革命の第二幕

次の標的は君主制アラブ諸国か


ヒシャム・ベン・アブダラ・エル=アラウィ

スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所員。スタンフォード大学研究員。


訳:川端聡子


 チュニジア、エジプト、リビア、そしてイエメンで混迷に満ちた民主化への過渡期が始まった一方、シリアでは内戦が激化している。その影であまり目立たないが、君主制のアラブ諸国では民衆の抗議運動が続発し、ヨルダンやモロッコ、また湾岸諸国もその例外ではない。[フランス語版編集部]





「アラブ式」民主化プロセスの模索


 「アラブの春」はある出来事というよりも、一つのプロセスである。政治的解放へと大きく動き出したアラブ諸国にとって重要なのは、以下のことである。つまり「民主主義が制度化されるかどうか」だ。その歩みはおぼつかないもので、民衆と国家が一触即発の状態にあるのはその通りだが、問いへの答えは慎重な口ぶりながら「イエス」だ。いくつかの関係国においては、民主化に向けた制度づくりにが行なわれている。


 未来の展望がもっとも明るいのは、北アフリカ地域である。民主主義の制度化においてその前提となるのは、三大要素の下へ政治機能を収束させることだ。法治国家の基礎となるその三大要素とは、すなわち「選挙」「議会」、そして「憲法」である。この3つが揺るぎなく保持されれば、その政府は過激派グループや反動勢力を押さえ、独裁体制への回帰を避けられるだろう。民主主義においては法の遵守と公正な選挙が尊重されるため、相対立する政党間での政権交替が必須となるからである。


 チュニジア、リビア、エジプトでは、混迷の最中にあっても民主化プロセスが進行はしている(注1)。この3カ国ではそれぞれ複数政党が得票を競う総選挙が行なわれた。チュニジアでは国民投票で選ばれた立憲議会が憲法練り上げの最終段階に入っている。この国では危機は二つの側面を持っている。サラフィー主義者の暴力行為に新政府が手をこまねいていたこと(こうした受身の態度もチュニスのアメリカ大使館襲撃までのことであったが)(注2)、そして経済再建政策の施行が特に最貧地域において遅れていることだ。時に緊張が高まったり、諸々の政治勢力のあいだで対立が起きようとも、民主的ルールに添った国の運営には誰も異論はない。異論のある者がいたとしても、かなり少数である。


 リビアの事情は異なる。カダフィの独裁体制崩壊によって誕生した新体制は、武装グループの力によって弱体化している(注3)。エジプトでは大統領選挙が実施され、ムスリム同胞団出身のムルシ氏が勝利を収めた。大統領就任の際、ムルシ氏は軍に対する文民政府の権威を確立し、ムハンマド・フセイン・タンタウィ国防大臣兼軍最高評議会議長を解任している。軍と政府の関係を再検討しようとするその第一歩は、軍事国家という長い歴史との決別だったのである。


 こうした国家体制の移行期にあって、大半の当事者たちは手に入れた持ち札の中身を理解している(もちろん、サラフィー主義者のような過激派グループや旧独裁体制に懐古的な連中については別だが)。その持ち札は、制度化されつつある民主主義が必ずしも自由主義的なものではないということである。「アラブの春」において民衆が求めた民主主義とは、アラブ世界が西洋的価値観に合致した社会となることを望んでの改革ではなかったということである。アラブ的な考え方からすれば、男女平等や、ポルノグラフィなど不道徳な表現への検閲の廃止、あるいは冒涜的な表現の自由といったものは西洋的価値観の範疇に入る。政治的自由主義は個人の権利を至上のものとする理論である限り、民主主義の最終段階にしか登場しない思想である。世俗主義者と原理主義者の衝突が顕著であるような現状では、「西洋式」の道徳観に到達することも、中庸の価値観を見つけることも不可能だ。


 民主化への過渡期にあるこれらの国々にとって優先されるのはイデオロギーを闘わせることではなく、制度の恒久化である。民主主義の制度化とは、市民一人ひとりや個々の政党がある一つのイデオロギーに同意することを意味するのではなく、むしろ法と民主的手続きを絶対的な規則として定めるということである。ムスリム同胞団ですら、スローガンだけでは選挙で勝てないと考えるようになってきている。彼らといえども民主的な選挙に添って選ばれたすべての内閣にならって、宗教的大義や福音に基づく空約束でなく、政策によって有権者の期待に応えねばならなくなっているのだ。


 アメリカでもヨーロッパでも、政治家やメディアはイスラム政党が政権政党となったことに不快感を示している。今回の民主化革命後に勝利したチュニジアの「アンナハダ」やエジプトの「ムスリム同胞団」はこの変革のために大して働きはしなかったからだ。しかしながら、イスラム化が強まるだろうという懸念は、いくつかの要因によって緩和される。(注5)


 その要因の一つとして、欧米人は忘れがちだが、イスラム主義者がコーランの解釈権利を独占しているわけではないのだ。エジプトではアル=アザール大学のような由緒ある研究機関とスーフィズムのような宗教活動によって、イスラム主義者の主張とは非常に異なる思想に基づいて政治・宗教関係が構想されている。政治において拡がりを見せるイスラム勢力の中でも、重大な社会問題や宗教問題について時にさまざまな思潮のあいだで深刻な意見対立があるのだ(たとえばムスリム同胞団、サラフィー主義者のアル=ヌール党など)。ある意味、イスラム教徒に自由な教典の解釈が許されていることで、イスラムを政治支配したがる者たちへの最も確実な抑制となっているのだ。


 二つめには、イスラム主義が見境いなく慈善福祉団体や戦いを望むジハード主義者を取り込んだのはいいとしても、民主化途上の大方の国々において最も政治的に影響力を持つ彼らの運動(ムスリム同胞団)は、革命急進派とはとても言いがたい。たとえば1979年、長期の独裁に反対してイスラム革命が起こったイランからの呼びかけにもムスリム同胞団は慎重であった。同じく彼らは90年代におけるウマサ・ビン=ラディンの呼びかけにも耳を傾けなかった。


 もう一つの理由は、選挙でイスラム主義者が圧勝したからといって、全権を委ねられたわけではないということ。つまり、一概にイスラム主義がアラブ市民の声を代表しているとは言えないということだ。確かにムスリム同胞団も、得票数は少なかったがサラフィー主義者も、2011年12月のポスト・ムバラクを争う初の選挙で勝利した。彼らは議席の5分の3をさらった。しかし、その後の支持率はしりすぼみである。それは2012年6月の大統領選でムルシ氏が辛くも勝ったことが示している。国民が憎悪する前政権から出た対立候補、アフマド・シャフィークに対するムルシ氏の得票率は51.7%であった。


 同じように、チュニジアで40%の国会議席を手中に収めたアンナハダ党も与党第1党であることは明白だが、この数は相対的なものであって、世俗主義や急進派との連立は避けられない。リビアでは公正発展党が大敗を喫した。公正発展党は、ムスリム同胞団のリビア版政党だが、2012年6月の国民選挙では、10%の得票率しか得られなかった。


 結果として、最初は一様に選挙活動に加わるのを毛嫌いしていたイスラム原理主義者たちも進化を遂げたように思われる。エジプトでは、未だ決着をみない問題として、ムスリム同胞団とその分派でライバル政党のサラフィスト政党がどのようにして民主化プロセスに溶け込めむかという問題が残っている。いずれにせよ、彼らが軍事力によってすべての権利を独占するのが不可能であることは確かだ。ムスリム同胞団は社会福祉活動を組織し、そのネットワークは強大だが、強制力は持たないからである。


 イスラム恐怖症的なアメリカ映画に抗議して怒りのデモが引き起こされたことは、記憶に新しい(注4)。これらのデモでわかったのは、イスラム主義者の健全化が進んでいるということである。実際、この出来事によって有力なイスラム原理主義団体は、より過激な組織に対して明確な距離をとらざるを得なくなった。おまけに、多くの指導者たちがこの映画に対しする異議を表明した際に引き合いに出されたのは「名誉毀損」という普通法の論理であり、彼らはコーランのハッド刑(注5)ではなく、普通法で冒涜的行為に立ち向かったのだ。


 法システムとしてのシャリーア(注6)依存が衰微すればするほど、イスラム信仰への渇望は頂点に達する。ほとんどの原理主義者らの主たる主張は、アラブ系ムスリム社会においてイスラムの基礎を固め、シャリーアと合致した社会を作り上げることである。こうした観点に立って、もちろんムスリム同胞団はリベラルな組織形成をとってはいない。それゆえ世俗社会はイスラム政治支配に恐々としているのだ。しかし同胞団によって体現されるようなほとんどのイスラム主義者は民主的なルールの受け入れに多大な関心を寄せており、イスラムのアイデンティティを保ちながら、同時に選挙制度を受け入れようとしている。理由はただ一つ、こうした代償を払ってでのみ、現行の変革の途上で自分たちが果たしている政治的役割から利益を得られるからである。


 言い方を換えれば、民主政治を築くために西洋のリベラルなイデオロギーに屈しなければならないということはないのである。1970年代にスペインやポルトガルが民主化された際にこうした考えを強いられることはなかったし、1980年代に南米がサミュエル・P・ハンティントン言うところの「第三の波」に飲み込まれたときにもそういうことはなかった(注7)。民主主義の理念とは、相対立する意見を合憲的に戦わせることへの合意であり、多様性と自己釈明の必要性によって成り立っている。でなければ、紛争や膠着状態、袋小路となるのである。


民主化運動の先陣を切った若者たちの敗北


  抗議活動に加わった若者のほとんどは都市圏で生活する中産階級であり、イスラム原理主義団体に属さないという意味において明確な世俗主義である。今回の革命の潮流を最初の段階で担ったのは彼らだった。しかしチュニジアやリビア、そしてエジプトでも、彼らは今や外様となっている。彼らの後退と共に、より政教分離的かつ民主的なビジョンも退潮した。前政権を崩壊させた彼らだが、そのとき政治上まとまった統一戦線を敷くのに失敗したからだ。イスラム主義者たちはメンバーをを動員して無党派層を取り込み、選挙区においてさまざまな形で勝利を収めることができたのに対し、若者たちの民主化運動は制度設計を議論する場に参加することを拒否したのである。


 若者たちが消えたことは重大な結果となって現れた。彼らは街頭デモを重視し、自発的な直接行動に集中し、もっと穏やかで制度化された選挙という政治手段を切り捨ててしまったのだ。改革派の若者たちは新設された国民議会や市民議会といった民主的しくみのなかで、何の権利も発言力も持たないこととなった。


 街頭デモは二つの影響をもたらした。一つは市民が国家に対し監視権を行使できるようにしたこと。たとえば、2011年1月25日のエジプト革命は、学生や労働者、中産階級層が中心街区に押し寄せて権力中枢に立ち向かい、自らの権利を主張することによって初めてなしえた。一方、永遠に続くかに見えた抗議運動の喧騒は体制の正当性を失わせたが、選挙や広報活動という民主主義制度にのっとったうねりへと結びつかなかった。民主政治は市民の大半が民主的な共通のルールに従うことを受け入れなければ成立しないのである。


 変革派の若者たちは「アラブの春」への貢献を長続きさせるためには、誕生しつつある制度に自らを合わせていくしかない。今こそ彼らはそのエネルギーと闘志を正式の場である国民議会や市民議会に注ぐべきである。そして彼らには、新たな民主政治の場において、イスラム伝統保守派、民族派、宗教分離派、中道派や推進派の意見など、アラブ社会における幅広いイデオロギーをすくいあげ、補佐的な役割を果たすことも可能なのだ。路上の抗議運動は制御不能であり、最上の政治をだめにすることもできる。もし仮に、若者らの担った民意が政治システムのなかに制度として成立しなければ、組織力のある少数過激派が政権を奪うことも、以前の独裁政権が復活することもありうるのだ。


 上記のようなことは、「民主化の第三の波」の期間においても幾度となく繰り返された。独裁君主は易々と新たな民主的制度を転覆させる手段を見つけるのだ。しかしアラブ世界における最大の危惧は、不条理な独裁体制への回帰ではなく、むしろ新たにできた強権構造のなかにある。つまり、新政府が、民主主義を政治の道具に利用する少数寡頭政やエセ民衆運動家によって構成されているということである。


 あらゆる歴史的大変革がそうであるように、「アラブの春」でも勝者と敗者が生まれた。若者運動家のみならず、インテリ知識人たちも紛れもない敗者の部類に入る。彼らは大学で思想を学んだが、その思想と大衆が現実に抱える問題とを結びつけるには至らず、先達と同じ轍を踏むことになった。


 1920年代、30年代のアラブ民族主義台頭以降、教養あるエリート世代は先鋭化した持論に固執した。その結果として報道も彼らの運動に注目し、中産階級 の間でも気運が高まった。彼らが抵抗したのは、基本的にはシオニズムや帝国主義、オリエンタリズム、資本主義、植民地主義といった外的脅威に対してであった。それがより能動的な権利主張へ結びつき、汎アラブ主義、社会正義や欧米との対等な立場を求めるアラブ民族主義のような運動へと変化したのである。しかしながら、アラブのインテリたちは、自己の所属するアラブ社会よりもより先鋭的であることをアピールしたが、民衆と政党に影響力を行使することは苦手としていた。


 インテリたちが輪の外におかれていることは、現地の現状から徐々に乖離していくその演説の内容からもわかる。アラブの地のなかで革命を望む、あるいは革命を前提とするいかなる主張にも合意しない、というのだ。彼らは常に「シオニズムやアメリカ帝国主義」がマグレブ地域および近東を苦しめる諸悪の根源だというお題目を唱えてきた。アラブの民が自国の統治者たちの絶対的権力と腐敗に対し激しい闘いを挑もうとしたとき、このようなお題目は実体を失っていたのである。嘆かわしくも、一部の知識人たちは持論の破綻を繕って、「アラブの春」はイスラエルと欧米諸国の策略だとしている。イラクでバース党が失墜し、おそらくはシリアでも遠からず同じことが起こり、それによって汎アラブ的な民族主義の残骸は跡形もなく消え去ってしまうことだろう。


 若者と知的エリートたちが民衆に支持されないもう一つの理由は、彼らの批判が無意識のうちにあらゆるイスラム主義へと向けられていることである。彼らは一種の世俗至上主義にがんじがらめになっていて、もっとも穏健なイスラム主義者たちにすら国内において最小限の務めを果たすことを認めようとしない。


モロッコからサウジアラビアまで


 第3の敗者のグループは、アラブの君主制をとる諸国である。驚くべきは、一見して「アラブの春」によって政権から退いた王が一人としていないということである。ヨーロッパで主流となっている理解の枠組みによれば、彼らが助かったのには二つの要因が働いている。一つは、王族はアラブ的な文化基盤に深く根ざした正当性に基づいて統治権を行使しているということだ。つまり、国民は、反植民地戦争以前から、そしてその最中に作られた輝かしい伝承への愛着心によって王や王子を支持しているというのである。もう一つは、こうした半ば絶対君主的な体制のほうが危機的状況に対してより臨機応変な対応ができるということだ。理由は、彼らは限りなく融通のきく制度を所有しており、それを用いて単に暴動を鎮圧するよりも上手に世論を動かせるからである。


 こうした見解は、まったくの誤りではないが、アラブ君主制諸国の統治力が弱まりつつあるという事実を軽視している。ここ十年間で、アラブ君主制諸国の国家基盤は揺らいできている。たとえばバーレーンでは民衆蜂起が大きな広がりを見せ、政府軍とGCC合同軍(注8)による血なまぐさい介入がなければ抑えることができなかった。


 モロッコでも大規模デモがあったことは知られている。憲法の見直しが約束されたことで、国民の怒りは一時的に収まった。しかし、根本的な改革が実施されておらず、この先、波乱に満ちた展開となることを予想させる。国王のムハンマド六世側から実際上反対がなく、公正発展党のイスラム主義者らは組閣に同意したが、他政党と同じく支持者を失う可能性がある。そのうえ、農村部と都市部の亀裂問題がある。こうした亀裂は以前ほど目立たなくなったが、不満は広がり、長年の階層・地域間の対立を超えて社会的公正への要求が起こっているのだ。


 サウジアラビアでもやはり王制は市民社会を圧迫している。たまたま石油資源の恩恵を受けるこの国の国家体制は、巨額の富を投じた経済発展政策によって、あらゆる反乱の芽を摘んできた。必要な体制改革を引き延ばすことができたのは、それゆえである。隣国の首長国、クウェートでは昔から国民議会の開催が少なかったが、民主化に逆行したプロセスが見られる。汚職と政府への抗議デモは、首長のアル=サバーハ一族の権威を失わせ、2012年12月の選挙はボイコットされた。抗議デモ参加者と首長家の対立は、ついに決定的な選択を迫られるところにまで達した。それは、首長が一族の出身でない首相を任命することに同意するか、あるいは国民議会を解散し、強権主義を再開する方向へ進むという選択であるが、後者の決断をすれば高くつくことになろう。


 ヨルダンの君主制は、二つのダイナミクスがさらなる逆風となり、逼迫状態にある。イスラム主義者たちは王制の存続を望んでいる。ハシミテ王家が失脚すれば、イスラエルに「ヨルダン川東岸(ヨルダンのこと)が全パレスチナ人の祖国として順当である」と、ヨルダン川西岸地域の完全な併合を正当化する口実を与えてしまう恐れがあるからだ。とはいえ、イスラム主義者たちは立憲君主制とより自由な政治を要求しているのだ。また、ハシミテ一族は国民の高まる怒りに直面している。それはハシミテ家の出自がベドウィンであることに起因し、失業や汚職の問題によって国民の怒はさらに増している。


 これらの君主制諸国にとって、今こそ変化し、もつれた利権の構造から脱するときなのだ。王族たちが事業団体や商工団体、農業団体、部族会、ウルマー会など不特定多数の社会政治団体との関係を築き上げることに意を用いる一方、社会政治団体のほうは恩恵や援助金への見返りとして王族を支持しているのである。抜本的改革によって絶対王制を議会制度に代えるならば、王族ばかりか王族支持派の平民の生活も損なわれることになるだろう。さらにはポスト・コロニアル時代やポスト冷戦後期における当事国の歴史を見れば、君主制諸国が執行権力を道徳性あるものにできないことは歴然としている。国民の強い圧力なしには王族たちは真剣な改革のイニシアティブをとることに何の興味も持たない。長きにわたり王族が讃えられてきたのは、温和な政策と臨機応変な対応によってであり、アラブ君主制諸国は貴重なチャンスを逃してしまいかねない。王制を維持しようとするならば目の前の危機に対して国が一致団結し、将来の紛争や不安定化を回避することが必須だが、王制諸国は民主化に踏み切るのを拒むのだ。


地政学的策略のなかで


 よく見落とされていることだが、「アラブの春」が地政学面において奇妙なパラドックスを露呈させている。どのようにして事が始まったかを思い出してみよう。一地方で起きた事件に端を発し、まず国内全体に広がった抗議運動は、正義と尊厳を求めて横暴きわまりない政体に対するレジスタンスを呼びかけるものであった。民衆が共有する権利要求と価値観となって国境を越え、「アラブの春」は数ヵ月間でアラブ地域全体を飲み込むうねりとなったのである。この伝播は、アラブの民にとってあれほど援用していた「アル=ジャジーラ効果」を凌ぐ早さで行なわれた。それは、この伝播が現代的な通信形態によって行なわれたのみならず、わけても劇的に進化した政治意識によってなされたからである。ソーシャル・ネットワーキングと従来メディアによって拡大した変革運動は、 汎アラブ主義的な主張によって爆発的な力を得た。しかし、独裁的政治に対するフラストレーションをまとめあげ、アラブ市民としての強烈な権利要求をおこなうために、イデオロギー色は払拭されている。


 今、この大変革は民主主義の制度化という第三の段階にある。今や「アラブの春」は、国家的・超国家的に広がった権利要求以外の要素を抱えている。「アラブの春」によって国際的な対立の場が作り出されてしまったのだ。その経緯の発端となったのが、2011年春のバーレーンにおける民衆蜂起である。その際、スンニ派であるこの君主国は、シーア派の率いる反対勢力を抑える名目で同じスンニ派の近隣諸国、さらには西洋列強との関係を強化した。こうした関係はサウジアラビア、アメリカ、トルコの先導による戦略的防衛網に込み込まれるもので、ここには目立たないがイスラエルも介入している。バーレーンにおける市民の王政への抗議運動は、悪に転じることとなってしまった。と同時にイランやシリア、ヒズボラによって体現される「過激」なシーア派国家や団体の手先とみなされた。シリア内戦がそうした流れを加速させたが、しかしながらそれは逆方向の力が働いてのことだ。シリアの内戦に限っては、民衆の抵抗運動が「穏健」なスンニ派有力者や、在欧米シリア人と結びつくこととなった。一方で、バシャール・アル=アサドによる独裁体制はシーア派国家・団体との協力関係を強めたのである。


 宗派対立と地政学という二つの側面が相互に影響し、火に油を注ぎ合っている。サウジアラビア、チュニジア、アメリカ、そしてイスラエルは、イラン、シリア、ヒズボラの勢力範囲拡大阻止に共通の関心を示している。この勢力争いは、そこまで激烈でなかった宗派間対立を壊滅的な結果に繋がりかねない戦争へと変容させた。事実、善悪二元論的な単純論が有無をいわせず仕立て上げられた。スンニ派国家(ことに君主制国家)は穏健な平和の庇護者として欧米メディアに登場し、一方のシーア派は過激なテロ行為煽動者として描かれた。と同時にこうした宗派対立は、一部の国の政府にとって社会煽動の脅威から現政権を守り維持するための格好の口実ともなっている。シリア体制の失墜は二宗派間の対立を和らげるのに一役買いながら、あるいは闘いの場を移して、シーア派・スンニ派間における力学地図を塗り変えるであろう。


 ひとたび世界へ飛び火した「アラブの春」だが、その火の粉は、革命の起点であり民主化の途にある国々にブーメランのように再び降り掛かることとなった。イランにシリア、そしてヒズボラは、チュニジア、リビア、エジプトを味方につけようと試みたが、その間に欧米寄りのスンニ派同盟国とて同様のことをしていた。ところが双方からの度重なる重圧は、チュニジア、リビア、エジプトをまれに見る厳密な中立性を持った政治外交へと向かわせ、各国内における制度制定のプロセスの加速を促す結果にしかならなかった。アラブ地域における情勢不安定が脅威となり、国内の安定をまずは固めることが推進されたのである。2012年8月、エジプトのムルシ大統領は、非同盟諸国会議出席のためシリア政府の同盟国であるイランの首都、テヘラン訪問に臨んだ。しかしムルシ大統領は、シリア反体制派の味方に回っており、全方位的外交のデモンストレーションの一例である。さらに昨年10月のガザ危機に際しては、躊躇せずに、数ヶ月前にはムスリム同胞団に嫌がらせをしていたエジプト謀報機関の力を借りた。


 チュニジア、リビア、エジプトの新政権は、柔軟性と実効性のバランスのとれた、抑止政策を練り上げようとしている。その目的は、宗派間紛争を回避し、偏狭なイスラムの解釈と地政学的追随を避けるためである。これらの新政権は、まず第一に法に則った内政を固めることに配慮し、血なまぐさいシリア内戦で敵対する二宗派を新たな民主主義秩序を作るうえでの障害とみなしている。


 国際的な紛争が国内規模での民主化プロセスが軌道に乗るのを後押ししているというパラドックスが、近東の現代史の新たな頁を開くこととなった。最近になってもなお、欧米諸国とそのアラブの同盟者はイデオロギー的な対立諸国を体制打倒者、あるいは破壊者とみなして対立してきた。たとえば、ブレジネフ=ナセル時代の同盟関係に代表される共産主義の脅威、ホメイニ師のイスラム革命、あるいはまたビン・ラディンに体現される「悪の枢軸」である。アラブ地域の再編は現在進行中だが、それぞれのポジションがさらに微妙なものとなり得ることを予示している。「アラブの春」がクライマックスを迎えたときですら、何人もこれにイデオロギー的なレッテルを貼ろうとしなかったし、帝国主義、超大国、あるいは過激派組織といったもののせいにしようとはしなかった。変革の動きは、地政学的策略に引っ掛かったというよりは、あくまでもそれぞれの国内の力に従ったものである。


 宗派対立による激震は、将来に決定的な影響を与えるだろう。他国からの煽動を受け政治利用されるシーア派・スンニ派の対立は、民主化への流れを次々と挫き、「アラブの春」の前途に長期的な影を落としかねない。





(1) le dossier «Sur les braises du “printemps arabe”», Le Monde diplomatique, novembre 2012.参照。
(2)サラフィーとはムスリム最初の三世代期「サラフ」に基いた古くからの習慣を基盤とする思想であり、サラフィー主義者はその復興を目的としている。2012年9月12日にアメリカ映画『Innocence of Muslims』に抗議して約50名のサラフィー主義者がアメリカ大使館前で星条旗が燃やし、14日には治安部隊と衝突し死者が出た。チュニジアのマルズーキ大統領はこれを激しく非難した。[訳注]
(3) Patrick Haimzadeh, «La Libye aux mains des milices», Le Monde diplomatique, octobre 2012.参照。
(4)ナクーラ・バスリー・ナクーラ監督による低予算映画『Innocence of Muslims』(2012年、アメリカ)の予告編がyoutubeで公開され、その反イスラム的な内容からエジプト、リビア、チュニジアほかで抗議デモが行なわれた。リビアのアメリカ領事館では在リビア大使ら4名の殺害に至った。[訳注]
(5)イスラム刑法において定められた刑罰。鞭打ち、手足切断など人道的に問題とされ、実際は厳密に適用されていない。
(6)イスラム教における法体系のこと。内容としては宗教的規定にとどまらない幅広いものである。[訳注]
(7)サミュエル・P・ハンチントン著/坪郷實・中道寿一・藪野祐三訳『第三の波―20世紀後半の民主化』(三嶺書房、1995年)。
(8) Golf Cooperation Council(湾岸協力会議)。中東・アラビア湾岸地域における地域協力機構であり、アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビアの6ヵ国が加盟する。GDDはアラブ地域の安全保障上重要な役割を果たしている。[訳注]




[年表]2011年――全てがここから始まった


1月14日
・チュニジア大統領ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー、サウジアラビアへ亡命。
1月25日
・エジプトのムバラク大統領への初の抗議デモ。
1月26日
・ヨルダンで物価上昇に対する抗議デモ。
1月27日
・イエメンでアリ・アブドゥッラー・サーリハ大統領への抗議運動が高まる。
1月~2月
・アルジェリアの反政府運動、民主化へは至らず。クウェートでビドゥーン(無国籍者)らによるデモ。
2月11日
・ムバラク氏、政権から退く。
2月14日
・バーレーンで最初の抗議運動が起こる。サウジアラビア東部でデモが多発。
2月15日
・リビア、ベンガジへとデモが飛び火。
2月20日
・モロッコで最初のデモ。
3月14日
・サウジアラビア、バーレーンの民衆蜂起に介入。
3月15日
・シリアで市民蜂起始まる。
3月17日
・リビア上空の飛行禁止区域の設定を始めとするリビア情勢に関する国連安全保障理事会決議が採択される。
4月
・ブロガー数名がアラブ首長国連邦で拘束される。
10月23日
・モリビアのカダフィー体制終焉。チュニジアにて新憲法制定のための議会選挙が行なわれる。
・アンナハダ党が勝利。
2011年11月~2012年1月
・エジプトの人民議会選挙にてムスリム同胞団が勝利。

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年1月号)