アルメニアとアゼルバイジャンの破滅的関係

終りなきナゴルノ・カラバフ紛争

フィリップ・デカン*

*ジャーナリスト


訳:仙石愛子


 アルメニア軍がシュシャを掌握した1992年5月9日から20年を経た現在、ナゴルノ・カラバフの山岳地帯における停戦ラインはかつてないほど不安定な状況となっている。アゼルバイジャンは2010年以降急速に再軍備を進めている。戦闘が再開され、計り知れないほど重大な結果に至るのでは、との懸念がコーカサス山地全体に拡がっている。二つの民族は政治的、外交的な行き詰まりに高い代価を支払っている。




一触即発の停戦ライン


 「15秒以上見ないで下さい。そのあと、頭を低くして」コンクリート製の銃眼から密かに覗くと有刺鉄線の列が、さらに200メートルもないところにアゼルバイジャン兵士の最初の隊列が見える。アルメニア側アスケラン地区のこの塹壕内ではあらゆるものが第一次世界大戦の光景を思い起こさせる。たとえば粗末な防塁、土嚢、防寒用小型薪ストーブ、夜間に敵の侵入を知らせる信号を送るための錆びた缶容器、等々。ここの部署についている兵士3人は二十代、エレヴァン出身だという。上官によると、今日の前線は比較的平穏のようだ…。


 「昨日、敵は18回も停戦を侵しました。われわれは1回です」と、ナゴルノ・カラバフの国防大臣、モヴセス・ハコビアン中将は断言する。「300kmに及ぶ前線で、誰か一人が頭を出した瞬間に彼らは発砲します。毎日われわれは交戦状態にあります。」6月初頭に撃ち合いがあり、2日で8人の死者が出た。最後の停戦協定は1994年5月16日にモスクワで調印されたが、それ以降停戦ラインは動いていない。軍隊は地下に潜ってしまった。その当時、アゼルバイジャン当局は混乱を避けるため戦闘中止を受け入れていた。アルメニア軍は、ナゴルノ・カラバフの旧自治州と隣接した広大な土地の支配権を奪ったばかりだった。それは旧ソ連支配下アゼルバイジャン領地の約13%に相当した。それ以来、精鋭の兵士と射撃手たちが四六時中監視し合い、ときに両者間が100m以内に接近することもあった。


 小ぜりあいの間にも国際会議は開催される。この数カ月に何度も開かれたが、その前からロシアはアルメニアとアゼルバイジャンの間に立って何度も首脳会談を開催していたのだ。一方でアルメニアとロシアが同盟を結び、他方でトルコ系アゼルバイジャン人とトルコが何本もの強い絆で繋がっている。こういった事情により、この紛争は国際緊張の深刻な要因になっているのだ。


 1905年、1918年、そして1991年~1994年の3つの戦争で、アルメニアの山岳住民は平地の「タタール人」-現在のアゼルバイジャン人- と戦ってきた。ナゴルノ・カラバフに住むアルメニア人は、1921年にソビエト・ボルシェヴィキが決定したバクーへの併合に抵抗し続け、やがてソ連がかぶせていた蓋を最初にはね返した地域となった…1988年のことだ。民族主義の波がバルト三国から押し寄せ、ソビエト連邦が崩壊するに至った。ルクセンブルグよりもかろうじて広い領土を持つこの火薬庫については、ロシアだけではなくアメリカも憂慮している。今年6月にメキシコで開催されたG20会議で、オバマ、プーチン、オランドの各大統領は自らの無力さを認めた上で、「紛争中の二か国は、持続可能で平和的な解決に必要とされる重要決定事項を滞りなく採択しなければならない」と念を押した。アメリカ、ロシア、フランスは「ミンスク・グループ」会議の共同議長として1992年以来、当紛争を解決する任務を負っている。


アルメニアに通じる《ラチン回廊》


 カラバフの軍人たちは、いつか交渉のテーブルに招ばれるのを期待しながら、肩をまわして筋肉を誇示している。今年5月9日、首都ステパナケルト(アゼルバイジャン人はハンケンディと呼ぶ)では感動的なパレードが催され、人々はシュシャ -元アゼルバイジャン軍の要塞があったところ- の攻略を記念し祝ったのだ。1992年5月、この軍事作戦により反逆者たちはラチン(アルメニア名はベルゾル)回廊の支配権を握り、カラバフをアルメニアに繋ぐことができた。トルコと同盟しているアゼルバイジャンに勝利したことは、世界に離散している多くのアルメニア人の想像の中で、歴史上に一つの雪辱として今なお鳴り響いている。


 カラバフに住むアルメニア人は、最初ソ連支配下のアルメニアへの併合を望んでいたが、その後1991年には独立を選んだ。このことにより、紛争を二国間の領土争いとしてではなく解放闘争として展開できるようになった。14万の国民を擁するこの小さな共和国は自らの憲法、議会、国旗、軍隊、制度、そして政府を有している。しかし現実には、この共和国は未だにアルメニアという「姉」離れができず、すべてのことがエレヴァンで決定されている。


一カ国からも承認されない共和国


 アルメニア大統領、セルジ・サルキシャン氏は主賓席から、戦車、無人飛行機、最新型ミサイルの行列に向けて拍手喝采していた。その両隣にはアルメニア正教会の高位聖職者、そしてその隣には世界の一カ国からも承認されていない「ナゴルノ・カラバフ共和国」の大統領、バコ・サハキアン氏が列席していた。この軍事パレードの目的は、「山岳地の住民」が自己決定権を決して放棄しないことをアピールすることだった。「この20年間、ナゴルノ・カラバフは国際的基準に則って民主的な制度を取り入れ、多くの成功を収めてきたことは確かです。」これは去る7月に再選されたサハキアン大統領がわれわれに断言したことだ。「遅かれ早かれ、国際社会はこの国の独立を認めるでしょう。われわれはあれほど悲惨な戦争を再び体験することなど望んでいません。そうはいっても、われわれの最優先事項は未だに国の安全保障であり、常に国防態勢にあります。これには予防的作戦も含まれます。」


 戦闘が終ってから、ステパナケルト、すなわちハンケンディの街はずいぶん変った。「アルメニアの大儀」の看板にはその復活が掲げられた。公共建物や近代的なビルが建ち並び、ソ連崩壊後のアルメニアの工業都市よりもはるかに魅力的な地方小都市(人口5万)に変貌した。若い女性たちはカラフルな服装で大通りに繰り出し、実にのんきに店で買い物をする。前線から25kmしかないのに!…一人当たりの年収(2,200ユーロ)はアルメニアの大部分の地域のそれを超えている。ステパナケルトにあるナゴルノ・カラバフ政府は15,000の兵からなる軍隊を保持し、年金を支払い、道路や橋を建設し、医療費や学費を負担し、数多くの企業を管理している。そして、アルメニア政府は支出を続ける…、その予算の3分の2をアルメニアが負担しているのだ。


離散アルメニア人の存在感


 「アゼルバイジャンは油田を持っているが、アルメニアは離散民族を持っている。」この言い回しを前カラバフ大統領、アルカーディ・ゴウガシャン氏は好んで使っていた。全世界に散らばっているアルメニア人から援助金の大部分がここに送られるのだ。これはフランスのアルメニア基金によって管理されている寄付金の半分にあたる、と同基金ステパナケルト事務局の代理人、ミシェル・タンクレズ氏は次のように説明する。「2000年にわれわれが最初のキャンペーンを行なった時、アルメニア系フランス人家族の約15%がカラバフを認めてくれました。今日では誰もが関心を持ち、大体4人に1人が寄付をしてくれます。」石油の恵みと同様、こういった潤沢な寄付金もまた、負の影響なしには済まない。ジャーナリストのアラ・K・マノージャン氏は浪費と逸脱行為を定期的に批判している(注1)。タンクレズ氏は遠まわしな言い方で、「政治に最も精力的なものは経済にも最も精力的です」と言う。


 昔の首都シュシャには変化の兆しが見える。復元された大聖堂が以前の壮麗さを回復したようだ。しかしほとんどの住民はうらぶれたブレジネフ様式ビルの中に住んでいる。標高1,300mの地にもかかわらず、メンテナンス不足でセントラル・ヒーティングもまともに機能していない。各世帯がガスかまきストーブを使い、窓から煙突を出して間に合わせている。数多くの建物が1992年の戦闘の激しさを今も物語っている。アゼルバイジャン人の家々は破壊され、2つの大きなモスクと昔のバザールは破壊されたままだ。第一次世界大戦前は混住していたとはいえ、約1万の住民の大半はアゼルバイジャン人であり、その後ソ連の支配下に置かれた。この街は現在では約3,000人のアルメニア人を受け入れているが、その多くは1988年2月、バクー郊外スムガイトでの迫害から逃れてきた人たちだ。


「文明の衝突」より深刻な問題


 「多くの人が失業しています」と嘆くローラン・グーマニヤン氏は、何度も負傷し勲章を授与された経験がある。「私は20歳のとき、あらゆる戦闘に精力的に参加しました」と説明する。「現在、私は40歳ですが無職です。この役立たずという自意識は、子供たちを育てるのに耐え難いものです。」うつ的な症状は「砲弾神経症治療」の適用を受けたが、その根源は旧ソ連支配下で受けた絶望感であり、いわゆる「文明の衝突」より深刻なものだった。「社会問題という氷山が民族問題という表面の下に隠れている」と、弁護士のセヴァーグ・トロシャン氏は考える(注2)。


 隣国関係は単純ではない。キリスト教アルメニアは正教ロシアと軍事同盟を結び、同時に、集団安全保障条約機構(OTSC)に加盟している中央アジアのイスラム諸国とも同盟を結んでいる。アルメニアはイランのシーア派と良好な関係を維持しているが、イランのシーア派自身はアゼルバイジャンのシーア派に対して強い警戒心を持っている。後者シーア派はトルコのスンニ派やグルジア正教徒への接近を望んでいる。グルジア自体はロシアとあからさまに紛争中である…。


イランとイスラエルの不気味な動き


 アルメニアはイランの援助によりアゼルバイジャン・トルコ間のパイプの封鎖を破り、特にガスと石油を輸入することができた。アゼルバイジャン政府が自己定義に関して行なった演説をイラン政府が懸念し、そのイランの北西部には重要なアゼルバイジャン人共同体があり、1,500万人が住んでいる。アルメニアとイランは、イスラエルとアゼルバイジャンの関係が次第に緊密になるのを特に恐れている。というのも、その関係は今年2月の12億ユーロにのぼる武器売買の合意を通して、確固たるものとなっているからだ(注3)。アゼルバイジャンは石油その他の利益供与と交換に精密機器、特に無人機を手に入れた。その他の利益については、たとえば、イスラエルはイラン核施設爆撃計画のためにアゼルバイジャンの首都の南に「飛行場を買った」のではないかとの嫌疑をアメリカは抱いている(注4)。アルメニア人は、その爆撃がカラバフ攻撃ののろしになるのではないかと、恐れている。


 ナゴルノ・カラバフを西側へ進むと二つの交通インフラが視野に入り、この地域が特別の状況にあるのがわかる。すなわち、一つの隆起によってアルメニアから切り離されているのだ。その隆起を越えるには標高2,300mを越す峠の道を辿らなければならない。戦前は、一本の鉄道がステパナケルトとクーラ平原方面出口とを結び、さらに遠いバクーへと通じていた。今、この鉄道が使われているのは土を運搬するためだけだ。残りは取り外されてしまった。昔の駅からそう遠くないところに、ステパナケルト空港が1年以上前に完成したが、今だにエレヴァンからの最初の飛行機が飛んで来ない。アゼルバイジャン軍が、飛行機が姿を現せばすぐに撃墜すると予告しているからだ。同軍は、1992年2月26日にすぐ近くのホジャリ村で、アルメニア大軍の最初の攻撃で多くの一般アゼルバイジャン人が殺されたことを指摘している。


 戦争の結果は非常に悲惨なものだった。2万人以上が命を落とし、負傷者、傷痍軍人、数多くの避難民が生まれた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、アゼルバイジャン国内で57万人が避難し、さらにアルメニアからの避難民22万人を受け入れなければならなかった(注5)。「アゼルバイジャンの難民キャンプを訪問しました。私はパレスチナのキャンプも知っていますが、同じくらいひどいものでした」と、フランス上院議員ナタリー・グレ女史は語っている(注6)。アルメニア側も、アゼルバイジャンに暮らしていた30万のアルメニア人を自国に迎え入れた。


 アグダム高地に到着し、昔の自治地区には属していなかった領域に入る。「国際社会」の用語に従えば「占領」地である。1993年に国連安全保障理事会は「当該占領軍はアグダム地区および最近占領した他のすべての地帯から、即刻、完全に、無条件に、撤退すること(注7)」を求めた。荒れ果てた軍事用斜堤が数多くの廃村やゴーストタウンを取り囲んでいる。その中には、フズリやジェブライユやアグダムのように昔はこの地の商業中心地区だったところもある。地雷を除去した数カ所の土地だけが開拓者、特にアルメニア人畜産農家によって回復していた。数万戸の家や数百のビルは、交戦中に破壊されるか、さもなければ組織的な略奪にあっていた。家具、骨組み、屋根、配管、配線、再利用できるものはすべて盗まれ、燃やせるものは煙となって消えた。ところどころに壁の跡が残っているだけだ。


古代遺跡と鉱山


 無人となった地域に居住することを望むアルメニア人は、それを実行すべく適当な口実を探していた。つまり、歴史…「古代史」を援用するのだ。アグダムから北方7kmの地点で、彼らはヘレニズム時代の重要な遺跡をみつけ、すぐさまそれに《ティグラナケルト》と命名した。「1匹の狐が巣穴を掘っていました」とそこの管理人は2005年の発見を思い出しながら語る。「この穴を通して、壁を発見したのです。私は考古学研究所のハムレット・ペトロシャン所長に知らせました。彼らは穴を掘り進め、6世紀に建てられたこのアルメニア大聖堂遺跡を発見したのです。」同時に、紀元前1世紀の大城壁も発掘された。その城壁をもってすれば、そこがアルメニア大王ティグラン2世(紀元前95年~66年)の時代に造られた街だったことが証明されるだろう、と思われた。その時代は古代アルメニアの絶頂期だったのだ。


 アゼルバイジャンの領土保全尊重に関する議論は、ダディヴァンクのような修道院問題でもつまづいた。ひどい道路を辿ってタタール峡谷を抜け、ダディヴァンクに到着する。中世に逆戻りしたかのような修道院が山にへばりつくように建っており、そこには13世紀のハチカル(石像)も現存している。しかしここはケルバジャール地区といって、1993年4月にアルメニア・ゲリラ、《フェダイー》に征服される前は、アゼルバイジャン政府が管理していたところなのだ。


 ベルゾル/ラチンから中心地へ通じる回廊と全く同じように、ケルバジャール地区を貫通する北部のルートもまた、軍事戦略上重要なものだった。サルサング人工湖近くのドルムボン鉱山開発への投資に伴い、このルートが経済政策上最も重要になったのは2000年代初頭のことだ。マルタケルト地区全体に金、銅、モリブデンなどの豊富な地下資源が眠っていた。ナゴルノ・カラバフの最初の採掘業者、《ベース・メタル社》はこの街道を整備することを約束した。ここを通って鉱石を100km足らずのアルメニアの街、ヴァルデニスの工場に運ぼうというのだ。作業は今年の春から始まった。


譲歩できるものとできないもの


 こういった投資話が発表されるとアゼルバイジャンから反発が起きた。彼らは現状が固定されるのを恐れていたのだ。独裁者、イルハム・アリエフ大統領は石油という天の恵みを利用して土地を取り戻そうと思っていた。「われわれは外交的努力も続けるが、同時にあらゆるチャンスを使って自分たちの領土をとりもどす(注8)。」アゼルバイジャンの軍事費は2004年以来膨張し、2011年にはその5倍の25億ユーロに達したが、対するアルメニアは3億3,500万ユーロだった(注9)。この不均衡は力の格差を拡げ、「国際社会」を不安にした。一方、実際の交渉の輪郭は、いわゆる「マドリッド原則」に基づき2007年末に公表はされたものの、未だにはっきりしない。ミンスク・グループ会議は、占領地域全体の返還および帰還権を基本として平和的に解決することを目標に定めた。その代わりにアルメニア人地域の広範な自治権、平和維持活動を含む治安確保、そしてアルメニアへ通じる回廊を認めたのだ。


 法的に解決するには地理を考慮に入れる必要があるだろう。特に、この地域を横断している小コーカサス山脈である。アルメニア人が支配している地域の北部には、3,000mを超す山々がそびえており、これによってナゴルノ・カラバフはシャウーミャン地区から切り離されている。このシャウーミャン地区はアゼルバイジャンの支配下にある。アルメニア人は確かに長い間放っておいたが、この地区の併合を望むようになった。この山脈によって特に大きく孤立しているのはケルバジャール地区であり、ナゴルノ・カラバフ政府はアルメニア人がここに定住するよう促進している。この緩衝地帯とベルゾル/ラチン周辺にはおよそ1万5,000人が住んでいるが、それ以外の征服地域は荒れたままである。


 アゼルバイジャンのアリエフ大統領は、ケルバジャール地区とラチン地区に暫定的地位(5年間)を付与するという案を受け入れた。ラチンに回廊を建設するという大前提を大統領は認めたのだ(注10)。旧自治領の確実な独立に合意する用意がある、とも言った。しかし、領土問題と、シュシャを含む国外避難民の帰還問題に関して妥協するなど、大統領にとってはいまだに論外なのだ。


ナゴルノ・カラバフ人の実力


 2つのグループの支配者にとって、妥協という方法は困難なように思われる。それは、彼らが権力を独占できたのはこの紛争のおかげだからだ。「アゼルバイジャン、アルメニア両国で、ナゴルノ・カラバフ問題は立法上、行政上、全政治活動の中心になっています」とフランソワ・テュアルは説明する、「この問題は避けて通れない状況が続いており、国内政治におけるあらゆる緊張の源なのです(注11)。」


 1998年、当時の大統領、レヴォン・テル・ペトロシャン氏が段階的な解決策を受け入れ、アルメニアの国益を放棄したという廉で告発され失脚した。以来、アルメニアの首都エレヴァンでは、政治的さらには経済的権力がカラバフの人々の手に握られている。現大統領、サルキシャン氏は当時の防衛大臣であり、現状がアルメニア人にとって昔と同様に高い価値を持っているということを非常によく理解している。同氏はトルコへ接近しようとして失敗したあとは、封鎖の解除や国際的圧力の緩和を望んでも、自分の担うシステムが必ずブロックにあうことを理解しているのだ。


 アルメニアは旧ソ連の労働分野において科学研究と工業力の中心であったが、地震(1988年、何万人もの死者が出た)、戦争、ソ連崩壊など次々と惨事を経験した。寡頭政治家たちの支配下にあるメディアで、彼らが自分たちの富裕と傲慢を見せつけている間に、大多数の複合企業は完全閉鎖し、農耕地の3分の1以上は荒れ果て、さらに国は地下資源を最高入札者のロシアに売らざるを得なくなった。2012年5月の国民議会選挙の前、候補者はそろってタカ派的演説を行なったが、多くのアルメニア国民はもはや投票に行かなかった…。


脱出したアルメニア経済難民


 独立国家としての20年は無言の悲劇、すなわち経済難民大流出の20年として記憶に残るだろう。1980年代末以来、70万~130万のアルメニア人がコーカサスを去った、と推算される(注12)。ロシアだけは他国よりも毎年平均3万5,000人多くアルメニア人を受け入れてきた(注13)。永住者人口は280万人に減少したと言われている。出産奨励政策が実施されても、もともと芳しくない人口統計学的予測をわずかしか改善できない。


 エレヴァンに戻って一筋の希望を見出すには、中心街のジェネラル通りにある小公園へ出かける必要がある。ここ何カ月もの間、若い活動家たちは警察に勇敢に立ち向かい、この公共広場の私有化ばかりでなく商人たちに与えられている特権を告発してきた。彼らは、同じことが国内全ての公有地に起きうることを指摘している。それは、民族主義的な話術が衆目をそらしている間に起きる、と…。


信頼関係が築けない隣人同士


 アルマン・ラケジャンという若者は在仏ディアスポラの家庭に生まれ、シュシャに定住して8年になる。彼が今思っていることは、未来は市民社会の出現によって生まれるだろうということ、自分なりに地元に相互扶助アソシアシオンを組織したい、ということである。さしあたり始めなければならないのは、彼によると、自分と他者との最小限の信頼関係を築くことだという。「私の地区のある家族が1年前、息子さんをアゼルバイジャン人に殺されました。この家族や近親者に、アゼルバイジャン人がよき隣人であり彼らとともに平和を築いて行かねばならない、などと言えるでしょうか?」緊張緩和の最初の兆しは、前線からしかやって来ないだろう。すなわち、遺体や捕虜の交換をすませ、戦線を後退させ、停戦監視の仕組みを確立し、外交交渉とは異なる話し合いの方法を受け入れることだ。





(1)http://www.thetruthmustbetold.com サイト参照
(2)Sévag Torossian, Le Haut-Karabakh arménien. Un Etat virtuel ?, L’Harmattan, Paris, 2005.
(3) Associated Press, 26 février 2012.
(4) Mark Perry, « Israel’s secret staging ground », Foreign Policy, Washington, D.C., 28 mars 2012.
(5)« Les réfugiés dans le monde, cinquante ans d’action humanitaire », Haut-Commissariat des Nations unies pour les réfugiés (HCR), Genève, 2000.
(6)Journal officiel du Sénat, Paris, 15 avril 2010.
(7)国際連合安全保障理事会第853決議案、ニューヨーク、1993年7月29日
(8)独立20周年式典での演説、バクー、2011年10月17日
(9)ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)
(10)ナゴルノ・カラバフに住むアゼルバイジャン共同体を前にしての演説、バクーにて、2010年7月6日
(11)François Thual, La Crise du Haut-Karabakh. Une citadelle assiégée ?, Presses universitaires de France-Institut de relations internationales et stratégique, Paris, 2002.
(12)« Migration and human development : opportunities and challenges », Programme des Nations unies pour le développement, New York, 2009.
(13)ロシアの統計年鑑によると、1991年から2009年の間に45万人のアルメニア人がロシア連邦に移住した。




ナゴルノ・カラバフ年表


1805年
 ・カラバフのハン[君主‐‐訳注]の領土がロシア帝国に統合される
1828年
 ・エレヴァンとナヒチェヴァンがロシア統治下に入る
1905年2月~8月
 ・バクーとシュシャを含む複数の都市でアルメニア・アゼルバイジャン間戦闘
 ・数千人の死者 
1915年4月
 ・アルメニア西部でジェノサイド
1918年2月24日
 ・トランス・コーカサス民主連邦共和国建国宣言
同年5月26~28日
 ・アゼルバイジャンとアルメニアの独立宣言
 ・カラバフにて戦闘
1920年4月~11月
 ・アゼルバイジャン、カラバフ、アルメニアがソ連支配下となる
1921年7月5日
 ・ソ連共産党コーカサス執行部によりカラバフのアゼルバイジャン併合が決定される
1923年7月7日
 ・ナゴルノ・カラバフの自治管理地域の創設
 ・政府はシュシャからハンケンディへ移り、ステパナケルトと改名
1988年2月20日
 ・ソヴィエト共産党のナゴルノ・カラバフ地方会議はアルメニア併合を可決
 ・アスケラン抗争後、スムガイトにおける対アルメニア人迫害、エレヴァンにおける大規模デモ
1991年8月~9月
 ・ソ連でのクーデタ失敗後、アゼルバイジャンとアルメニアが独立
12月10日
 ・登録選挙人の82%がナゴルノ・カラバフの独立を支持
 ・戦闘拡大
1993年4月30日
 ・国際連合安全保障理事会がアルメニア占領軍に対し、アゼルバイジャン領土からの撤退を求める
1994年5月16日
 ・モスクワでの停戦合意

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年12月号)