有刺鉄線の哲学


オリヴィエ・ラザック

(哲学者)


『有刺鉄線の政治史』(フラマリオン社、2009年)の著者。
Olivier Razac, Histoire politique du barbelé, Flammarion, coll.
«Champs essais», Paris, 2009 (1re éd. : La Fabrique, Paris, 2000).


訳:逸見龍生


 監視ビデオカメラ、生体認証、セキュリティ用の様々な路上施設の時代に、有刺鉄線はもう時代遅れであるかに見える。だが有刺鉄線は世界中ではなお広汎に利用されている。強制収容所の記憶と結びついた西洋においては、限定された利用に留まっているにしても。その多様な使用形態、その代替物について調査を進めると、多くの事実が明らかとなる。





単純だが効果的な暴力装置


 有刺鉄線は、大平原の私有地に囲いを設けるため、米国の農民ジョセフ・グリッデンが1874年に発明した。瞬く間に重要な政治的道具となった。その後、一世紀半たらずのうちに、アメリカ・インディアンの土地封鎖、キューバ独立戦争(1895-1898)や南アフリカ第二次ボーア戦争(1899-1902)における住民包囲に使われたばかりか、第一次世界大戦での塹壕防備、ナチスの強制・絶滅収容所では監禁のため高圧電流を流されるなどして、いろいろと用いられてきた。


 「グリッデン式」有刺鉄線は本来、農業利用に限定されたものだ。人間を撃退するために使うのが「カミソリ式」鉄線だ。鉄線の上に小さな刃を何本も立てたもので、ヒゲの代わりに侵入者の身体を切り刺す。刃の形状は利用目的により異なっており、単に抑止的なものから、致死的な外傷を与えることのできるものまで、様々だ。


 これほど素朴な代物がいまも使われているのは、意外かも知れない。この一世紀の劇的な技術的進歩の中、時代後れの多くの製品が現代では廃品化されている。にもかかわらず、有刺鉄線はなお有効に、空間の分割、土地の境界線の策定など、さまざまな要求を満たしている。かかる役割に限って見れば、優れた製品ではある。軽く、広大な距離をカバーできるし、保護、防備、監禁などあらゆる用途に使えるだけの柔軟さもある。小さな突起物のついたただの鉄線に、それだけのことが可能なのだ。モノの単純さとその用途の重大さとのこれだけの格差が示しているのは、権力行使の手段の完成度を測るにはその技術的洗練ぶりに依る必要はなく、その力量は必ずしも甚大なエネルギーの浪費によるわけでもなく、最大級の暴力ですら必ずしも圧倒的な風貌を示すわけでもない、ということだ。


有刺鉄線をめぐる政治的地理学


 自由主義的民主政諸国での有刺鉄線の使用が大幅に減った——オフィスやスーパー、公園が有刺鉄線で囲まれているさまや、デモ行進の際、路上封鎖のために権力側が有刺鉄線を張ったりするさまは、いまや想像しがたい——。しかし、有刺鉄線は消滅などしていない。至るところ、あらゆる国でいまもそれは使われているのだ。だが、場所を選ばぬわけではない。田園地帯では耕地や牧草地で、都市部では危険物指定された工場や、兵舎、刑務所、あるいはセキュリティの不安を覚える住宅の壁の上で、緊張下にある国境地帯、戦場で用いられている。


 有刺鉄線は、この点で、空間の政治的管理における、さまざまの差異を顕在化させる指標として機能している。実際いったいなぜ、フランスでは見られないのに、南アフリカの富裕居住地周囲の壁には当たり前に有刺鉄線が張り巡らされているだろうか。なぜフィリピンやブラジルの路上では、デモ参加者の進行阻止をするのに、コンサーティナ式鉄条網(注1)があれほど簡単に使用されてしまうのだろうか。フランス憲兵は樹脂ガラス製の盾の後に身を隠しているというのに。


 その答えは少なくとも三点ある。まずは当該社会における暴力の程度の違いを考えねばならない。私的居住住宅の要塞化の背景には社会的不平等の過酷さがある。住宅の要塞化そのものがこの過酷さをより深刻化しているともいえる。暴力の行使や暴力の認知に対する感じ方の違いも考慮すべきだろう。使用される道具の喚起力が、地理的に多様であることも考えあわせるべきだ。有刺鉄線を目にしたときの反応は、ヨーロッパと中国やアフリカとでは同じではない。有刺鉄線が象徴する歴史的対象——収容所や集団虐殺——との関係が異なる場合にはとりわけそうである。


 こうした三つの要因からは有刺鉄線をめぐる政治的地理学も描き出せる。この地理学は既成の政治区分(民主政と独裁政)には対応しないものだ。「有刺鉄線か否か」という問いにいかに答えるかが、政治の技術の指標となるばかりか、支配者と被支配者間の関係の種類を示す信頼性の高い指標となるのだ。


 西洋社会では有刺鉄線が過去の破滅的な使用の歴史と結びついているため、その利用は抑圧を意味する。アウシュヴィッツ、ビルケナウ強制収容所の「囲い、有刺鉄線、監視塔、収容棟、絞首台、ガス室、死体焼却炉」は「20世紀の人間の人間に対する残酷さの象徴」として世界遺産に登録されている(注2)。


 英国で設立された監禁・拷問撲滅のための組織、アムネスティ・インターナショナルのロゴは雄弁だ。有刺鉄線に囲まれたロウソクの灯を象っている。有刺鉄線が切断されるときに負のイメージは逆転もする。ハンガリーにおける民主化が大きく進んだ1989年、「象徴的な身振りで、[ハンガリー外相は]オーストリア外相とともに、両国の間の鉄のカーテンの存在を示す有刺鉄線を断ち切った」(注3)。


 有刺鉄線のかかる強い象徴性のために、有刺鉄線は政治的にますます重大な結果を招くものとなっている。というのは、われわれは暴力に対していっそう敏感になり、他人の身体や意見、情動から免除されたいという欲望がつのっているからだ。「われに触れるなかれ」( «Noli me tangere»:新約聖書における復活後のイエスの言葉)というラテン語表現がある。哲学者のアラン・ブロサは書いている。「西洋社会における免疫的パラダイムの伸張により、他人との触れあいや接触に対する真の忌避感情が増大する傾向がある」(注4)。こうした文脈からすると、有刺鉄線は、身体を不寛容なやり方で空間に配置することを意味する。棘や刃によって身体を切り裂くものに触れる危険も、そうした光景を見ねばならぬことも、どちらもともに耐えがたい。にもかかわらず、こうした免疫が守られるためには、空間的隔離がそもそも必要だ。


「環境に配慮された」有刺鉄線/暴力装置の視覚的スペクタクル化としての有刺鉄線


 有刺鉄線の使用がいっそう困難になっている場所ですら、分割は消えていない。ただずっと目立たぬ、穏やかなものとなっているだけだ。もっと正確に言うならば、次の二つの間の対立があるのだ。一方には、空間的暴力を婉曲化し、有刺鉄線のような攻撃的手段を空間から取り除くことを必要とする戦術がある。他方には、あからさまに視覚的に示すことを抑止力とする戦術の存続がある。


 もともと婉曲化とは、ある語を置き換えるにあたって、同じ対象を間接的に表す別な語をもってする言説戦略を指す。たとえば、有事化した国境地域を「非武装地帯」とか「緩衝地帯」、「安全障壁」などと呼ぶのだ。だが婉曲化は、ただ言語のみに留まらず、美学や訴訟手続、技術、建築、地理などさまざまな面に及ぶ。ここ近年各地に建築されている少年刑務所がその例になる。司法省によれば「周辺の環境にうまく溶け込むように、外観からは刑務所のイメージを意識的に取り除いています」(注5)。空間的暴力は実行されているが、この暴力を直接的かつ剥き出しに行使することによる、政治的なマイナス材料は回避されているのである。


 空間を外から遮断するために植物の利用が最近流行しだしたのも、同じ婉曲化の論理から生じている。あくまでも些細な現象ではあるが、時代の徴候を示すものだろう。フランス企業シノヴェーグは2005年「自然植物でつくる防御用垣根」という概念を提唱した。同社の広告パンフには「環境に十分に配慮した発明で、鑑賞面にも優れていながら、人の侵入を許しません」とある。鋭い棘を持つ植物を中心に選択することにより、新たなこの障壁は、有刺鉄線による囲いとほぼ同コストで、同一の効果をもつ。しかも見た目も悪くなく、むしろ心地よくすらある。まるで春になると花をつける、そんな有刺鉄線が生まれたかのようだ。


 こうして次のように語られる。「住宅は外部から保護されますが、しかし人に攻撃的な印象も与えなければ、ショックを覚えさせることもありません」。この垣根にある、もう一つの利点は、場所に応じて臨機応変に中身の変更が可能なことだ。学校近くでは棘のない植物が使われる。別の場所では囲いに使われる有刺鉄線の棘や刃を隠したり、囲いの効果を高めたりする。花と棘からなるこの網の中に、権力の戦術と詩が混ざり合っている。安全に保護された夢の庭。「シノヴェーグの持つ技術、それは、邸宅とご主人様によく調和した、夢と休息の庭を創り出すことです。人の侵入を防ぐ植物の囲いという美しくかつ控えめなコンセプトと、そして比類のない植物たちを通して、皆さまに静穏と安全がもつ快適さをシノヴェーグはお届けします」。


 他の事例では、婉曲化は撃退力の強化のために用いられる。暴力的な道具を偽装したり——刃のついた有刺鉄線網を隠す草花の垣根——、侵入者を容易に捕捉するため、空間の境界画定そのものを隠蔽したりするのがそれだ。温和化した形ではありながら、境界としての認知性は消失しない。必要に応じてその姿は変わるが、そこには使用される道具の実効性と、象徴的ななじみやすさとの絶妙なバランスの上に乗っているのだ。西洋社会において有刺鉄線は消えてなくならない。しかし、その使用は、刑務所や軍事キャンプなど、セキュリティが高度に求められる場所に限定されるか、有刺鉄線の存在を隠せる場所、あるいは人の少ない奥まった場所に留まる。現代都市での境界画定を効果的かつ目立たぬ形で行うのは、監視カメラや電子ゲート、センサーといったヴァーチャル技術である。


 有刺鉄線は、逆にそれが無意識裡に醸し出す否定的象徴性ゆえに、政治的で実際的な計算に基づき採用され、抑止手段として用いられることもある。たとえば、ロサンゼルス南部コンプトン市、治安の悪さで知られるニュー・ウィミントン地区では、ギャング団の度重なる抗争が続いたあげく、地区全体を外から遮断した。有刺鉄線、障害物、車止め、障壁やバリケード、哨舎、警備員、すべてがそこにはある。「検問用建造物に付随している軍事的意味は、婉曲化されていない。それどころかこうした防御の美学により、この地域の安全と統制の確保が視覚化されている」(注6)。


 ここでは境界画定手段の攻撃的な外観が、二つの相異なる空間・住民の間に階層的差異を産みだし、同時に境界を踏破しようとする様々な試みを斥けるのに役立っている。煩わしいほどセキュリティが強調された空間の内側では(特に地価として)価値が上がる一方、外の価値は下がり、外部で暮らす住民は望ましくない人物たちと呼ばれる。他の場所ではどうか。55歳以上の住民のみが暮らせるカリフォルニアのある自治体も部外者の出入りを制限しているが、障壁の攻撃性はここでは反対に、住民の安心感を高めるためのもので、実際上の役に立つわけではない。「ここではセキュリティの実質よりも、セキュリティの見かけのほうがむしろ重要」なのだ(注7)。


政治的暴力の今日の形態


 空間の境界画定のためのこれら手段の様々な用法が示しているのは、非常に豊かな戦略的多様性だ。これら手段に付随する象徴性を軽減することによって空間的制限を増加させ、強化すること、それと同時に、本物か見せかけかは別として露骨なまでにこの手段を示すことによって、隔離を厳しくすること。今日の空間分割において論点となっていることは、二項対立的なものではない。有刺鉄線や装甲化された境界線の増加を徴候とする「大いなる閉じ込め」が問題なのではない。だがヴァーチャル技術の利用によるフローの循環の単なる自由化が問題でもない。


 むしろ焦点は、戦略の多様化によって、ありあらゆる混合と分節、両義性が可能となったことだ。逆説的にも、肉体に加えられる露骨な暴力を可視化し、私たちの注意を暴力の古代的な行使に向けさせるかに見える有刺鉄線のような手段は、反対に私たちの眼差しを別な方向へずらす。政治的暴力の今日の形態は、その明示的な強度よりもむしろ、洗練されたその複雑さによって認知されるのだ。






(1) コンサーティナはアコーディオンの一種。形状の類似から可動式円形有刺鉄線についても広く使われている。
(2) http://whc.unesco.org
(3) Entretien avec Gyula Horn, Le Monde, 5 novembre 1999.
(4) Alain Brossat, La Démocratie immunitaire, La Dispute, Paris, 2003.
(5) «Les établissements pénitentiaires pour mineurs (EPM)», ministère de la justice, Paris, 31 janvier 2005.
(6) Gérald Billard, Jacques Chevalier et François Madoré, Ville fermée, ville surveillée. La sécurisation des espaces résidentiels en France et en Amérique du Nord, Presses universitaires de Rennes, coll. «Géographie sociale», 2005.
(7) Ibid.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年8月号)