デモに復帰するブラジル国民


ジャネット・ハベル

(パリ・中南米高等研究院非常勤講師)


訳:﨑山章子


 ブラジルで少なくとも20年間見られなかった事態が起こっている。全国で何十万人もの人々がデモに集まった。2014年の大統領選挙を1年後に控え、市民たちの叫びは2003年以来政権を担ってきた与党、労働者党を揺るがせている。[フランス語版編集部] 





 「平和なデモは合法で、民主主義にふさわしいものです…」。2013年6月17日、大衆デモの再発を迎えて、ブラジル大統領ジルマ・ルセフは声明を発表し、デモについてこう述べたが、問題の核心については気づかぬ風を装った。1985年に軍事独裁体制が終結して以来、ブラジルでは民衆のこのような大規模デモは行われなかった。おそらく例外と言えるのは、1992年である。このとき人々はフェルナンド・コロル・ド・メロ政権の腐敗を非難してデモを行い、同年に政権を退陣に追い込んだ。今回のルセフ大統領の声明発表の前日、20万人近くの人々がデモ行進し、特にサンパルロやリオデジャネイロ、それにブラジリアの街頭でデモをおこなった。首都ブラジリアでは何時間もの間国会が占拠された。数日後には100万人に上った。


 よくあるように、きっかけとなった火花と後の大火のあいだにはあまり関係がない。実際サンパウロでは6月11日以降、人々がバスの運賃の値上げに反対したが(3レアルから3.20レアルへ、すなわち145.6円に)、またたくまに他の場所にも火の手がひろがった。とりわけリオデジャネイロでは、2014年開催のサッカーのワールドカップと2016年のオリンピックの準備にかかる費用を、人々は問題にしていた。その総額はおよそ500億レアル、すなわち2兆2100億円。いまだに世界で最も格差の大きな国のひとつにおいての話だ。このデモに加わったのは、腐敗にうんざりさせられた多くの市民だった。さらにこれに加わったのは、良い医療や立派な教育を家族に対して満足に受けさせたいと苦労している全ての人々である。


 ブラジルは2014年の大統領選挙を一年後に控えているが、このデモ活動は主として、独裁政権時代を経験していない若者たちが行っており、ルセフ大統領の体制をゆさぶっている。この趨勢を利用できるような政党はさしあたりは存在しないようだが、運動は現政権全体に非難の矛先を向けていて、2003年以来政権の座にある労働者党(PT)にとり、これは深刻な警告となっている。


ルセフ政権の経済政策


 イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ前大統領は、政権についてから数年間、経済成長に助けられて国民の生活水準の向上に努めることができた。しかし、2010年に選ばれて政権を引き継いだルセフ大統領は、前政権よりはるかに劣悪な国際経済情勢のもとで政権につくことになった。以前よりはるかに低い経済成長率に加えて(2010年では7.5%、これに対して2012年には0.9%)、ブラジルが《早すぎる脱工業化(注1)》の状況にあるためだ。原料の輸出は増加しているが、工業製品の輸出は大きく減少している。世界6番目の経済大国ブラジルは多くの試練に直面しているのだ。すなわち、中国という競争相手がいる状況下で、工業分野によりいっそう依拠しながら成長をはかる一方、過去10年間に進められた社会福祉プログラムを維持するのである。(注2)この社会福祉プログラムによって内需を下支えし、労働者党にとっては選挙基盤を保証しようとするのである。


 ルセフ大統領は、ルーラ前大統領の政策モデル衰退の最初の兆候を改善するために(注3)、《資本主義ショック》を採用した。これは週刊誌『ヴェージャ』によれば(2012年8月15日号)、ブラジルを「万有引力の法則に合致」させる民営化政策のことである。この計画は総額660億ドルの規模で、港湾・高速道路・鉄道の建設のためにコンセッション(注4)や空港の売却を予定している。もっともルセフ大統領は、2010年の大統領選の選挙運動中には、民営化に反対していたのであるが。


 ルセフ大統領としては、工業生産と建設を優先させたい意向を強調しており、投機的な思惑を顧みる様子はない。すなわち彼女は、金利の引き下げ・電気料金の値下げ・税金の免除・短期の資産課税・多くの輸入品目の関税を引き上げて自国産業を保護する特恵関税の実施などの政策をすすめている。


 こうした施策のいくつかはアメリカに《保護主義的》と呼ばれているが、労働者組織からは反発を受けていない。政府は外国企業のブラジル進出を奨励しており、地元労働者の優先的な雇用を促している。台湾企業フォックスコン(注5)は、このようにしてブラジルに8カ所の生産施設をおき、すでにiPhone4を製造し、まもなくiPodやiPadの生産を行う。フォックスコンは生産施設の建設のために多額の免税措置や融資の助成を受けた。また、新たに自動車輸入税が課されると、ランドローバーとBMWはブラジルでの工場建設を決定した。


 しかしルセフ大統領の計画はそれだけでとどまらない。同時に彼女は「労働コスト(…)やあまりにも高い税金」にも取り組まねばならないと、『ファイナンシャル・タイムス』の対談の中で認めている(2012年10月3日号)。これは大企業の意向にそった行程表である。これまでは常に、労働者党は財界とは別の支持組織をあてにしてきた。すなわち2つの大きな労働組合連合《ブラジル中央統一労働組合(CUT)》と《労働組合の力(Força Sindial)》である。だが最近のデモが示唆しているように、政府に対する民衆の支持は弱まっている…。


労働者党と労働組合


 CUTの元代表アルトゥール・エンリーケ氏はずっと政府を支持してきた。しかし彼は次のように批判している。労働者党が政権について10年以上が経過したが「新自由主義的な政策をいまだに修正していません。新自由主義のせいで、労働界とのつながりが壊れてしまいました。元大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ[1995−2002]の差し金です」。いっぽう労働者党の国際事務局のヴァルテル・ポマル氏によれば、「確かに、人々の生活水準はすばらしく向上しました。賃金をアップさせて消費の刺激をおこなった結果、市場が発展しています。つまり収入が増えたから…私立学校の高い学費を払っているのです。しかしこの戦略は、公共サービスの大きな発展には貢献していないし、国が提供する公的サービスが重要だとの政治認識にもつながっていないのです」。


 ルーラ前大統領の政権時代は、民衆デモを浴びせられないというのが特徴だった。ルセフ大統領はそのような好意的な目で見られていないし、彼女の非妥協的態度がさらなる障害となる可能性がある。


 2012年には、ルセフ大統領は、公務員たちが実施したここ10年間で最大のストライキに直面したが、彼らの要求に対して譲ることはなかった。連続107日間の争いの後、大統領は賃金改定プランを認めさせた。労働組合側は、40−50%の賃金引き上げと彼らの経歴の再評価を求めていた。賃金スライドは、3年間で段階的に15.8%の引き上げになるが、2012年のインフレ率は6%近い。彼女がおこなった唯一の譲歩といえば、ストライキの期間中の賃金支払いのための交渉を開始することだけだった。それとは対照的に、ブラジルの陸海空の三軍は30%の賃上げを獲得している。


 ブラジルで最も影響力のある5つの労働組合連合のうち、こういったことに不満をつのらせた4労働組合(そのいくつかは右派に近い)、《労働組合の力》・《新労働組合》・《ブラジル一般労働組合(UGT)》・《ブラジル労働者組合(CTB)》は非常に批判的な文書を発表した。その会議に欠席していた《ブラジル中央統一労働組合(CUT)》も最終的に加わった。3月6日ブラジリアにおいて、これらの労働組合は5組織が一緒になって抗議デモを行った。


スタジアムより教育、医療を! ——中間層の国ブラジル


 2003年以来労働者党政権が労組と共に築き上げてきた《社会協約》の見直しを、ルセフ大統領は進めようとしているのだろうか? ブラジルの労働者運動は、民主化のプロセスや1988年憲法の作成において中心的な役割を果たしたが、それによって隅に追いやられることになるのだろうか? ルーラ前大統領の時代には、多数の政治指導者や組合指導者が、一定の助成を受けて人々の一致した要求を擁護するような新たな官僚制度の成立を手助けしていた。これに対してルセフ大統領は、労組とは別の勢力との関係を強化しようとしており、戦略を転換する可能性がある。この勢力は知識人ルイ=カルロス・ブレッセル・ペレイラ(注6)が《社会開発主義国家》(注7)と呼ぶ勢力に影響されている。


 ルセフ大統領は《中流階層のブラジル》の建設を目論み、中流層を1億5000万人と見積もっている。(注8)この数字には経済学者パウロ・クリヤスが反対し、「貧しい人々に対して、自分が中流に属していると思い込ませるためのごまかしだ」と述べている(注9)。さらに、《中流階層のブラジル》が幻影であると異議を唱えているのは、「別のブラジルを!」と叫んでデモをおこなった数えきれない人々である。彼らは、政府がスタジアムに巨費を投入するかわりに、腐敗を減らし医療や教育にもっとまわすことを望んでいるのだ。(注10)






(1) Pierre Salama, Les Economies émergentes latino-américaines. Entre cigales et fourmis, Armand Colin, Paris, 2012.
(2) 社会福祉プログラム ルーラ政権はカルドーゾ政権時代に始まった条件付き現金給付制度を行い、また最低賃金の引き上げをすすめた。ルセフ政権もこの政策を引き継いでいる。[訳注]
(3) A lire sur notre site:《Du Parti des travailleurs au parti de Lula》, par Douglas Estevam www.monde-diplomatique.fr/49302
(4)コンセッション 公共サービスの委託方式の一つ。経営を委託された業者が独占的な営業権を与えられたうえで、事業の管理・運営などを行うこと。[訳注]
(5) Lire Jordan Pouille, «En Chine, la vie selon Apple», Le Monde diplomatique, juin 2012.
(6)ルイ=カルロス・ブレッセル・ペレイラ 社会学・経済学・政治学者。カルドーゾ大統領の時代に財務大臣、行政国家改革相などを歴任。[訳注]
(7)社会開発主義 開発主義とは、資本主義を基本的枠組みとしながら行われる政府主導の産業発展のことである。社会開発主義は、特に貧困を無くし格差を縮小することを標榜した開発を進めることで、経済成長を社会の改革と強く関係づけている。[訳注]
(8)ルーラ政権時代に3000万−4000万人が貧困層から中間層に移ったと見られており、いわゆる新中間層は5割を越えたとされる。(ファイナンシャル・タイムス2012年10月3日号)[訳注]
(9) «Nova classe média e velha enganação», Brasil de Fato, São Paulo, 27 septembre 2012.
(10)注(3)のサイトの記事参照。2012年度の予算配分で医療費は4%、教育費は3%である。[訳注]


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年7月号)