モンゴルにおける鉱山業の発展と遊牧民の定住化

ウランバートル郊外のゲル地区をめぐって


レジス・ジャンテ特派員

ジャーナリスト


訳:上原秀一


 かつて地面の下は神聖とされていたのが、その地下にある資源が集中的に開発され、すべてをひっくり返す。確かに熱狂的な鉱山採掘が経済成長を刺激しているが、風景はずたずたにされ、伝統的な遊牧生活が徐々に消滅し、環境汚染が蔓延している。世界で二番目に環境汚染がひどいウランバートルは、一方でゲルの寄せ集めの地区が広がり、他方で新富裕層のためのきらめく高層マンションが立ち並ぶという形で拡大し続けている。[フランス語版編集部]




遊牧生活の終わり


 モンゴルの首都ウランバートルの郊外には、過去10年間に集まってきた40~50万人の住民がいる。郊外を歩いて人々に話を聞けば、皆、モンゴルは転換期にあると言うことだろう。しかし、転換期というよりむしろ断絶期と言ったほうがいい。2000年代初頭以来、モンゴルの人口280万人のうち15%が首都に移住したからである。フランス国土の2.5倍の面積を持つこの国で、かつてこのような都市への集団移住が起こったことは一度もない。社会主義体制下で促進された産業と都市の発展、そしてそれに続く1990年代の市場経済への急激な移行によって、2500年にわたって中央アジアの過酷な気候の下で存続してきた遊牧民の生活様式が終わりを迎えるかも知れない。


 遊牧生活を続けているのはもはや国民の3分の1に過ぎない。この数字は1980年には80%であった。起伏に富んだ広大な草原のゲル[テント式の移動住居――訳注]という典型的な景観は消え去り、観光用に作られた風景として残ることになるのかもしれない(注1)。人々がゲルを移動させた結果、ウランバートルの住民の60%が周辺のゲル地区(ゲル・ホロー)で暮らすようになっている。しかし、そのゲルは、徐々に自作の小さな家に変わっている。ウランバートル南東のシャーハッド地区に住む50代のブイヤンバートさん(注2)は言う。「ゲルを維持するのは大変です。夏にはフェルトの層を取り外して換気のために周りをめくり上げなければなりません。冬にはまた取り付けなければなりません……。だから私たちはこの土地を家付きで買ったのです」。ブイヤンバートさんは、ゴビ砂漠の鉱山で1年に7か月働いている。広大な国土のあちこちに採掘現場があるにも拘わらず、彼は妻とウランバートルで暮らしている。モンゴルは、鉱山業の非常な急成長に沸いている。石炭、銅、ウラン、そしてレアアースの莫大な埋蔵量に恵まれ、投資家たちを引き寄せているのだ。


 ゲル・ホローは、都市と草原の境界領域を成している。中心市街から最も離れた形成途上の地区では移住者が到着したばかりであり、羊の鳴き声や馬のいななきが聞こえる。囲いを施された土地の内部はほとんど手入れがされていない。門には多少の配慮が払われている。出入り口は象徴的な価値を持つと思われているので、門は青や緑に塗られ、伝統的な模様で飾られているのである。彫刻の施された周囲の柵の支柱も同じである。


 「常にさまよい留まらない」、これがモンゴル人のモットーである。しかし、このゲル地区で出会う住民の中には、草原や砂漠への再出発を計画している人はほとんどいない。欧米人を魅了する広大な大地に郷愁を抱く人はいないようだ。現代文明のおかげでようやく過酷な遊牧生活と縁切りできたとでも言わんばかりである。遊牧生活は、普通のモンゴル人の目にはまったくロマンチックには見えないのだ。


鉱山業の飛躍が国の姿を変える


 移住者の大部分は、この10年間にウランバートルにやってきた。ウランバートルという名前は、モンゴル語で「赤い英雄」を意味する。1924年の人民共和国建国宣言で決まった名前だ。今では俗に英語風に「UB」とも略称される[ウランバートルは仏語ではOulan-Bator、英語ではUlan Bator--訳注]。これは、1991年にこの国をとらえた資本主義気質の影響である。移住者たちが流れてきたのは、この上なく厳しい冬のせいだった。2000~2003年のあの恐るべきゾド(「雪害」という意味)である。ゾドには5~6種類がある。気温はすぐにマイナス50度まで下がるが、ゾドは気温の低さで区別されるのではない。雪の下の牧草に家畜が到達できるかどうか、あるいは凍結と溶解の交代ぶり、さらには翌年家畜を養うのに必要な牧草が生えるのに水の量が足りるかどうかによって区別される。


 国立東洋言語文化学院(INALCO)教授でモンゴル事情の専門家であるジャック・ルグラン氏は、問題の根を次のように説明する。「2000年代初頭には、遊牧民の多くが新タイプの牧畜家になっていました。社会主義時代の定住化政策によって2~3世代前から都市に住んでいた世帯の人々です。1991年に社会主義体制が瓦解したために、この人々は草原に帰って行ったのです。ほぼ一瞬にして経済が崩壊し、工場が閉鎖され、流通機構が消滅したからです。しかしこの人々はもはや遊牧の技術を持っていませんでした。国の方も対応する力をすでに失っていました」。遊牧生活をするためには、実際、自然環境をよく知っていなければならない。一年を通じて季節ごとに家畜の群れを連れて行って放牧するのに適した場所はどこか、よく知っていなければならない。遊牧民の社会に完全に溶け込むことも必要だ。牧草が少なくなったら、よその家族と交渉して、普段放牧している場所の向こう側の区域に家畜を連れて行くことができなければならないからである。


 ルグラン氏は、かつてない大規模な集団移住について、さらに次のような理由を挙げている。まず、牧畜部門が市場経済に移行したために牧畜農家が交通の要路の周辺に集まらなければならなくなったことである。また、農業部門がすべて壊滅したために人々の間に商業地域に近づいて行こうとする意思が働いたということである。そしてさらに、イタリアを始めとする外国の企業がやってきて野心的なカシミア関連産業を作りだしたことである。工業の域にまで高められたカシミア関連産業は、悪い結果をもたらした。山羊が牧草を根まで食べ尽くしてしまったのである。ルグラン氏は、「こうした様々な要因に共通しているのは、遊牧生活の原則に反しているということです。遊牧生活は、家畜の群れを養うのに十分な広さを持った地域に留まり、エリア内を常に回り続ける生活様式です。その前提条件は、人口が極めてまばらに散らばっているということです」と説明している。


 さらにこれに付け加えるべき事実がある。文化人類学が専門のストラスブール大学ガエル・ラカーズ氏は、論文で次のように説明している。「生活の全領域に関わるこの20年間の一連の改革によって、生活保護費が減額されると同時に、企業が民営化し、医療保険が患者負担となり、教育が私的なものとなり、土地が私有化されるというプライバタイゼーションが起こった。失業問題の発生や中産階級の解体、貧富の差の両極化の進展によって、モンゴル社会は目に見える転換を経験した。特に首都の在り方が大きく変わった」(注3)。


 最後に、都市周辺で居住用の土地が無償で与えられたことも、こうした移住の動きを促進した。鉱山を外国企業に開放する決定をうまく受け入れさせるため、国会は、2002年、700平方メートル以下の土地を所有する権利を各世帯に与える法律を可決した。2008年には個人にも所有権が認められるようになった。土地所有のためにはただ登記するだけでよいのでお金は数十ユーロで済むのだが、障害物競争のような役所の手続きを避けて通ることはできない。中心市街の近くに住みたいとか、(崖崩れや洪水などの)危険の多い場所にゲルを建てたくないとかいった場合には、他人からハシャー(「区画」という意味、囲い地)を買い取ることもできる。平均年収が2,383ユーロであるのに対して、土地当たり5,000ユーロから5万ユーロという相当な高額で取引されている(注4)。


 モンゴルの新興民主体制は、長期間にわたるソ連の影響下にあったため今でも強力な経済ナショナリズムを肯定しており、2002年の法律は代償措置のように思われる。2012年6月の選挙でも、強力な経済ナショナリズムを訴える新人国会議員が多数当選した。実際、選挙戦は、鉱山という天の賜をどう分けるかという問題で加熱した。最終的には、共産党の流れをくむ与党モンゴル人民党(MPP)が敗れ、野党モンゴル民主党が政権を奪う結果となった。しかし、モンゴル民主党は、絶対多数を獲得することはできなかった。このため、複数の少数政党と連立しなければならず、[経済ナショナリズムに反して――訳注]鉱山開発計画への諸外国の参加を議事日程に上らせざるを得なかった。


 実際の政策は、鉱業利潤の再配分という公約と汚職スキャンダルとの間を揺れ動いている。汚職スキャンダルは、ナンバリーン・エンフバヤル前大統領(在任期間2005~2009年)を2012年8月に懲役4年の有罪判決へと追いやった。政策の背景には、不安混じりの資本主義信仰がある。アイデンティティの喪失に対する不安感がある一方で、隣接する中国・ロシアの二大国への反発から遠方の大国[アメリカ、ヨーロッパ諸国、韓国を指す――訳注]との間で一時的な同盟関係を結んでいるのである。


 鉱業部門は、歴代政権の最優先課題であった。1960年代に社会主義政権は、遊牧に過度に依存していた国民経済を多様化することを決定した。そのときすでにソ連の専門家の支援を受けて鉱山採掘の拡大が試みられていた。今日ではモンゴルは完全なゴールドラッシュにあるようだ。そして遊牧生活は、1950年以降のフランス農業の運命に似た運命を辿るかも知れない[フランスの農業は1950年代に大規模化が進められた――訳注]。


 鉱山業の活気は、何もかもひっくり返すかもしれない。政治情勢の混乱、経済と社会福祉のバランスの混乱、地下資源に依存し始めた地方の発展による混乱(注5)、環境との関係の混乱である。環境活動家のツェツェゲ・ムンフバヤル氏は言う。「何でもかんでも拒絶してはなりません。それは分かっています。しかし、モンゴルでは、何年もの間、エルデネトの銅鉱山[1970年代に発見――訳注]のほかは採掘しないで済ませてきたのです。どうして国内の鉱脈をちびりちびりとごくわずかずつ開発するというやり方にならないのでしょうか。これは、私たちが作り上げてきたバランスを壊さないための最善の解決策だと思うのですが」。


 2010年にはまさに環境保全を公式の理由として採掘権の新規授与を停止する措置が国会で可決された。これによって、3,000件の採掘権がいったん無効となり、更新されるかどうかが不透明な状況となっている。4,000件の採掘権は効力を保っている。外国企業は、特にゴビ砂漠に位置する巨大な鉱脈の開発を促されている。オユ・トルゴイ(「トルコ石の丘」という意味)銅鉱山やその近くのタヴァン・トルゴイ炭坑などである。フランスの公共企業アレヴァ社[原子力産業複合企業――訳注]は、苦労が多くコストがかかるウラン鉱石の探索作業が近いうちに実を結ぶよう期待している。


コンクリート住居は中心市街のみ


 モンゴルの指導者たちは、このように国を現代化して困難の多くを解消したいと考えている。世界銀行によると、モンゴル人の15%が貧困状態で暮らしている。これに対する改善の動きは、理論上はすでに始まっている。2010年に6.4%だった成長率は、2011年には17.3%に達した。成長率という指標は外国による対外直接投資に左右されるため2012年にはやや下降したものの、それでも11.8%を保った。英豪の巨大企業リオ・ティント社が開発したオユ・トルゴイ銅鉱山の操業開始の影響で、2013年には国内総生産(GDP)が30%以上膨張すると見られている。しかしモンゴルの人々は、どの程度の金が国内に残されてそれを拝むことができるのか疑問に思っている。時には指導者自身がそのように問うこともある。しかし、国際的な非政府組織(NGO)のモンゴル人代表は、「指導者がそうするのは困ったあげくにポピュリズムとナショナリズムの間を綱渡りして票を集めようとする時だけです」と説明している。


 1991年以来の民主体制によって、事実上、ある種の中央集権化が推し進められてきた。先に紹介したラカーズ氏の論文は次のように説明している。「首都ウランバートルは、社会主義時代には都市への集団移住の目的地として特別な場所ではなかった。他の都市圏も首都と同様のサービスと快適さを備えていたからである。今日では、行政、社会福祉、教育、医療に関する良質なサービスは、大部分がウランバートルに集中している」(注6)。しかし、M.A.Dインベストメント・ソリューションズ社[モンゴルの不動産投資会社――訳注]の報告書は、次のように指摘している。「鉱山業の成長によって急速なインフラ整備が促され、首都に次ぐ規模の都市の人口が増加しつつある。こうした都市の大多数がゴビ砂漠に位置している。鉱山開発計画によってインフラへの大量投資や雇用の創出、職業訓練の発展が可能になったからである」(注7)。例えばモンゴル南部ゴビ砂漠のダランザドガドのような都市では、人口が2009年から2011年までの間に1万7,000人から3万人に増加している。


 しかし、鉱山雇用によるこうした地方回帰ゆえの問題も生じている。採掘会社のある欧米人幹部は、「鉱脈を回る輪番制のために、労働者は、例えば、雇用者が所有する飛行機でウランバートルに戻り、15日間の休暇を家族と過ごした後、再び出発して3~4週間生産現場で働くということがあり得ます」と述べている。鉱山は、モンゴル南部の中国国境付近を中心に全国各地に点在している。このため、国全体で人口を再編するのに必要なインフラの建設は著しく複雑でコストのかかる事業となっている。


 行って戻ってまた出発する。常にこれが、実用主義(プラグマティズム)を根底に有するモンゴル遊牧民の生活様式であった。文化人類学者のグレゴリー・ドゥラプラス氏は言う。「例えば、ゲルに対してほとんど感傷を持たない態度には、モンゴル人の行動様式が表れています。モンゴル人は、天候の変化に適応するための生まれつきの柔軟性ばかりでなく日常生活を新たに作りだす方法も身に付けています。モンゴル語には、これを言い表す『モンゴル化する(mongolchloh)』という動詞まであるのです」。21世紀初頭の都市への集団移住も、こうした長期的な観点から観察するべきなのだろうか。定住していたのはほぼ一瞬のことだったと言わんばかりに……。


 ウランバートルは、社会主義時代の例外を終えて、10年前から再び風変わりな首都に戻りつつある。景観デザイナーのレア・オマージュ氏が観察するところによれば、この都市のかなりの部分が「柔らかく」できている。それはいわば「環境への適応の必要に応じた都市形成と流動的な状況に応じた都市形成との異種混交的な在り方」である(注8)。トール川流域の丘から見ると、首都圏は白い点と青、緑、赤の色をした四角形が奇妙に集まったものに見える。白い点は、ゲルの丸天井である。青、緑、赤の四角形はメードインチャイナのトタン板で覆われた小さな家の屋根である。ゲルと家は、ひとつひとつがハシャーと呼ばれる四辺形の中に構えられている。ハシャーは高い柵に囲われており、柵は、荒削りな針葉樹製の板と柱でできている。板や柱のかわりに、時としてベッドのヘッドボードやガスレンジのカバーなどのがらくたが置かれていることもある。


 北部フブスグル地方から到着したばかりの一家のおばあさんは、「うちは裕福でありません。財産は二つのゲルだけです」と言う。この家族は、3人の子どもを学校に行かせるためにやって来たのだ。不安定な時代にあって、学歴はもう一つの貴重な資産なのである。この家族は、急な斜面を削ってできたハシャーにゲルを建てた。柵がもうすぐできあがる。犬はもう敷地の見張りを始めていて、鎖につながれ苦しそうにしている。16平方メートルほどのゲルを建てる平らな面を整えるために、車のタイヤを地面につないで重ねて盛り土がしてある。


 ゲル・ホローという現象は新しいものではない。ステファヌ・パセが1912~1913年に撮った写真を見ると、ウランバートルのガンダン地区にはすでに柵が立ち並んでいる。パセが、フランス人銀行家アルベール・カーンの「地球資料館」計画のためにモンゴルを旅行したときの写真である。ガンダン地区は、仏教寺院の周辺に形成されている。仏教寺院は、モンゴルにおいて都市化の起源となる。今日でもこの地区に住むのは僧侶の家族が多い。ウランバートルの元となった旧都市ウルガは、1706年以降にイフ・フレー(「大野営地」という意味)という名に変更された後、1778年までの間、定期的に位置を変えるそれ自体が遊牧民的な都市であった。


 耐久住居は中心市街にしかない。中心地は、モンゴルがソ連の影響下にあった時代に建てられたコンクリート製の重厚な建物と見栄えの悪い団地でできているが、これも大きく姿を変えた。「社会主義風」の建物の一階部分は、1990年代初頭以降、ブティックに作り替えられた。何でもそろう露店(ソーセージ、パン、生活必需品、洗剤など)、ギリシャ風の円柱で飾られたドアのある美容院、カビ臭い小さなカフェ、パブ、中国製洋品店などである。通りはけばけばしい看板でいっぱいだ。交差点まではみ出した売店の軒下にごく小さな店や通行人のためのザガーン・ウタス(「公衆電話」という意味)が入っている。少し郊外に出ると、そこでは物置や作業場、倉庫として用いられるコンテナが積み上げられているのが見える。


 数年前からは超近代的な建築様式の建物が出現し、首都の都市計画史における画期をなしている。生まれたばかりの寡占支配集団が、総ガラス張りの巨大ビルを建てている。この新富裕層は良い時に良い地位にあった社会主義時代の指導者層であり、将来性のある鉱山利権を独占し(注9)、おいしい経済部門を見つけることができたのである。


バレエのように荷車を引く子ども


 政府当局は、いつかはゲル地区が無くなると信じたがっているようだ。あるいは信じさせたがっているようだ。建築家のオリヴィエ・ブシュロン氏は論文の中で、「ゲル地区の住民は、国家経済の中心地に定住する覚悟があったり、少なくともしばらくの間はそこに居を構えようとするつもりであったりしたとしても、半ば遊牧民の状態に留まっている。このような都市形成の方法は、モンゴル政府当局の希望とは必ずしも一致してはいない」と述べている(注10)。確かに、「ウランバートルでは、他国のスラム街と違って場所が不足しているわけではない。2000年には、人口密度は、計画市街地で1ヘクタール当たり55.6人であったのに対し、ゲル地区では32.2人であった。また、土地の不安定がないという点でも違っている。住民は自分の区画の所有者なのである」(注11)。それでもやはり、ゲル・ホローの存在は、誰にとっても――住民にも、指導者にも――恥と感じられている。


 ゲル・ホローでは、貧困や失業、荒廃、アル中、治安などの問題が蔓延している。そこでは隣人と知り合いであるのは珍しいことである。ゲル・ホローの整備開発と都市計画は厄介な問題である。井戸や給水所が自宅のハシャーから数百メートルも離れているというのも普通のことである。毎日家に水を運ぶ子どもたちが荷車を引いて通りを行く姿は、まるでバレエ劇場のようだ。冬には、多数のゲルが石炭で暖を取るため、息もできないほど空気が汚れる。各家庭が5トンも石炭を消費するのだ。間に合わせの小売店があるだけで、市場もスーパーもない。ゲル・ホローは混沌とした印象を与える。川床にゴミが捨てられていて、洪水の危険のある場所に住まねばならず、非常用の通路も無い……。


 歴代政権が策定してきた2020年までの基本計画は、改訂されるにつれて、ゲル地区の存在を容認するようになってきたようだ。都市計画庁長官のフレルバータル氏も認めている。「ゲル地区の住民が再び草原に戻って行くことはないでしょう。このため私たちの第5次計画は、三つのゾーンを確立する方針を立てています。ゾーンごとに異なった建設戦略を立てるのです。中心市街に大きな建物を、その周りの近郊市街地にやや小さな建物を配置し、住宅は最も外側の郊外地区に配置します」。所有権が見事に保護されているこの国では、これは一つの冒険である。収用権の拡大が新しい計画の焦点となる。ハシャーの売却を拒むたった一人の住民のために橋の建設に6年もかかったことがあるからである。


 ゲル・ホローの住民の多くは、十分な広さのアパートがあれば、それを喜んで手に入れようとすることだろう。一つのハシャーに住む一~二世帯が暮らしていくのに十分な広さがあって、値段が高くなければ、ということだ。一方、政府当局とウランバートル当局は、これらの新参都市生活者に引っ越しを促すために、市場メカニズムに頼ろうとしている。しかしこの「メカニズム」がウランバートルでうまく機能するのかどうか定かではない。貧困と不安定のためである。一時的に作られたゲル・ホローが今後何十年も存続していくということが十分にあり得るのだ……。





(1)Galsan Tschinag, « Au pays de la steppe grise », Le Monde diplomatiques, août 2004.を参照。
(2)伝統的にモンゴル人には名字がない。
(3)Gaëlle Lacaze, « Le “Héros Rouge” est en crise : pollutions et post-socialisme à Ulaanbaatar, capitale de la Mongolie », Revue des sciences sociales, n° 47, Paris, 2012.
(4)« The Mongolian real estate Report », MAD Investment Solutions, Oulan Bator, 2012.
(5)遊牧民の古来の信仰では土地を掘り起こすことが禁じられている。聖霊の怒りを呼び覚ますからである。 Cf. « Mongolie: chamanisme et capitalisme », Religioscope, 7 août 2012, www.religion.info
(6)Gaëlle Lacaze, « Le “Héros Rouge” est en crise », op. cit.
(7)« The Mongolian real estate Report », op. cit.
(8)« Quand la steppe devient urbaine. Paysage de ville informelle à Ulaanbaatar », travail personnel de fin d’études à l’Ecole nationale supérieure d’architecture et de paysage de Lille (ENSAPL), juillet 2010.
(9)« Mongolia : do oligarchs see politics as a growth opportunity? », EurasiaNet, 27 septembre 2012, www.eurasianet.org
(10)Olivier Boucheron, « La ville de feutre », Lieux communs, n° 12, Nantes, octobre 2009.
(11)Olivier Boucheron et Léa Hommage, « La ville d’après. Etat et devenir du ger horoolol à Ulaanbaatar », Observatoire des Etats postsoviétiques, Institut national des langues et civilisations orientales (Inalco), Paris, 25 mai 2011.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年3月号)