ガザ攻防戦から国連での闘いへ

パレスチナが消滅を拒否する時

レイラ・ファルサフ*


*マサチューセッツ大学ボストン校准教授、政治学。

主要著書に『Palestinian Labour Migration to Israel : Labour, Land and Occupa-
tion』(『イスラエルへ移民するパレスチナ人:労働、領土と占領』ルートレッジ社、
ロンドン・ニューヨーク、2005年)がある。


訳:川端聡子


 エジプトの仲介によりようやく停戦に至ったガザ地区の戦いのおかげで、ハマスは国内外における立場を極めて強固なものとした。その間、アッバス大統領の働きかけで国連はパレスチナの「オブザーバー国家」としての承認を検討した。しかしアッバス大統領の勢いは減退し、イスラエルやアメリカ、そしてEUのいつくかの国の反目に遭うばかりか、当のパレスチナ人の間でも疑問視されている。国内では若者を中心とした新たな動きが芽生え、政府と拮抗している。彼らは国家権力ではなく、人権の名のもとに独立を目ざそうとしているのだ。




ハマスの台頭と「アラブの春」の影響


 「『アラブの春』に勇気づけられたアラブ人民は、民主主義への希望を表明している。パレスチナにも春、つまり独立の時が訪れたのだ」。2011年9月23日、パレスチナ自治政府大統領のマフムード・アッバス氏は国連総会でこのように述べ、場内は拍手喝采に包まれた。あれから1年が経ち、アッバス大統領が再び同議会の壇上に立ったとき、イスラエルのガザ攻撃が行われていた。この攻撃が浮き彫りにしたのは、パレスチナ人の抵抗は決してやまぬこと、そしてパレスチナ人たちは政治の舞台から決して下りないこと、さらには世界各国のパワーバランスが彼らの独立国家を見果てぬ夢にしていると思われることであった。それは、アメリカやEUがイスラエル政府を支持し続けているからである。


 最終的に、イスラル側の攻撃は11月21日に停戦が合意されたことで終息した。この停戦はエジプトのムスリム同胞団出身のムルシ大統領の仲介によるところが大きい。今回の闘争はハマスにとって悪い話ではなかった。ファタハやパレスチナ政府当局のライバルであるハマスは、大量の民間人死者や約100人の負傷者を出し、無差別な破壊に遭ったが、力を強化した。ガザ地区の統治方法に問題があるため民衆の支持を失っていたハマスだが、より強い支持を集めるようになったのである。彼らはその軍事力の強さを示し、多くのパレスチナ人が、イスラエルのガザ占拠に対して彼らが行った武力行使は正当だと考えている。そして彼らが勝ち取ったガザの封鎖緩和は、アッバス大統領がアメリカやEUのように数年来要請しながらも実現できなかったものである。結果としてハマスは正当な交渉者としてアラブ社会やトルコから認知され、エジプト首相、トルコ外相、そしてアラブ連盟代表団が相次いでガザを訪れている。


 今回のイスラエルとパレスチナの交戦は、「アラブの春」以後最初の戦いである。この民衆蜂起以降、近東において前例のない規模で広まった民主化への要求は押さえがたいものとなっている。パレスチナ国民は「アラブの春」に後押しされ、より一層強い姿勢でオスロ合意(注1)の凍結を要求した、つまり、オスロ合意によって作られた体制とその原則の批判的検討を要求したのである。すなわち、二つの分離国家案の批判的検討である。そして明らかになったのは、大部分のパレスチナ人、特に若者たちとパレスチナの指導層との間では独立闘争の方向性とその意義について考えが違うということだ。


若者たちが牽引する新たな運動――「和平プロセス」の放棄


 2011年2月から、パレスチナ人たちはエジプト民主化を支持するデモを行った。ラマラ、ガザ、そしてナブルーズの街頭は、無名の若者たち、無党派層、NGOのメンバーであふれ返った。彼らはこの機をとらえ、2007年以降それぞれヨルダン川西岸とガザ地区を支配するファタハとハマスの近親憎悪的な敵対関係に終止符を打つよう訴えたのである。両者は民意に応えて交渉を開始し、2011年5月、3つの和解合意の署名に至った。合意文書は実効力を持たぬままだったが、それでもハマスの政治的な正当性は強化されることとなった。両組織の指導者は「統一国家」の体裁を取り戻すことができず、市民の不満は増幅するばかりであった。


 2011年5月のデモ以降、さまざまな団体の活動が基盤となって非暴力運動が確立された。たとえば「ストップ・ザ・ウォール・キャンペーン」(隔離壁への反対運動)やBDS運動(イスラエルに対するボイコット・資本の引き揚げ・経済制裁を求める運動)、人権擁護NGOや女性活動団体、政治犯支援団体、それに労働組合などである。彼らはラマラにあるムカタ(パレスチナ大統領府)前での集会や、カランティア(ラマラ=イスラエル間のルートを遮断する検問所が設置されている村)での抗議デモ、SNSを利用した情報キャンペーン、食品価格高騰に抗議するストライキなどの活動を行っている。社会運動の高揚は多種多様な形態をとっているが、その要求する内容は明確である。


 まず一つ目はパレスチナ人の国民としての権利の承認である。これはパレスチナという国家の認知のみならず、パレスチナ難民の帰還と、完全な政治的自由をも含むものだ。5月15日は「ナクバの日」である(「ナクバ」は「大惨事」を意味するアラビア語。イスラエル建国の1948年、パレスチナ人追放の悲劇を表す)。2011年のこの日、若者の団体や、市民団体・NGOの指導メンバーらによるデモ隊が「隔離壁」に沿って縦列行進し、パレスチナ難民の帰還が譲れない権利であることを改めて主張した。そしてイスラエルでも、このデモに共鳴したパレスチナ住民たちにより、1948年に破壊されたいくつかの村落地区で「ナクバの日」の集会がもたれた。


 デモ参加者たちの二つ目の要求は、ファタハとハマスによって分割統治されてしまっているパレスチナ社会においてもっとも広義な意味における「民主主義」を推し進めることであった。運動を牽引するアル=ヘラク、アル=シャバブ、アル=ムスタキなどの若者の市民運動や「パレスチナの誇り」といったグループは、ヨルダン川西岸とガザでの再選挙のみならず、大胆にもパレスチナ民族評議会(CNP)の解散と投票による再選出をも迫った。パレスチナ解放機構(PLO)の最高決議機関であるCNPは全パレスチナ人の代表機関とみなされている。「全パレスチナ人」の中には、難民となった者、国外に離散した者、イスラエル国内にいる者も含まれる。しかしCNPはオスロ合意の枠からはじかれてしまい、1988年以降開催されていない。形骸化したCNPを一新するようにという要求を掲げることによって、イスラエル占領地区の若者たちは民族離散したパレスチナ人団体からの長年に渡る訴えを引き受けたのである。彼らは、オスロ合意によってバラバラにされてしまった国家が再び一つに繋ぎ合わさることを期待している(注2)。


 3つ目の要求は、まさに膠着状態にあるオスロ合意についてである。デモ隊は名ばかりの「和平プロセス」の破棄、そしてイスラエルとの協調政策を取りやめるよう要求している。2012年の始め、ヨルダンのアンマンにて「対話再開」がイスラエルとパレスチナ双方の幹部たちの間で今一度試みられたが、占領地区では人々が激しいデモでこれに応じた。時を同じくして、双方の国の穏健派同士がラマラとエルサレムで会談したが、いくつかの若者グループたちはこれも激しく非難した。彼らのグループは、占領が続く限りあらゆるイスラエル人とのコンタクト禁止を求めている。2012年夏以降、ストライキとデモが次々と実施されたが、この時はパレスチナ当局の緊縮政策を告発し、退陣を求めてのものだった。


 「アラブの春」に刺激を受けた若い活動家たちは、国家権力を求めてではなく人権の名において独立闘争を再定義することに踏み切った。その理念はBDS運動に極めて近い。2005年に世界170団体によって打ち出されたBDS運動の理念とは、アパルトヘイト政策に抗して闘うこと、そして占領の終結、帰還の権利、そして全イスラエル居住民の平等な待遇の保証という3つの基本方針にある。


揺らぐ暫定自治政府


 パレスチナ政府が国連への加盟希望を決定したのは、泥沼化したイスラエルとの交渉の打開策としてという面もあろうが、そればかりでなく、特にオスロ合意やファタハ・ハマス支配に対する世論の強い反発をかわそうという配慮かもしれない。2012年とその1年前の国連議会におけるアッバス大統領の発言を比較してみると、当局がいかにデモ参加者たちの言葉を借用して、彼らの要求を調整し、利用しようとしているかがはっきりと分かる。


 アッバス大統領のスピーチはいずれも「アラブの春」をパレスチナ人の国家建設と独立への希求に重ねている。国際社会に責任を引き受けよと説いている点ではどちらも同じだが、特筆すべき相違点がある。それは、2011年のスピーチが国連への正式加盟を要請するものであったということだ。しかし、アッバス大統領は国連安全保障理事会での加盟申請審議において可決に必要な賛成多数を得られなかった。その主たる理由はアメリカの拒否権行使にある。そこで2012年には、アッバス大統領が再びニューヨークにある国連本部を訪問し、バチカン市国のような「オブザーバー国家」という非正規加盟国としての承認を申請したのである。この立場を得ることができれば、パレスチナは国際刑事裁判所(ICC)、国際司法裁判所(ICJ)、そしてその他国連機関の正式加盟国となることができ、パレスチナ人たちはイスラエルの戦争犯罪や国際法違反を追及する法的手段を手にすることだろう。だが、長びく占領とパレスチナ人難民返還という問題解決には、まだまだほど遠い。[この記事が掲載された後の11月29日、国連決議でパレスチナがオブザーバー国家となることをが採択された。――訳注]


 パレスチナ政府にとって国連において闘うことが、パレスチナ人に主権国家を持つ権利があることを認めさせる唯一の手段である。ヨルダン川西岸、ガザ、東エルサレムを含む歴史上パレスチナのものであった土地の22%をもっての独立国家承認である。元々パレスチナ人のものであったわずかばかりの土地が返還されることで、1948年に受けた迫害がいくらか償われるとアッバス氏は述べる。そして、その返還によって1947年の国連決議181号(注3)で制定されたパレスチナ分割についての国際的コンセンサスが復活する、と力説する。彼は、「国際社会」から認知された国家だけがパレスチナ国民の権利、ひいてはパレスチナ難民の帰還の権利を守り、パレスチナ人に誇りを持たせ、経済を発展させうるのだという一点を強調する。


 その一方でアッバス大統領は、現内閣の不人気ゆえ、国連加盟申請を出したのは政府当局ではなくPLOであることを強調せざるをえない(注4)。二つのスピーチにおいて、アッバス氏はパレスチナ難民、イスラエル市民、国外へ離散した者、あるいはイスラエル占領区居住者を含むあらゆるパレスチナ人の団結を訴えている。


 こうした働きかけの目的は、どうあってもイスラエル=パレスチナ問題を国際的な場での協議へ持ち込むことにある。アッバス大統領は、この問題を国連にゆだねることでアメリカの単独支配に揺さぶりをかけようとしている。こうした戦略は、2011年9月23日のスピーチにはっきりと表れている。「パレスチナ問題は、国連諸機関と出先機関のもろもろの決定を介して国連そのものと密接につながっている。(中略)私たちパレスチナ人は、国連がより重要かつ有効な役割を果たしてくれることを切望する」。


強硬態度に出るアッバス大統領


 1年後の2012年、アッバス大統領は言い方を硬化させるようになった。彼はそのスピーチに、パレスチナ人のデモ抗議参加者らの言葉をそのまま取り込んだ。イスラエルの「入植」が非難に値する、という発言については前年と変わらない。しかしそればかりでなく、東エルサレムや占領地区で行なわれている「アパルトヘイト」や「民族浄化」といったイスラエルの政策についても非難するようになった。――これは、彼がこれまで慎重に避けてきた表現である。2011年には、アッバス氏はまだ努めて「隣国同士であるパレスチナとイスラエルの平等と公正という原則のもと、(中略)イスラエル政府とイスラエル国民に和解の手を差し伸べ」ようとしていた。今現在のアッバス氏は、歯に衣着せずイスラエルのネタニヤフ内閣を非難する。「2か国での問題解決」を頓挫させ、「オスロ合意の内容を骨抜きにしてしまった」と。


 アッバス大統領は、こうした方策によって国民の共感を取り戻そうとしている。国民は暗礁に乗り上げたオスロ合意や、占領状態にもかかわらず続けられている不毛な交渉に苛立っている。アッバス氏の弁論の方針転換は、イスラエルの非妥協的な態度によるフラストレーションの表れでもある。こうした経緯から、アッバス氏は2012年9月に国連でこう伝えた。パレスチナ人に与えられた領地は錯綜した「飛地となっており、(中略)領地は(イスラエルの)植民地主義的および軍事的支配下にあるが、新表現を与えられている。いわゆる『暫定自治区』と言い表す一方的な案なのだ。


 アッバス大統領が「国際機関」に加え、間接的にアメリカに辛辣な言葉を送ったのもうなずける。以前にはまったく見られなかったこれほど強い言葉がスピーチに使われたのは、「アラブの春」による高潮ムードを反映してのことだ。1年前は、大国に対して「和平プロセス」の再開に尽力するよう働きかけていた。現在では、次のような厳しい総括となっている。イスラエルは「取り決めを実行せず」「処罰されない」まま許されている。「占領者がやりたい放題に略奪政策を続行し、(中略)パレスチナ人に対し強硬なアパルトヘイト政策を執ることが許されているのだ」。


 アッバス大統領は、1年前には考えられなかったような大胆さを示している。初めて彼は公式の場で、平和を得るには「犯罪である人種差別的な植民地化を弾劾・処罰し、ボイコットし、徹底して撲滅すべきである」ことを世界に知らしめる以外に方法はないと発言した。まるでBDSキャンペーンにPLOが反応したかのようだ。


 問題は、以下の点にある。パレスチナ政府は国連での活動によってどのような政治的措置を得ることができるか、そしていかなる戦略を発動して国連からイスラエルへの制裁措置を引き出せるか。待ちくたびれたヨルダン川西岸地区のパレスチナ人たちは、もはや政府には大きな期待を抱いていないようだ。2012年の地方選挙では、ネプルーズで、ラマラで、そしてジャニンでどの政党にも属さない候補者の当選が目立った。彼らはファタハの影響力の失墜を立証した。今回の投票率の高さから、それでもパレスチナ人たちが断固として自由と誇りを求め続けていることは確かだ。それは、たとえ将来のパレスチナ国家の輪郭が見えなくても、である。





(1)オスロ合意。1993年、アメリカ・ワシントンにて、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長により調印。これにより、イスラエルとパレスチナは初めてお互いの存在を認めた。その骨子には、イスラエルが入植した地域から暫定的に撤退し、5年を期限としてパレスチナ人による暫定自治を実施し、その間に問題解決の協議を進めることが含まれている。先行して暫定自治が施行されたのがガザ地区とヨルダン川西岸のエリコである。しかしその後「和平プロセス」は難航し、諸問題は先送りにされている。[訳注]
(2)Cf. Karma Nabulsi, «The single demand that can unite the Palestinian people», The Guardian, Londres, 28 mars 2011 ; «Youth gather for global meet on PLO elections », 9 janvier 2012, www.maannews.net
(3)1947年11月29日の国連総会において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家として、エルサレムを国際管理することが決められた。通称「パレスチナ分割決議」。これを根拠とし、1948年にイスラエル国家が誕生した。[訳注]
(4)1993年のオスロ合意に調印したのはPLOであり、パレスチナ人、とくに国外追放にあった者にとっては、国内のパレスチナ人のみを代表する政府よりも正当な機関である。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2012年12月号)