異例のことです」。こう語るのは、歴史家で、自身も元民族解放戦線(FLN)フランス支部メンバーであったムハンマド・ハルビだ。現在、自らの半生と政治参加について綴った本の第2巻を執筆中である。


 これらの書物はいったい何を語っているのか? 多くは戦争の実体験であり、アルジェリアのゲリラ兵たちが祖国解放のため戦った7年半(1954~1962年)に、日常的に体験した微細な出来事の数々である。乏しい物資、敵の待ち伏せ、検挙、そして拷問といったこれらの話を繋ぎあわせることで、パズルの面が作られて、一部のピースが欠けていたり誇張はあるにしても、アルジェリア側から見た闘争の生々しい全体像を伝えてくれる。「近代史学の研究機関では、文献による情報が過大評価されています」。30年来綿密な研究を続け、ジウヌーの記録を収集している歴史学者のダホ・ジェルバールは言う(注2)。「詳細な客観的事実は、検証可能、かつ整理され公文書保管庫リストに記載された記録文献に基づくものとされています。しかし、私はそうは思いません。その大きな理由は、そうした文献資料の大半は概してアルジェリアを占領していたフランス植民地政府当局か、あるいは植民地軍将校たちによるものだからです」。だからこそ、一介の兵士たちの回想録はこれまでの偏りを正すためにも重要なのだ(注3)。


メッサリ・ハッジからアッバーン・ラマダーンまで


 こうした山岳地帯のジウヌーの物語から得られた収穫は、ほかにもある。それは、1962年に権力を掌握した者たちが、ほとんど抵抗運動を体験していなかったという事実だ。戦争中、モロッコやチュニジア国境の軍隊にいたり(ブーメディエンのように)、フランスで投獄されていたり(ベン・ベラのように)したのだ。この40年間、アルジェリア人が独立戦争について語ることは、彼らのような権力者によって規制され、戦争の当事者である兵士たちに語る場が与えられることは、ほとんどなかった。


 歴史家たちは、こうした数々の記述から本当の「新事実」を引き出すことができるのだろうか。アルジェリア研究の新世代の旗手の一人、ラファエル・ブランシュは言う。「こうした証言のいくつかを研究に用いることはあります。でも常に慎重を期し、必ず別な情報源からの情報と対照しています」。たとえば、FLNとMNAのメッサリ主義者たちの対立による身内同士の殺し合い——長らく秘密にされてきた——(注4)について、オレス山地の英雄、アミルーシュ・アイト・ハムダ大佐の元秘書であるハム・アミルーシュは、自身の回想録でこう記している。「誰もが知るように、この戦いでアミルーシュ大佐の異常さと残忍さは極みに達した。ムシラの街に近いベニ・イルマン[メルーザ村]で、男・女・子供ら300人以上の村人を殺戮したのである」(注5)。果たしてこれは新たな発見だろうか。むろん、そうではない。むしろ歴史家がすでに知っていることに対し、確証を与えるものである。


 また、別の例もある。この件に関して相当数の本が出版されたにもかかわらず、アッバーン・ラマダーンの死についての正確な状況は今もって闇の中だ(注6)。カビリー地方出身のラマダーンはFLN政治部門の指導者で、1956年8月にスンマーム会議を招集したが、1957年にモロッコで暗殺された。40年もの間、「フランス軍の手にかかって死んだ」シャヒード(殉教者)とされていたが、アルジェリアではすでに仲間に殺害されたことが認められている。最新版の『アッバーン・ラマダーン 究極の独立の父』(未邦訳)Abane Ramdane, finalement le père de l’indépendance, Thala éditions, 2009.で、元FLNメンバーのカルファ・マムリはある疑念を強めている。「信憑性の高い推測、でなければ否定しがたい証拠」によれば、実行犯は彼に付き添っていた3人だったのではないかというのだ。その3人とは、すなわちベルカースィム・カリーム、アブドゥルハフィード・ブースーフ、ラクダル・ベン・トバルである。しかし、著者はそれ以上の情報はなにも書いていない。


 新事実とは、アルジェリアにおいて、長年タブーだったこれらの問題について堂々と語られるようになったことである。ガラリと一変した世の風潮のなか、かつてもっとも取り扱い注意とされていた事柄が一番人の口に上るようになったのだ。「毎年アッバーンに関する新刊が出ます。爆発的な売れ行きは想像に難くないでしょう」。こう予言するのは、ティージー・ウズーにある書店、Ahouidh(ベルベル語で「苗床」の意味)のオーナー、タハル・ダフマル氏だ(注7)。こうした出版ラッシュが、アルジェリアの表向きの歴史が作り上げた大きなタブーを破らせた。少なくとも緩和させたのである。アルジェリア民族主義の父であるメッサリ・ハッジは、1954年の武装蜂起に異論を唱えたため長らく教科書からは排除されているが、彼については数多くの本が出版されている(注8)。フランス秘密警察のFLN撹乱計画(注9)によって、裏切り者の嫌疑をかけられた数百名の抵抗闘士たちが死に追いやられた問題についても、しばしば言及される(注10)。また「スィー・サーラフ事件」についても同様である。第4ウィラヤ(アルジェロア)の元指揮官、スィー・サーラフは、1960年6月にド・ゴール将軍との交渉を水面下で進めていた。この「裏切り行為」はFLNによって阻止され、追随者らも葬り去られたのだった(注11)。加えて、1962年の夏に起こったFLN指導者間の主導権争い等である。


タブーと回顧の狭間で


 こうした証言本に共通の弊害となっていることがある。歴史家のジル・マンスロンは言う。「多くの人々が、さまざまに特定の人物を擁護していたり、あるいはあっちのウィラヤよりもこっちのウィラヤのほうが重要な役割を果たしていたと主張しますが、こうしたことは不毛な論争を引き起こしかねません。部族主義です」。たとえばカビリー地方では、ラマダーンという大人物が熱狂的な支持を受けている。第3ウィラヤ(カビリー地方)で指揮を執っていたアミルーシュ大佐は1959年3月に戦死したが、やはり極めて人気のある人物のひとりだ。「彼にFLN撹乱計画に協力した責任の一端があるにしても、カビリーでは極めて好まれている英雄であることに変わりありません」と、ティージー・ウーズーの老舗書店店主のオマル・シェイクは言う。サイード・サアディの著書『アミルーシュ その生涯、二人の死、遺書』(未邦訳)Amirouche, une vie, deux morts, un testament はブースーフとブーメディエンの支配下にあった当時のアルジェリア国境の軍隊による陰謀説が基となっており、2010年3月に出版された際、メディアで大きく騒がれた。


 しかしながら、書き手たちが一定の限度を超えることはない。「今でもFLN撹乱計画の全貌について出版する勇気はありません」と、社会学者でカスバ・エディシオン社を運営するムスタファ・マディは言う。「2005年に、そうした本を出したいという人の訪問を受けました。ですが、あまりの実名の多さに契約を断りました。つまり、『XがYを拷問した』等々の記述です」。シャイード[殉教者]たちの遺族の気持ちを考えてみて下さい。彼らは自分の父親がフランス人の銃弾で殺されたと信じているのに、それが同国人に処刑されたと知らされるだなんて! アリ・カフィ(注12)でさえ実名を出したりはしていません」。


 タブーとなっていることを話すのと、そうした事柄を研究対象に選ぶのとは、別な話である。歴史的記録の相次ぐ刊行にもかかわらず、教育研究機関ではひたすら無視するか、ともかくアルジェリア人歴史家たちは極めて消極的だ。大学でこうしたテーマを研究課題に選択する博士課程の学生は皆無である。加えて、初めてアルジェリア独立後の血なまぐさい内戦に対しての学術的研究がなされるのは、2010年からであり……それもパリ第7大学に在学するアルジェリア人学生の論文を待たねばならなかった(注13)。


 アルジェ大学で「当たり障りない」テーマの学位論文を執筆中のある学生が、学友が聞いていないのを確かめてから、声を落として言う。「お話ししましょう。大学ではいくつかの話題が未だに禁じられたままです。たとえば、アルジェリア中で村人を惨殺したムジャヒディーンの存在についてです。村人たちがフランス人に情報を流したことが疑いがある、ただそれだけの理由で殺したんです。このように、調査も訴追もなかったのです。こんな話をすれば、私は即刻裏切り者扱いされてしまいます!」。


入り交じる主観、そして検証不足


 これほど自由に回想が語られているにもかかわらず、少なくとも3つの問題については手つかずのままである。第一には、アルジェリア人死者の数である。1962年の公式発表では150万人とされたが、フランスの学術機関は40万人と推算している——多くのアルジェリア人歴史家がこの[フランス側の——訳注]数字を、非公式にだが認めている。もうひとつは、アルジェリア国民の何割が戦争に加わったか、である。50年来、公式の記録では「アルキ」と呼ばれる数人の裏切り者を除き、すべての国民がフランスの圧制に対して立ち上がったという教えを強制している。アルキの数は、私たちが普通認識しているよりも多い――歴史家のフランソワ=グザヴィエ・オトルー(注14)によれば20万から40万人である――。最後にもうひとつ、アブデルアジズ・ブーテフリカ大統領の解放戦争への参加についてだが、誰も進んで語ろうとはしない。


 こうしたすべての証言によって、ようやくアルジェリア人たちは悲願である真実の歴史を手にすることができるのだろうか。列挙された数々の回想録がときに矛盾し、大きな混乱に帰してしまうので、そうとは言い切れない。アルジェリアで20紙ほど発行されているフランス語・アラブ語の日刊紙を読めば、以下のことは明白である。膨大な回想録は、驚くべき第二の現象をももたらしている。つまり、ジャーナリズムが、あれこれと歴史的な記念日にかこつけ毎日のように長い寄稿文を掲載し、これまでゆがめられてきた事実を告発する新たな記事を載せているという現象である。しかし、どの寄稿者も、(出典の引用、豊富な情報源やその比較検証といった)歴史学的な厳密さを自らに課してはいない。そうした記事には、事実が誤謬や主観的解釈と混在していることも多い。膨大な記憶の雪崩に埋もれたアルジェリア人歴史家たちは、自らの声を上げるための苦難を味わっている。






(1)ラクダル・ベン・トバルを除く。第2ウィラヤ(北コンスタンティノア)の元管理官であった彼については回想録が編まれたが、未刊行となっている。
(2)ダホ・ジェルバールは近著としてL’Organisation spéciale de la Fédération de France du FLN, Chihab, Alger, 2012.がある。
(3)アルジェリアの保管する資料はあるものの、特にアルジェリア内務省保有のものについては今でも閲覧不可。これらはフランスの保管資料よりも量的にかなり劣っており、非公開のままである。
(4)アラン・リュシオ「メッサリ・ハッジ、アルジェリア独立闘争の忘れられた父」、ル・モンド・ディプロマティーク日本語版2012年6月号を参照。
(5) Hamou Amirouche, Akfadou. Un an avec le colonel Amirouche, Casbah éditions, Alger, 2009, p. 173.
(6) Lire Ali Chibani, «Le “crime inavoué” de l’histoire de l’indépendance algérienne», La valise diplomatique, 16 juin 2010, www.monde-diplomatique.fr
(7) Son neveu Belaïd Abane vient de publier Ben Bella – Kafi – Bennabi contre Abane : les raisons occultes de la haine, Kourou, Alger, 2012.
(8)初めてアルジェリア人によって書かれた重要な書物として、Messali Hadj, le Zaïm calomnié, Ammar Nedjar, Dar Al-Hikma, Alger, 2003.が挙げられる。1982年フランスでシコモア社より出版されたバンジャマン・ストラによるハッジの伝記は、1991年にアルジェリアでもラハマ社より公刊された。その後、1998年にはアラブ語訳もカスバ・エディションより出版されている。
(9)1957~1961年までフランス秘密警察(Services secrets de français)により「アルジェ自治区」全域において実施された情報撹乱計画。拷問による各ウィラヤの指導者の密告等により、疑心暗鬼となったALN内部に粛清を引き起こすこととなった。映画『アルジェの戦い』(イタリア/アルジェリア、1966年)にも描かれる。[訳注]
(10) Cf. par exemple Salah Mekacher, Au PC de la wilaya III de 1957 à 1962 (à compte d’auteur), Algérie, 2006.
(11)スィー・サーラフ本人は、1961年のフランス軍による爆撃で亡くなった。Cf. les Mémoires de Lakhdar Bouregaa : Témoin de l’assassinat de la révolution (en arabe), Dar Al-Hikma, Alger, 2010.
(12)アリ・カフィは、第2ウィラヤの元指揮官。Du militant politique au dirigeant militaire. Mémoires (1946-1962), Casbah Editions, 2002.の著者。
(13)アマル・モハンド・アメルが2010年に合格した博士論文「1962年夏、FLNの危機」のこと。メッサリ主義の指導者たちの足跡を深く掘り下げた研究としては、パリ第1大学、ネジブ・シディー・ムーサによる論文の完成が待たれている。新たな潮流として、英米圏の大学における植民地時代アルジェリアの先端的な研究が増加している。
(14) François-Xavier Hautreux, La Guerre d’Algérie des harkis, 1954-1962, Perrin, Paris, 2013.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年8月号)