文化・教育・医療における虚しい生産性競争


ロボットに『椿姫』は歌えない


ピエール・ランベール

(ジャーナリスト)


訳:石木隆治


 一方で情報化・合理化・国際化のおかげで単価が著しく低下していく商品・サービスがあるかと思うと、他方ではいつまでも多量の人手を要して合理化ができない部門もある。そうした部門は理髪業からオペラに到るまで多岐にわたり、社会的に必須のものも多い。前者の急速な発展のせいで、かえって医療・教育・その他の分野での「遅れ」を認識させられることになる。しかも、このように大量の人手を要する部門とは公共サービスが多いのだ。公共支出の赤字は、世界中で今や喫緊の課題となっているのはこのためだ。ところが、対面サービスが絶対不可欠な公的サービス分野では、無理なコスト削減はサービスの質の低下を招くことが避けられない。こうした効率のたかまらない分野でも一部ではコンピュータを使って効率を上げる試みが行われている。しかし、必ずしも快適で効率の良いサービスが実現できていると限らない。たとえば、オンライン大学教育ではすでに金儲けへの傾斜が見られる。それよりも、ハーヴァード大学で5年間を過ごした裕福な卒業生はチューターたちの親身な指導を懐かしむことになる。機械による仕事の効率が上がれば上がるほど、人は人間によるサービスのありがたみ・価値を実感するのだが…。[フランス語版・日本語版編集部]




 工業国に暮らす人々にとって、相反するふたつの流れに日常生活が引き裂かれているという感慨をまぬかれない。一方の流れでは、より高性能で、一層便利、さらに安価にもなっていく機器を通してアクセス可能な個人向けサービスが花盛りであり、その一方で、人間の応対による公共サービス――こうした対面サービスは社会の基礎を支えてもいるものである――が稀少化・高額化している。予算との折り合い、知的流行、増大する投資、これら全てがこうした動きを促進しているようだ。そのことを理解するには(そして、それと立ち向かうためには?)ほぼ50年まえに明らかにされたメカニズムを把握することが必要だが、政治指導者は知らぬ顔を決め込んでいる。その名前とは? それは《コスト病》と呼ばれている。


ウイリアム・ボーモルの《コスト病》


 1960年代半ば、プリンストン大学の新進気鋭の経済学者であるウィリアム・ボーモルとウィリアム・ボウエンは、ブロードウェイのチケットを収集してある仮説を証明しようとした。観劇料のコンスタントな値上がりは、芸術労働にはコストを抑えられない性質があることからきている、と彼らは直感したのである。事実、モーツァルトの弦楽四重奏を演奏するための労働量は、1785年ウィーン、ヨーゼフ二世の宮廷で行なわれた演奏会でも、またその2世紀後にニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれたコンサートでも変わらない。言いかえれば、室内楽というジャンルにおける生産性は進歩していないのである。同じ間に、工場における生産性は爆発的に向上し、その結果として舞台芸術の費用は相対的に上昇したと見込むことができる。(注1)


 半世紀後、数多くの分野が《コスト病》であるとの診断が下される。そのなかには、教育・医療が含まれる。ボーモルは、かつて立証したこの現象を現在の状況に当てはめて論じた著書を近年出版し、そのなかで「教育・医療等の分野のサービス提供における労働力の削減は困難である」と述べている(注2)。ボーモルは経済活動を実際にふたつの部門に区分している。まず第一の部門は機械化が容易な製造・サービス業である。手作業から機械生産への変化に応じ、増産一単位あたりに必要な労働量は縮小する。T型フォード以降、自動車の組み立て製造ラインによって生産性が向上したが、それに伴って自動車工の給料は一定程度上昇した。そのため、自動車の価格は変わらなかった。


公共サービスに多い《コスト病》


 しかしもう一つの分野、たとえば健康・医療や教育などでは、その労働の中身は、大部分は簡略化できない人間労働で構成されている。生産性は伸びないが、それでも教員や介護士の賃金は自動車工と同様に上昇する。その結果、生産コストは少しずつ増加する。「何十年もたつとコストの差がひらき、《人手のかかる》サービスは工業化の進んだ分野に比べ、相当高額になる」。例えばアメリカでは1978年から2008年の間に、医療機関のサービスの価格は300%上がった。これは物価上昇率をのぞいて経済全体の3倍の伸びである。同期間に高等教育の学費は250%の伸びで、これも物価上昇率を除いている。このようなコストの急上昇は、これほど顕著ではないにしても、ほとんどの工業先進国では見受けられるし、いまや新興国でも同じだろう。


 教育・舞台芸術・健康・医療以外では、最も様々な分野に《コスト病》は影響を及ぼしている。すなわち、図書館・訴訟業務・福祉サービス・郵便局・警備・道路清掃・ゴミ収集・仕立業・レストラン業・、司法サービス・交番業務・美容師・葬祭業・様々な修理業などである。共通する問題点は、オートメーション化が難しいことである。というのは、これらの職業はどうしても長時間の接客サービス、そしてまたは個々のケースに応じた配慮が必要だからである。ボーモルの言う《コスト病》によって、修理屋・改造屋・日曜大工代行業といった職業が崩壊同然である理由がわかる。彼らの仕事の手間賃は新品の機械の値段に比べ高騰しているからだ。つまり、新型の掃除機のお値段が古い掃除機の修理代と同じ場合、消費者はためらわずに買い替えに走る。


 こうしたサービスの質はその生産に投入された仕事量に左右される。「その結果、時間を省けば必ず質が落ちる。外科医や教師あるいは音楽家の仕事をせきたてても、ぞんざいな手術、出来の悪い子ども、奇妙な芝居などを提供されることが増えるだけだ」とボーモルは言う。


 政治指導者たちが理解しようとはしない、耳を貸さないのは、まさにこのことだ。確かに舞台公演の価格が高騰した結果、文化活動は助成金が与えられるようになったが、そうでなければ経済のダーウィニズムによって淘汰されていただろう。しかし、こうした助成措置は容易に削減されてしまう。というのは、政府が対面サービスのコスト高の理由を、その固有の性格に由来するものだと捉えるのでなく、運営方法の効率が悪く、生産性が低いためだと考えるからだ。政治的要請を代弁して予算削減が行われるようになると,人員削減・利用者一人当たりに費やす時間の短縮・賃金の相対的な低下を招き、学校・病院・福祉サービスがまず初めにターゲットにされるようになる。そもそもこの上位3部門は、ギリシャ・スペイン・ポルトガルで、緊縮政策の犠牲者リストの最初に挙がった名前である。


《コスト病》は退治できない?


 合理化が難しいサービス部門で生産性を無理矢理上昇させても、予算の健全化において増税よりもずっと効果が薄く、サービスの質の低下を招く。この世で我々が知る限り、弦楽四重奏の効率を上げるためにバイオリンを一つ減らそうと考える音楽監督などどこにもいないのに、遺憾なことに、行政当局はそれなりのやり方でこのすばらしいアイデアを他の部門に適用しようとする。それには次のような結果が起こることがたやすく予測される。カナダや英国で見られたように緊急性のない外科手術が何ヶ月も延期され、郵便局員の巡回は少なくなり、学校の授業は減り、産院は統合され、福祉の窓口には順番待ちの人たちが長蛇の列を作る、といったことなどだ。ボーモルによれば、「過去の教訓として懸念されることだが、《コスト病》に最もかかりやすい生産のなかに、文明社会で最も重要な仕事がある」。それは公共サービス、あるいは公益に関わる活動のことである。対称的に、生産性の高い分野は私企業の世界に属している。すなわち、めはしの利く資本家は利益の伸びるところで利益をかき集めるのだ。それゆえ、この相反した動向を《民の豊かさ、公の貧困》とジョン・ケネス・ガルブレイスは表現した。


 コストが増加するからという理由で、人間生活に不可欠なサービスの弱体化を容認すると、政治家たちは階級的選択を実行することになる。なぜなら、貧乏人は金持ちよりも公共サービスに依存しているために、公共サービスが衰退するとその影響をいっそう強く受けるからだ。階級的選択はまた、非人間的な選択でもある。財政緊縮に伴い、郵便局・銀行・役所・公共交通機関の窓口に取って代わって、どっしりと座った自動機械(ロボット)が急増している。しかし、この機械化のさなかで自動機械(ロボット)に任されるのは、最も簡単で標準化された作業(最も成功する可能性が高い)である。そうなると窓口での対面サービスは、操作が難しくトラブルが発生する可能性のあるケースだけに限られていく。その結果、対面サービスにおいても人間関係の希薄化・ギスギス化という印象を与えることになる(注3)。


 一方では予算の強い制約があり、他方では高度な科学技術のもとで生産性の驚異的な上昇の可能な技術革新がある。両者が結びつく結果、行政当局は分かれ道に立たたされることになる。一つは,《コスト病》を退治しようとして重要な公共サービスをさらにもっと粗末なものにすることだ。もう一つは、その高いコストというものを、もはや「会計上の不運」として捉えるのではなく、「善行に対する正当な報酬」として受け止めることだ。


《コスト病》退治のいくつかの処方箋


 すべてが最初の考え方を支持して《コスト病》退治に向かっているように思われる。世界の経済市場が今の流れをたどれば、情報サービスのコストの激減に反比例して人的サービスのコストは急上昇するだろう。その一例として、一秒間に百万個の命令(MIPS,標準単位)の処理が可能なパソコンを購入するために必要な労働時間が、適切な例を与えてくれる。ボーモルの計算によれば、「1997年、1MIPSの容量のパソコンを買うためには、平均的賃金労働が約27分必要だった。1984年にはこれは52時間、1970年には1.24人分の生涯労働時間、さらに1944年には73万3000人分の生涯労働時間だったという、ほとんど信じられないような値であったようだ」。今なら数秒もかかるかどうかだ。膨大な数のデータを集め処理する能力を併せ持つパソコンの、このような安価な計算能力のおかげで、より複雑な仕事を機械化する可能性が拡がっている。


 フォックスコンは、中国におけるアップル社製スマートフォンとタブレットを受託製造する台湾企業である。フォックスコン幹部役員のテリー・ゴウ氏は「人間もまた動物であり、100万人もの動物を管理するのは頭の痛い問題である」(注4)との理由から、ロボット100万体を導入する意向だ。ゴウ氏のこうした発言は、彼が19世紀に始まった工場労働の機械化を先端科学の分野において引き継いでいることを示している。しかし今や、職工の「手仕事」の機械化、単純な対面サービスの機械化を後にして、知的労働の機械化が進められているのだ。知的労働のデジタル化と言ったほうが正確かもしれない。精密なロボット・アームによる手術、コンピュータ・ソフトが執筆する記事、機械よる作文の自動添削、膨大な判例分析に従って立てられる法廷戦略、データベースに接続したコンピュータによる病気の診断と治療方針の提示――これらはすでに現実のものとなっている。「人間の領域に対して機械が急速かつ深刻な侵蝕を始めたのは、比較的最近のことだ。こうした侵略が、経済的に大きな影響を与えている」とエリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーは記している(注5)。2人はさらに「テクノロジーの発展により所得の分配構造が変化し、低学歴者よりも高学歴者、普通の人よりも成功者、労働よりも資本に優位となっている」と分析する。


オンライン大学よりもハーヴァード


 優秀な知能の牙城である大学もまた新テクノロジーにより激変する可能性があるだろう。オンラインによる大規模な高等教育が普及しつつあるからだ。アメリカの教育営利団体である《コーセラ》は、創設1年の2012年4月時点ですでに300万人超の利用者を誇る。その授業は提携大学で撮影された授業のビデオを用いて行なわれ、課題・試験はコンピュータが採点する。受講生は資格認定試験(有料)を受けられるが、この資格は知識の習得を認定するものではなく、実際的能力を承認するものである。創立者らは、今後は収益化を検討している。つまり、より高額な「プレミアム」サービスの実施や、生徒の情報を企業に販売しようというのである……。「創業者の優位」(一握りの最初の成功者が利益のほとんどをさらう)(注6)の論理に従って、各学問分野において超有名大学の人気教授による授業が競争相手に勝つことになる。  頭脳が独占権を失う複雑な仕事がどんどん増え続けているとしても、だからと言ってすべてのことを機械が行うようになるという展望がひらけているわけではない。有象無象の人々が機械に向かって毒づいている一方で、愛想の良いプロのいる対面サービスは、これからも裕福な顧客を獲得できるだろう。また、ハーヴァード大学で5年間チューターのよき指導を受けた裕福な卒業生は、オンライン大学の発展に惜しみなく拍手喝采を送るだろう。


 カール・マルクスは1856年4月に、ある論文の中で次のように述べている。「今日では、あらゆることが対立物をはらんでいるようだ。機械というものは、人間の労苦を減らし労働の生産性を上げてくれる素晴らしい能力をもつのだが、その機械が反対に人間労働を衰退させ疲れ果てさせている。(…)われわれ人類の発見も進歩も、物質的力に対して知的生命を与えたが、一方では人間の生を物質的力にまで貶めているように思われる」。


 しかし、《コスト病》もまた対立物をはらんでおり、経済体制が自らの存続の限界にまで到れば、《コスト病》もそれにふさわしい治療へと向かっていくことになるだろう。ボーモルが行った試算は問題の大きさを示している。1960年、医療費はアメリカの国内総生産(GNP)の5%だったが、2012年には18%になった。もしこの指標が同じテンポで増加すれば、2105年には医療費はアメリカのGNPの62%になるだろう。確かに、アメリカの例は極端なケースであるし、当然ながら、これほど大胆な試算には疑問を抱かされる。しかし、《コスト病》に関する他の予測を補って考えれば、ある傾向に気づく。すなわち、生産性の向上により工業製品の生産に必要な労働量が減少するにつれて、対面サービスの価値はますます人間労働を大量に消費するサービスから生ずることになる。そのようなサービスは公的サービスや公益サービスの領域に多くの場合所属するのだ。


 要点は以下のことにある。すなわち、人間的サービスの方に価値観の中心が移っていくと、周辺領域で奪い合いが激しくなる。資本家・政府は力を合わせて、人間的サービスを生産性重視の方へ向け、コストを下げようとする。これに対して、人間協働のサービスを再建し、テクノロジーの開放的側面を推進しようとする社会勢力にとって、戦うべき場所はすでに明確である。






(1) ボーモルの昔の著作は邦訳がある。ウィリアム・J・ボウモル、ウィリアム・G・ボウエン著, 池上惇、渡辺守章訳 『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』芸団協出版部――[訳註]
(2) William Baumol, The Cost Disease. Why Computers Get Cheaper and Health Care doesn't, Yale University Press, New Haven, 2012. 特別な注記のあるものを除き、多数の具体例、引用は本書による。
(3) Lire Laurent Cordonnier, «Consommateur au labeur», Le Monde diplomatique, juin 2011.
(4) John Markoff, «Skilled work, without the workers», The New York Times, 18 août 2012.
(5) Erik Brynjolfsson et Andrew McAfee, Race against the Machine. How the Digital Revolution is Accelerating Innovation, Driving Productivity, and Irreversibly Transforming Employment and the Economy, Digital Frontier Press, Lexington (Massachusetts), 2011.「邦訳」エリク・ブリニョルフソン, アンドリュー・マカフィー著, 村井章子訳『機械との競争』、日系BP社
(6) Robert Frank et Philip Cook, The Winner-Take-All Society, Free Press, New York, 1995. 「邦訳」ロバート・フランク、フィリップ・クック著、香西泰訳『ウィナー・テイク・オール「ひとり勝ち」社会の到来』、日本経済新聞社


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年6月号)