国家と良き貧困者のはざまで

ミシェル・フーコーとベーシック・インカム


ピエール・ランベール

(ジャーナリスト)


訳:逸見龍生


 哲学者のミシェル・フーコーは、1978年度の講義で新自由主義的なベーシック・インカム政策である「負の所得税」について論じた。自分の責任で貧困に陥った「悪しき貧困者」を「良き貧困者」から区別せず、一定の所得水準以下の全ての人々に自動的に定額の補助金を与える仕組みである。フーコーは、これによって国民の中に「浮動する人口」が生み出され、労働力の供給源になると指摘する。本紙今月号(2013年5月号)掲載の論文「誰でもベーシック・インカムをもらえるとしたら?」(モナ・ショレ)に対する補足論文。[日本語版編集部]





 経済政策はしばしば諸刃の剣となる。これは社会変革の推進役となるのか? あるいは秩序維持の道具となるか? 国営化は、富の集産化となる場合もあるし、[国家による]損失の共有化ともなる。税は、狙いを定める相手が貧困者か富裕者かによって、金の脅し取りとも配分ともなる。ベーシック・インカムについても同様だ。政策実施にあずかる社会勢力に応じ(参照、モナ・ショレ「誰でもベーシック・インカムをもらえるとしたら?」ルモンド・ディプロマティーク2013年5月号)、それは民衆を市場のルールから保護する制度ともなれば、あるいはまったく逆に、市場ルールの鉄鎖に民衆をつなぎ止める制度ともなる。


 自由主義経済学者ミルトン・フリードマンが、著書『資本主義と自由』(注1)で提唱した負の所得税という仕組みは、明らかに後者に属するものだ。国家は国民全員に固定金額を扶助するが、一定収入を超えた場合──自由主義者によれば、これが貧困状態と分かつラインとなる──納税者の支払う税額は、国家の扶助給付を上回る。この自由主義的な所得保障制度は、1970年代になって[北]米諸国で実施され、フランスにおいても同じ時期に大いに議論された。その仕掛け人となったのは、エリート校理工科学校出身の親米派で、後にともにジスカール・デスタン大統領顧問となった二人、リオネル・ストレリュとクリスティアン・ストファエスである。ストファエスはまた、73年度仏計画庁報告に「負の所得税研究グループ・リポート」を寄稿もしている。哲学者ミシェル・フーコーは、78-79年度コレージュ・ド・フランス講義(注2)において、新自由主義のイデオロギー的基盤を検討した。その際に彼が示したのは、完全雇用を目標として掲げることを断念した統治形態に、負の所得税がぴったり歩調を合わせていることだった。フーコーは言う。新自由主義的論理によれば、経済とは、国家がルールを定めると同時に、ルールの適用を保障しもするゲームとして理解される。所得保障によって「経済ゲームの参加者には完全な負けが不可能となるはずだ。それゆえにまた、ゲームから降りることももはや不可能となってしまうはずである」。言い換えるならば、失うものがもはや何も無いという状態に誰一人として陥ることはないはずだ。国家は経済システムの保護条項を設けるのである。


 フーコーは、このアプローチのもつ二つの点に特に関心を抱き、そして少なくともその内の一つには、惹かれるものを感じていた。第一は、道徳判断の不在という点である。ベーシック・インカムは貧困状態の結果のみを問題とし、その原因には目をつぶる。ストレリュによれば「ベーシック・インカムは貧困者扶助という必要性に基づいて構築される制度であり、貧困の責任が誰にあるのか調べようとするものではない」(注3)。ベーシック・インカムは、良き貧困者と悪しき貧困者を分別してきた従来の伝統的な社会政策と、この点において袂を分つ。フーコーが熱狂するのはこの点だ。「つまりは、なぜある者が社会的活動というゲームの可能なレベルから転落してしまったかなど、誰も関心を寄せることはないし、関心を寄せるべきでもないのである。薬物中毒者だろうが、自発的失業者だろうが、まったく気にもしないのである」。国家は「あれこれと詮索することなく、つまり官僚的・警察的・異端審問的なもろもろの調査を行うことなく、対象者を助成することで満足する。この助成のメカニスムにしたがって、被助成者は、ゲームに復帰するように促されることとなる。[…]だが、被助成者がそう望まないのであれば、それはそれでべつにまったく構わない。被助成者はそのまま助成を受け続けることになろう」。少なくとも理論的にはその通りだというべきか。


 負の所得税は第二に、戦後ヨーロッパで実施された社会政策とも袂を分つ。それは負の所得税が「所得の総体的な再配分、すなわち社会主義的政策という旗印の下におおよそまとめることのできるもの」とことごとく対立しているからだ。社会民主主義が所得格差の縮減を目指すのに対し、新自由主義は絶対的な貧困状態は抑制しようとするものの、経済的不平等には目をつぶる。あるラインによって社会を貧困者と非貧困者に分割するのである。フーコーは言う。「このラインよりも上では、ゲームの経済的メカニズム、競争のメカニズム、そして企業のメカニズムを作用させておく。[…]そこでは誰もが自分自身のため、家族のために仕事を引き受けねばならないだろう」。このラインのあたり、その下では、「一種の浮動する人口が存在する。完全雇用を目標として掲げるのを断念した経済にとって、つきることのない労働力の供給源となる人々である」。


 このような自由主義的扶助制度は、「完全雇用を軸とするシステムに比べればはるかに非官僚的で、なおかつ非規律=訓練的」である。それは「右派」の言うベーシック・インカムの二面性を示すものだ。「人々が望めば仕事ができる可能性を確保する」一方で、「これらの人々に仕事をさせることにメリットがなければ、彼らに仕事をさせないでおくという可能性も手に入れた」のである。


 残念ながら、自由主義的な観念は、実行に移そうとすると、いつも強制権がつきまとうものだ。フランスの積極的連帯手当(RSA)やドイツのハルツ・フィアー(Harz IV)制度[いずれもほぼ日本の生活保護手当に当たるもの——訳注]の受給者に対し、国家はたえず、良き貧困者としての善意を披露するよう求めることとなる。






(1) Milton Friedman, Capitalisme et liberté, Robert Laffont, Paris, 1971 [1962].ミルトン・フリードマン(村井章子訳)『資本主義と自由』日経BP社、2008年。
(2) Michel Foucault, Naissance de la biopolitique. Cours au Collège de France, 1978-1979, Gallimard-Seuil, coll. « Hautes Etudes », Paris, 2004, dont sont issues les citations qui suivent. ミシェル・フーコー(慎改康之訳)『生政治の誕生 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度』筑摩書房、2008年。
(3) Lionel Stoléru, Vaincre la pauvreté dans les pays riches, Flammarion, Paris, 1977. リオネル・ストレリュ(益戸欽也・小池一雄訳)『富める国の貧困 社会的公正とは何か』サイマル出版会、1981年。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年5月号)