バグダード、10年後

イラク石油戦争の挫折


ジャン=ピエール・セレニ


ジャーナリスト


訳:仙石愛子


 長い間アメリカ政府の要人たちは、イラク戦争の目的は石油の独占ではなかったと断言してきた。しかし、先ごろ機密解除された文書が逆のことを語っている。アメリカのネオコンは、米国への石油供給基地としてイラクを押さえようとし、無謀な戦争を仕掛けたのである。[フランス語版・日本語版編集部]





はじめに石油ありき


 イラク国民にとっては自明の理であったことを、アメリカ国防総省のタカ派は否定してきた。イラク戦争は2003年3月に始まり、少なくとも65万の死者、180万の亡命者、ほぼ同数の避難民を生んだが、これは石油のための戦争ではなかったのか? 先ごろ公開されたアメリカの一連の機密文書のお陰で(注1)、歴史家は今後この疑問に「イエス」と答えることができるのだ。当時の大統領ジョージ・ブッシュ、副大統領ディック・チェイニー、国防長官ドナルド・ラムズフェルド、さらに彼らの忠実な盟友でイラク侵攻時のイギリス首相トニー・ブレアの面々が否定していたにもかかわらず……。


 ブッシュ氏は、2001年1月に大統領に就任したとき、すでに以前から存在していたある問題に直面しなければならなかった。石油需要は、中国やインドのような新興大国の台頭により急速に増大していたが、供給の方はそれに追いつかず、需要と供給の不均衡が起こっていた。考えられる唯一の解決法はペルシャ湾にあった。ここには世界の石油埋蔵量の6割が眠っていたからだ。埋蔵国はサウジアラビア、イラン、イラクの3大国とあと2つの量産国、クウェートとアブ・ダビだった。


 石油生産は政治的・財政的理由で足踏み状態だった。サウジアラビアに関しては、君臨する大富豪御三家、すなわちサウード家、サバーハ家、ナヒヤーン家が、(人口が少ないことを鑑みて)ほどほどの収入でよしとし原油を地下に温存しておくことを選択した。イランとイラクは、2か国で世界の石油・天然ガス埋蔵量の4分の1近くを所有していたため、世界の需要と供給の隔たりを埋めることは可能だったであろう。が、この2か国は経済制裁を科せられており――イランはもっぱらアメリカから、イラクは複数国から――、必要不可欠な石油関連施設と採掘業務の遂行が不可能になっていた。その上、アメリカはこの2か国を「ならず者国家 」に分類し、制裁解除を拒んでいた。


ネオコンの支配力


 では、ペルシャ湾岸地域におけるアメリカの主導権を危うくすることなく、どのようにしたらこの地域からより多くの石油を持ち出すことができるか? ネオコンたち――もともとは民主党支持の知識人のことで、ソ連崩壊後、自信を取り戻した帝国主義に加わった人たち――は、解決策は見いだしたと信じていた。彼らは、1991年の第一次湾岸戦争当時、大統領だったジョージ・ブッシュ父の「サダム・フセインは失脚させない」という決定を認めようとしなかった。ネオコンたちは《アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)》を結成し、1998年には、それに鼓舞された大統領、ビル・クリントンへの公開状の中でイラクの政権交代を強く勧めた。ネオコンの方針は単純だった。つまり、フセインを政権から力ずくでも引き摺り下ろし、アメリカの「大手石油資本」をイラクに投入させるべし、ということだった。PNACのメンバーたちは、2001年、共和党の新政権チームに結集することとなった。


 その翌年、イラクの石油産業の将来に関して専門家たちの仕事を指導したのが、ネオコンの1人、ダグラス・フェイス氏だった。この人物は、ラムズフェルド率いる国防総省の次官に就いた職業弁護士である。彼の最初の決断は、勝利の暁には、その運営を軍需会社、ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート(KBR)に委任することだった。この会社は、チェイニー氏が長年CEOを務めていたアメリカの石油関連会社、ハリバートン・グループの中の一社である。フェイス氏の計画は、イラクの石油生産を2003年初頭の水準(1日あたり284万バレル)に維持することであり、これは世界市場を混乱させるような暴落を避けるためであった。


 もう一つの問題は、イラク石油の民営化問題だった。この問題については専門家の意見が分かれた。1972年以来、外国企業はイラクが成功裡に統制していた石油部門から締め出されていた。2度の戦争――対イラン(1980~1988年)戦、およびクウェート戦(1990~1991年)――と15年にわたる制裁にもかかわらず、イラクは2003年初頭には1979~1980年に匹敵する生産レベルまで取り戻した。1979~1980年の生産量とは、平和時の通常事態に対応する生産量である。


 アメリカとイギリスには2つの選択肢が提示された。1つは、1972年の国営化前に有効だった権利委譲制度に事実上戻ること、もう1つは、ロシアに倣って《イラク国営石油会社(INOC)》の株を売却すること、その際、購入者には譲渡可能な証書を発行することだった。ロシアではこの方法により、ロシア連邦の地下資源がきわめて迅速に競売にかけられたが、それは一握りの独裁政治家たちに有利に作用し、彼らはたちまち大金持ちになった。


 アメリカ国防総省および国務省によって練り上げられた計画は2003年1月にブッシュ大統領によって承認された。勲章をたくさんつけているが相当時代遅れで高齢のジェイ・ガーナー将軍が軍政長官(別名、復興・人道援助事務所長)となり、フセイン後のイラクを統治する任務に就いた。将軍は目先の仕事で満足し、技術者たちが提示する選択肢の中から決断を下すこともなかった。


エクソンには「油田に命を捧げよう」と言う社員など1人もいなかった


 こういった準備がなされている間、大手の国際企業がじっとしているわけがなかった。アメリカ最大の石油会社、エクソン・モービルの社長、リー・レイモンド氏は、チェイニー副大統領の長年の友人であった。しかし、彼は実業家の慎重さをもって政治家たちの向こう見ずに立ち向かった。確かに、そのプロジェクトは魅力的であり、何年間も停滞しているエクソンの備蓄を再び増大させる機会を提供してくれるものだった。しかしながら、ある疑念がこの案件の隅々にまで漂っていた。ブッシュ大統領は、エクソンがイラクですっかり安心してビジネスができる環境をつくり出せるのだろうか ? エクソンには「油田のために命を捧げる」心積もりのある社員は1人もいない。技術者たちは非常に高い給料を受け取っており、イラクで防塁に入るよりフロリダかカリフォルニアの太陽の下、悠々自適の年金生活を送ることを夢見ているのだ。身の安全もまた法的に保証されなければならなかった。法的な正当性がなくただ支配しているだけの権力者が署名した契約書はどれほど信頼できるのか? 何十億ドルという資金が投入され、その減価償却に何年もかかるというのに……。そういうわけで、エクソンは慎重に距離を置き続けた。


 ロンドンでは、BP(旧称ブリティッシュ・ペトロリアム)が自分の取り分について心配していた。2002年10月、同社の代表者たちは商務省に、次のことを報告した。つまり、アメリカはフランス、ロシア、中国の石油会社に過度の権利を与え、それと引き換えにこの3か国に国連・安全保障理事会での拒否権行使を断念させようとしている、と。「トタル[フランス最大の石油企業――訳注]に出し抜かれる!」とBPの代表者は怒りで息を詰まらせた(注2)。ところが、2003年2月、こういった不安はもはや意味がなくなった。というのは、フランスのシラク大統領が、アメリカ政府が主張した決議案に拒否権を行使したのだ。第3次イラク戦争が国連の承認なしで始まることになった。フセインがトタルその他の石油会社と取り決めた協定を守るかなど、もはや論外であった。そういう協定は、懲罰行動を理由に実際に現地で発効することは決してなかったが、その筋書きは出来上がっていたのだ。


揺れるアメリカの指針


 アメリカ政府はイギリスの石油会社をなだめる目的で、イラク侵攻前夜に、問題点確認のためとして会社代表者の中から2人を選任した。ゲーリー・ヴォグラー氏(エクソン・モービル)とフィリップ・J・キャロル氏(シェル)だ。同年10月には、この2人に代わって他の専門家2人、ロブ・マッキー氏(コノコ・フィリップ)とテリー・アダムス氏(BP)が後任となっている。国防総省の支配力と、同省に遍在するネオコンとのバランスをとる必要もあった。ネオコンは自分たちの息のかかった者をほぼ全てのポストに就かせていたが、政府内部ですら批判を受けるような人たちだった。それでも、アメリカの野心的戦略を定式化することができず、二極の間を常に揺れ動いていた。一方では、理論家たちが常軌を逸した考えを増殖させていた。彼らが望んでいたのは、イラクの原油をイスラエルへ送るためのパイプラインを建設すること、石油輸出国機構(OPEC)を解体させること、さらに「解放された」イラクを新型産油国の実験台にし、その結果を中近東全体に適用させることだった。そして他方では、技術者や企業家たちが利益と成果を追い求め、もっと通俗的なリアリズムを提起するという一石二鳥を狙っていた。


 イラクの石油産業への介入ショックは、結局惨憺たる結果をもたらすことになった。アメリカ軍の航空機から洪水のように襲ってくる爆弾やミサイルよりも、あらゆる形態の国家組織が犠牲となる略奪行為のためである。役所、学校、大学、古文書館、図書館、銀行、病院、美術館、会社が、組織的に丸裸にされ、奪われ、破壊された。油田掘削機は、設置されている銅製の先端部分があてにならないという理由で解体され、骨組みはグニャグニャになったまま放置された。略奪行為は2003年3月20日から5月末まで、10週間続いた。石油産業に加えられた損害の3分の1は戦争中のものだが、残りの3分の2はそのあと被ったものだ。


破壊行為とともに始まったイラク復興


 すべてが《イラク石油復活(RIO)部隊》および500人の下請け業者の面前で展開した。RIOはかの有名な《アメリカ陸軍工兵隊》に指導を受け、下請け業者も石油関連施設を守るための準備と訓練を特別に積んでいた。短かい軍事活動で、フセイン信奉者による油田爆破を阻止することはできたが、早くも2003年6月上旬には破壊行為が始まった。


 唯一の守られた建物、すなわち巨大な石油省の入っている総合庁舎では、公務員1万5000人が働き、22の関連会社を統制していた。なぜ、油田と石油省は守ったのに、輸出用原油を売る《国営石油市場機構(SOMO)》やその設備は守らなかったのか? それは、占領者にとっては埋蔵石油がイラク唯一の真の財宝だったからだ。施設も職員も彼らの関心を引かなかったが、石油省は辛うじて無関心からもれた。その理由は、石油省が油田に関する地質学および地震学上のデータを握っていたからだ。イラクには、80の油田に1150億バレルの原油が眠っていることがわかっている。石油省以外は全て《made in USA》の最新式設備と国際企業の専門家が取って代わることができるだろう。それは略奪行為のせいでさらに必要不可欠のものとなるわけだ。


 タミール・アッバス・ガドバン氏は石油省で最も若い本部長だったが、無人となった省庁の玄関先に3日後に姿を現わし、組織のナンバー2――正式な石油相はいなくなっていた。というのもイラク政府がなくなっていたから――となった。そして、ペンタゴンの信頼を受けているネオコンの1人、マイケル・モッブス氏の細かい指示に従うことになった。鼻持ちならない総督、ポール・ブレマー氏は、1年任期(2003年5月~2004年6月)で全権を任されたが、国防総省・石油部門が70年にわたって経験した中で最悪の年に就任することとなった。1日あたり100万バレルの損失、すなわち戦争前の3分の1に減少した生産量は、130億ドル以上の損失を意味した。


「略奪は蔓延し、機材は盗まれ、建物は焼かれました」


 関連施設は、3500人ばかりの丸腰の警備員たちに監視されたが、途切れることのない破壊行為(2003年5月から2004年9月の間に140回)で、その被害総額は70億ドルと見積られた。「盗みが横行し、資材が盗まれ、中でも最も多かったのが建物への放火でした」と、ガドバン氏は打ち明けた。ダウラ製油所はバグダード郊外にあったが、断続的にしか生産していなかった。その理由は、国土を貫通する何千kmにも及ぶ石油配送管に被害が出ていたからだ。「やるべきことは1つしかありませんでした。パイプラインの破壊された部分に残っている原油の最後の1リットルまで燃え尽きさせること、復旧はそれからでした」。どうにか、ダウラ製油所は稼動し続けた。これは真の偉業だったが、職員たちにはもはや給与は支払われていなかった。


 最も耐え難い一撃が、石油産業の支配グループに対して加えられることになった。1952年まで、《イラク石油会社(IPC)》の幹部は事実上、全員が外国人だった。「アパルトヘイト」による支配が実際に進行していた。外国人居留地には、しっかりとした囲いが設けられた上、警備がつき、その中に芝生つきの立派な住宅が用意されたが、すぐ近くのスラム街にはイラク人労働者が暮らしていた。1952年に隣国、モハンマド・モサデク首相率いるイランとの緊張が高まったことで、IPCはイラク政府との関係を少し修正せざるを得なくなった。新しい協定にはイラク人幹部の養成に関わる項目が加えられた。それから20年後、約1000の要資格の職務のうち4分の3にイラク人が就いていた。これは、国有化の成功を意味するものであった。1972年に国営INOCはイラクの油田全体を取り戻した。生産量はIPC時代には経験しなかったレベルに達した。


 1945年、敗戦後のドイツを《非ナチ化》させたアメリカは、この前例にとりつかれ、当時ナチス高官に対して行なった粛清よりさらに厳しい《非バアス党化》を強制した。1968年から2003年まで一党独裁を続けていたバアス党に単に属していただけで、解雇、引退、あるいはさらに厳しい罰が科せられた。国営INOCの24人の本部長のうち17人が追放された。何百人もの技術者、すなわち、それまでの25年間ひどい状況の中で生産を続けていた人々も同様だった。INOCの創設者たちは、帰国亡命者たちが支配する《非バアス化委員会》によって一掃された。その中の1人で24年間亡命していた現イラク首相、ヌーリ・アル=マリキは、INOCの諸ポストに、無能なだけではなく偏見に満ちた腹心たちを就けた。


 マッキー氏(コノコ・フィリップ)はキャロル氏(シェル)の後を引き継いでアメリカ総督の石油顧問という要職に就いたが、2003年秋に赴任した際、次のように語っている、「しかるべき地位についているのは、能力がないのに宗教的、政治的理由で、あるいは友人関係で石油省が任命した人たちだ。石油産業をサダム・フセインの下で運営し、国の解放後それを復旧させた人たちは、組織的に排除されている(注3)」。


 当然ながらこういった人たちを追放することによって、大部分アメリカからやって来たあらゆる毛色の石油顧問たちは、思いどおりに事を進めることができた。彼らは石油省の指導部を勝手に押さえてしまい、文書、通達、報告書をばらまいた。これは国際企業の経営から直接思いついたもので、この国に適応するかどうかなど考えてもみなかった。


世論の後押しで民営化に反対した議会


 基本的な2つの文書、すなわち新しい《憲法》と《石油法》は、ことを覆す予期せぬきっかけを顧問たちに与えることとなった。中央集権国家の存続は頭から否定された。アメリカがこれを望まなかったのは、全体主義と闘うばかりでなく、フセイン時代に止むことのなかった対クルド人犯罪行為と闘う、という大義名分を掲げていたからである。従って、新体制は連邦制であれ連邦国家制ですらあれ、国家構造をなくしてしまうほどに分権化されるべきだった。中央政府の決定に関して拒否権を行使するには、国内3地域の1つで投票数の3分の2を獲得すれば十分だった。


 しかし、このことを実現する実力と欲求を持っていたのはクルディスタンだけだった。石油関連物資の権益は事実上、バグダード(イラク政府)とアルビール(クルディスタン政府 《KRG》)の間で分割すべきだということになったが、KRGは石油に関しては憲法の「KRG的」解釈を押し通した。つまり、運用中の油田に関しては引き続き連邦政府の支配を認めるが、新たな認可については各地域での入札制度を復活させる、というものだった。2つの首都の間で《chicaya》と呼ばれる対立 が激化した。それはKRG側がバグダードよりはるかに良い条件を外国企業に示していたため、なおさらのことだった。メジャー石油会社がクルド人側の油田に投資することになれば、生産の一部について権利を持つことになり、開発当初の何年間か、この権利は巨額の利益をメジャーにもたらすことになるだろう。これはアメリカの石油会社だけではなく政治家たちも、この地に乗り込んで来たら押し通したいやり方だった。結局、彼らは思い通りにできなかったのだが……。


 他の点では非難を浴びていた議会も世論に押されて、法案に反対した。世論はIPC(国営化前)の前例を忘れていなかったのだ。国営会社INOCの創始者、タリク・シャフィク氏は、反対した技術的理由についてアメリカ連邦議会で説明した(注4)。石油鉱脈の存在はわかっていて、地域も特定されていた。従って、外国企業にとってなんらリスクはなかった。当然、調査コストは不要で、開発費が世界で最もかからない油田の一つだった。2008年からは、バグダードはメジャー石油会社に対し、さらに利益にならない業務契約を提供することになっていた。すなわち、最大級油田で1バレル当たり2ドル、油田自体に権利はないというものだった。


 にもかかわらず、エクソン・モービル、BP、シェル、トタルのみならず、ロシア、中国、アンゴラ、パキスタン、トルコの会社も飛びついてきた。それは、自分たちにとって物事が良い方向に進むだろうという希望があればこそだった。2010年5月24日号『ニューズウィーク』誌は「イラクの奇跡」というタイトルで「この国は、第2のサウジアラビアになる潜在能力をもっている」という記事を掲載した。その2年後、生産量は増加(2012年には一日あたり300万バレル以上)したが、石油会社は自分たちに課せられた諸条件に苛立っていた。投資額は肥大化しているのに収益性はなかなか上がらず、石油が自社の備蓄を増やすこともなく、こういったことが会社の株価を下落させた。


クルディスタンの石油に賭けた外国企業とトルコ政府


 イラク連邦政府は外国企業に対して政令を発し、権利剥奪の可能性を伝えて脅した。というのは、諸会社がクルディスタン石油の分配契約に引きつけられそうになったからである。エクソン・モービルに続きトタルもこの脅しを無視していた。いっそう具合の悪いことに、エクソン・モービルはさらに挑発的な態度でこの脅しに応えた。つまり、同社はイラク最大の西クルナ油田開発の契約に500億ドルを投資し、イラク国内の生産量を現在の2倍にしようとしていたのが、この権利を売却しようとしたのである。バグダード政府は怒り心頭に発していた。というのも、バグダードによる条件拒否が続けば、埋蔵量がイラク南部の3分の1程度しかないクルディスタンの方が選ばれそうだったからだ。


 トルコはバグダードとは何の話し合いもせず、クルディスタンと地中海を直接結ぶパイプラインの建設を約束した。これは脅しだろうか? 一部にはそれもあるだろう。しかしこの戦争がなかったら、諸石油会社はイラク人同士を思うように競合させることができただろうか ? それはともかく、アメリカが自ら設定した目標からは程遠かった。石油権益の面でも、この戦争はアメリカ人にとって大きな失敗だった。


 連邦準備制度理事会議長、すなわちアメリカ中央銀行総裁を1987年から2006年まで務めたアラン・グリーンスパン氏は、国際経済における石油の重要性をよく認識できる地位にある人物である。彼は、こういった血なまぐさい出来事について、おそらく最も真実に近いことを次のように語っている、「私が残念に思うのは、皆が知っていたことを認めることが、政治的にはぐらかされてしまった、ということである。皆が知っていたこととは、イラク戦争の最大の争点の一つがイラクの石油だった、ということだ(注5)」。





(1)使用した文書(書籍、報告書、その他)は、www.monde-diplomatique.fr/48797で参照可。
(2)Greg Muttitt, Fuel on the Fire. Oil and Politics in Occupied Iraq, Vintage Books, Londres, 2011.
(3)Ibid.
(4)「イラク石油部門の再建――燃料なしで走っているのか ?」アメリカ議会・中近東および南アジア外交問題委員会でのタリク・シャフィク氏の証言、ワシントン、2007年7月18日。
(5)Alan Greenspan, Le Temps des turbulences, J.-C. Lattès, Paris, 2007.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年3月号)