中東地域の政治ゲームに利用される革命

シリアにおける代理戦争


カリム・エミール・ビタール

地政学者、国際関係戦略研究所(IRIS)上席研究員
雑誌『国立行政学院 壁を越えて』編集長
著書に『フランスへの視線』(未邦訳)がある。
Karim Emile Bitar, Regards sur la France, Seuil, Paris, 2007


訳:﨑山章子


 レバノンのヒズボラの支持を受けたアサド政権は、シリア西部で攻勢に転じた。米ソの接近により、ジュネーブでシリア問題の国際会議が開催される可能性がある。しかし蜂起が始まって2年が過ぎてみると、シリアの革命はアラブ諸地域や諸外国の関係者によって、相矛盾し曖昧な方向へと進路を変えられている。[フランス語版編集部] 





 中東諸国の歴史には常に繰り返される傾向がある。それは、自由・解放を求める人々の希望が現実政治と衝突し、強力な諸外国の戦略地政学上の利益の犠牲にされてきたことである。1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征は、衰退していたオスマン帝国領土における英独仏の長きにわたる抗争の発端となった。しかし、本当に重大な障害が起こったのは、第一次世界大戦の末のことだ。トマス・エドワード・ロレンス(いわゆる「アラビアのロレンス」)(注1)がアラビア人に向かって、トルコに対して反乱を起こすように促した。さらに英国の高等弁務官ヘンリー・マクマホンはメッカのシェリフ・フセインに宛てて書いた書簡の中で彼らに統一王国の創設を約束したので、アラブ人は英国に協力したのだが、むなしくもその契約は裏切られることになった。その約束はその後も無視されることになる。フランスと英国との間で中東地域を分け合うというサイクスーピコ条約(1916)とパレスチナにおける《ユダヤ人の故国》の創設を唱うバルフォア宣言(1917)が結ばれたのだ。


 シリアはフランスの委任統治下において、まず最初に4つの国家に分割され、第二次大戦後に独立を果たした。議会制は続かなかった。というのは、1949年フスニ・アル=ザイム大佐により倒されたためである。これはアラブ世界における最初の軍事クーデターで、アメリカ大使館と中央情報局(CIA)によって企てられたものだ(注2)。


みせかけの反帝国主義


 多くの歴史要因のうち、このようないくつかの要因を考慮すると、シリアで厳格なナショナリズムが支配している理由がわかるばかりでなく、諸外国の術策に対する非常に根深い猜疑心がある原因も理解できる。今回の大規模な民衆の反抗は、初めは自然発生的で穏やかで、チュニジアやエジプトの民衆蜂起の延長線上にあったのに、バシャール・アル=アサドの体制は言葉に尽くしがたいほど苛烈な弾圧を行った。こうした弾圧を正当化するにあたって、政権側が反帝国主義的な感情に訴え続けたのは上のような理由があるからだ。この戦略によってアサド体制は、いくつかの権威主義的民族主義勢力やアラブ左派少数派の支持を維持することが可能なのだ(注3)。


 しかし諸大国に対するアサド政権のこのような敵対的姿勢にも関わらず、40年間ゴラン高原は平和なオアシスであったし、イスラエル=シリア国境は、驚くほど平穏だったと指摘されている。1976年、シリアは米国のゴーサインとイスラエル国民の暗黙の了解の下で、レバノンに軍事介入して《イスラム進歩主義者》という同盟の勝利を妨げた。また2000年代の《世界的なテロとの闘い》の際に、シリアはジョージ・W・ブッシュ大統領のアメリカ政府による拷問の下請けプログラム(異常なレンディション−−注4)に関与した。また《アラブの春》の勃発後、サウジアラビアによるバーレーンでの革命の鎮圧を承認した。


 アサド大統領の判断の主たる誤ちは、2011年1月31日ウォール・ストリート・ジャーナルに応じたインタビューにおいて明らかになる。レバノン・ヒズボラに対して支持(とりわけ2006年夏の戦闘における)を与えたり、またイスラエルのガザ侵攻時に(2008年12月−2009年1月)ハマスを支援するといった外交政策をとれば、アラブ世界に拡がる革命の波から自分の政権を守ることが可能になるだろうと考えているのだ。たとえ彼の反帝国主義の身振りがシリア世論から見て現実的で正しいと受けとめられたとしても、そのことで、何よりもまず民衆の意思によって起こされたこの反乱が静まるということはなかったろう。シリア社会の経済状態は惨憺たるものだった。というのは、毎年シリアの労働市場に参入する30万人のうち、わずか8千人しか正規の労働契約を結ぶことができない状況だった(注5)。新自由主義の経済改革が急激に押し進められ、公企業の独占は私企業による独占へと変わり、アサド家の関係者やいかがわしい連中による資本主義を生み出した。1963年以来続いている非常事態体制が全ての自由を窒息させていた。拷問が恒常化して、統治の手段、民衆の馴致法となった。


 もっとも、シリアでの「アラブの春」はじきに諸大国の権力ゲームにのみこまれてしまい、シリアは一連の代理戦争の舞台となった。そういうわけで、シリアの紛争には二つの異なる局面がある。一つは民衆の抵抗であり、もう一つは地域的または国際的紛争だが、これらは互いに相いれないわけではない。つまり、両方の側面が共存し、前者は2011年3月から10月にかけて最も活発化したが、2012年7月からは後者が優勢なのである。


ロシアとの関係


 ウラディーミル・プーチン大統領の率いるロシアは、アサド体制に対する支持に関して最も断固とした態度を示し、国連(ONU)安全保障理事会において3度拒否権を行使するほどの熱心さだった。こうした態度にはいくつかの理由がある。まず第一に、両国の緊密な関係は1950年代からすでに定着し、以来継続していることだ。シリアはサダト大統領のエジプトとは反対に、ソ連圏との関係を決して断ち切らなかった。すなわち、何万人もの二重国籍者や両国を結ぶ国際カップル、移住者、それに固い経済関係などがある(ロシアの輸出額は、2010年には11億ドルで、投資額は今年200億ドル近くに上る)。それに加えて特に武器の輸出は重要だ。なぜならそのおかげでロシアはその技術の安全性をテストすることが可能だからなのだ。武器の輸出もまた2011年に40億ドルにのぼった。しかしシリアは金払いが悪く、ロシアは負債の再調整や帳消しをしばしば行わねばならない(注6)。タルトゥースの軍事基地は地中海にあるロシアの唯一の基地だが、主として補給インフラであって、その重要性はいささか過大評価されていた。


 19世紀におけるフランスと同様に、ロシアは東方のキリスト教徒の庇護者を気取っている。シリア国内のキリスト教徒は100万人近くを数え、人口の4.6%を占めるが(注7)、その52%はギリシャ正教徒だ。最近のロシアの政治権力と正教会の結びつきは、プーチン氏、メドヴェージェフ首相、それにモスクワ総主教キリル一世との関係によって明瞭になったようだが、このことはシリアの正教会の利害を考慮に入れることが次第に重要性を増してきたことが原因である。シリアの正教会の指導者はシリアの体制と近い関係にあるからだ。最後に、ロシアは2011年のリビア問題でだまされたのではないかと考えている。なぜなら、リビアに対する軍事介入が、単なる《市民を守る責任》を越えて体制を終わらせることになったからだ。それは西欧諸国が国連安全保障理事会決議1973に関して、誤解とまでは言わないまでも拡大解釈を認めたからなのだ(注8)。


 これら全ての要因のほかにも、ロシアのシリアに対する強い支持の姿勢は、プーチン氏がシリア情勢をチェチェンのプリズムを通して見ているという事実によって説明されうる。彼はアラブの蜂起を、イスラム教主義者による革命であると考えている。それはコーカサスや他のロシア国内のイスラム地域(ロシア人の約15%がイスラム教徒である)に広がる前に阻止しなくてはならないものだ。


同盟国イラン


 イランのアサド体制に対する支持は、もっと容易に説明できる。つまり、イランにとって唯一のアラブの同盟国を擁護し、ヒズボラへの補給経路の維持確保が重要なのだ。イラン=シリア同盟は長年にわたる戦略的協力関係であり、1980年、イランのイスラム革命が勃発して間もない時期に締結された。現大統領の父ハーフィズ・アル=アサドが孤立していた時代で、兄弟であり敵ともなったイラクバース党のサダム・フセインや、ヤセル・アラファト率いるパレスチナ解放機構(PLO)との困難な関係に苦しんでいた時だった。


 このイランとの同盟は激しい外圧にも生き残り、とりわけ1980-1988年のイラン=イラク戦争中にも存続して、結局両国を引き離そうとするあらゆる試みは挫折する結果に終わった。したがって、2011年3月にシリア革命が発生すると、イランはアサド政権支持のため全力を傾けた。2013年1月には経済制裁によって疲弊している自国の厳しい経済状態にも関わらず、10億ドルの融資を行うことをためらわなかった。同時に革命防衛隊の幹部を現地に急派した。一方、ヒズボラの戦闘員とイラクのシーア派民兵もアサド体制側に加わった。


 一方、この地域のスンニー派の3大国であるトルコ、カタール、それにサウジアラビアは、シリアの反体制派を支持する努力を惜しまなかった。トルコはシリアの利害とムスリム同胞団の利害を和解させる試みを少し行ったが、その後はアサド政権打倒の意思を明示した。カタールとサウジアラビアにとって何よりも重要なのは、最大の敵であるイランの行動を阻むことである。シリアの紛争が、スンニー派とシーア派の対立という、宗教上の様相を呈することになるという危険をおかすことであってもかまわないのだ。


イスラエルはシリアの側にいるのか?


 カタールは早々とシリアのムスリム同胞団を強く支持した。同国はチュニジアやエジプトの《アラブの春》においても同様の態度を取っていた。『ファイナンシャルタイムス』によれば(注9)、反体制派の武装化に30億ドルをすでに費やしている。態度をきめかねていたサウジアラビアは数ヶ月後にシリアの戦闘に軍隊を送った。しかしムスリム同胞団に対する憎悪のために(注10)むしろサラフィー主義者(注11)の運動を援助するに至った。もっとも2000年代にアル=カイーダのテロがあったため、アル=カイーダに関係するグループには警戒をしている。カタールは完全にシリア国民連合(注12)のほうに肩入れし、ガッサーン・ヒートー氏(テキサスに居住していたシリア人で同胞団と親しい関係にある)を首相と認めたが、サウジアラビアのほうは、むしろシリア現地の動きを当てにしており、自分たちによる直接援助を頼みとしている。シリアへの援助はヨルダンを介して行われており、サウジアラビアはそこに連絡事務所をおいている。


 イスラエルにとり、シリアの体制は長年《より少ない悪》と言えるもので、国境の安全保障の担い手とみなしていた。この立場は2006年7月の戦いの後変化した。この時にはシリアがヒズボラの攻撃に際して、決定的な役割を果たしていることが明らかになり、イスラエルでは反イランの主張がもりあがった。イスラエルを支持するアメリカ社会では、二派の考え方がある。ホワイトハウスの元顧問であるデニス・ロスは、シリア政府に反対して干渉する立場をとっているが、大学関係者でイスラエル支持の最も熱烈な扇動家ダニエル・パイプスのほうは、アメリカはシリア体制を支持し、紛争の引き延ばしをはかるべきだと主張する。モサド(イスラエル情報特務庁)の元長官エフレイム・ハレヴィ(注13)は、アサドのほうが彼の敵対者たちよりは好ましいと考え、アサドを「ダマスカスのイスラエル人だ」とさえ呼ぶほどである。


 イスラエルの煮え切らない態度はアメリカをますます困惑させる。オバマ大統領はイラクの経験で痛い目にあっているので、シリアへ干渉すべしとする周囲の圧力にも抵抗しているが、干渉主義はいまだに影響力がある。アメリカにとって理想的な解決とは、アサドがシリア体制の骨格をそっくり残したまま権力を手放すことだろう。これが米ロの新たな提言の示す方向性であり、今月開かれるジュネーブの国際会議の流れになるだろう。フランス政府のほうは、アサド体制の崩壊を常に先頭に立って主張してきたが、米ロが主張において接近した後は、自説を後退させたようである。おそらく、外交的に孤立することになるのを恐れたのだろうが、政治的な解決による利点を大いに推奨するようになった。それまでは外務省が拒否はしないまでも批判していた方式である。


 近東の問題については陰謀説ばかり目立つが、以上のような概観は、アラブ諸国にも国際社会にも展望が全くないことを如実に表している。各国にとって、何より重要なのは結局自分たちの利益を守ることなのだ。シリアの人々の利益はほったらかしだ。






(1) T.E.ロレンスが演じた役割は、サブカルチャー的作品やデヴィット・リーンの映画(1962年)によって誇張され美化されて、専制に苦しんだ東洋人を救うために身を投じるロマンチックな西洋人という神話同然の人物像を表し続けている。
(2) Cf. Tim Weiner, Legacy of Ashes : The History of the CIA, Doubleday, New York, 2007. このアメリカの公開された記録書は、フスニ・アル=ザイムを「感じの良いやくざ者」と書いている。
(3) Nicolas Dot-Pouillard, «La crise syrienne déchire les gauches arabes», Le Monde diplomatique, août 2012.参照
(4)レンディション(国家間移送) 9.11テロの後、CIAはテロリストの疑いをかけた人々を拉致誘拐し、秘密のジェット機で世界各地に作られた秘密刑務所におくり、さらに移送を繰り返した後、シリア、エジプト、アフガン、サウジアラビアなどの拷問施設に送り込んだ。この国家間移送は、アメリカが拷問に直接には関与していないという形式を取るためだった。EUの調査では2001年からの5年間で100人以上に対して行ったとされている。[訳注]
(5)2013年4月24日上院外務委員会サミル・アイタ氏の公聴会
(6)2013年5月18日のラジオ・フランス・インターナショナルの番組《論争、地政学》放送の中でファブリス・バランシュがこの問題をとりあげた。
(7) Selon les estimations du démographe Youssef Courbage, «Ce que la démographie nous dit du conflit syrien», Slate.fr, 15 octobre 2012.
(8)2011年3月17日国連安全保障理事会において、国連安全保障決議1973が採択された(中国、ロシアなどは棄権した)。リビアにおける停戦の即時停戦を求め、文民保護のため「あらゆる措置」を容認した。これを受けNATO軍の軍事介入が始まり、カダフィ体制が終わった。中国、ロシアなどは無差別攻撃であり、決議の枠を超えていると批判していた。[訳注]
(9) «Qatar bankrolls Syrian revolt with cash and arms», Financial Times, Londres, 17 mai 2013.
(10) Alain Gresh, «Les islamistes à l’épreuve du pouvoir», Le Monde diplomatique, novembre 2012.参照
(11)サラフィー主義 厳格な復古主義を特徴とするイスラム教スンニー派の思想。[訳注]
(12)シリア国民連合 アサド政権に対する反体制派統一組織。2013年3月、ガッサーン・ヒートー氏を暫定政府の首相に選出した。[訳注]
(13) Efraim Halevy, «Israel’s man in Damascus. Why Jerusalem doesn’t want the Assad regime to fall», Foreign Affairs, New York, 10 mai 2013.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年6月号)