ルソーの革命思想の複数性

エヴリーヌ・ピエイエ

訳:仙石愛子


 今年はジャン=ジャック・ルソー(1712年〜1778年)生誕300年にあたる。ジュネーヴ市民、作家、思想家、あるいは散歩愛好家(フラヌール)、博物学者の顔も持つルソーは、フランス文学や政治理念を一新した。また「感じやすい魂」という概念を創って長編小説を革新し、人間の平等性の条件について考察し、来たるべき革命の序章を書いた。[フランス語版編集部]


  一人の思想家が相反する解釈を呼び起こし、その解釈が互いに排斥し合うというのはめったに起きることではない。ところがジャン=ジャック・ルソーの場合、それにあたる。その著述はかなり大きな反響を呼び、多くの人々に影響を及ぼしたが、時に彼らは、まさに同一の泉から水を汲んでいると思われる理想をかかげているのに、その理想の名において、人々が激しく反目しあうことになった。

『社会契約論』の波及

 ルソーの思想は、1789年の「人権宣言」に決定的な影響を及ぼし、1776年、トマス・ジェファーソンの起草による「アメリカ合衆国独立宣言」の上に燦然と輝いている。しかし他にも、その着想と根拠をルソーの著作の中に見出だしていた反植民地主義闘争は数多くある。シモン・ボリヴァル(1783年−1830年)は南米のスペイン植民地の解放に決定的に貢献し −当地では『社会契約論』は禁止されていた−、立憲主義や政治に関するルソーの著作の教えに忠実に従った。旧フランス領インドシナのグエン・アン・ニンは当局から危険な破壊活動家とみなされていたが、1926年に彼は『社会契約論』(この地でも禁止)の抜粋をベトナム語に翻訳し、それを「現地人は貪るように読み」、「社会の福音書」と考えた。当時の著名人ポール・カールトンがいささか危惧の念を抱きながら述べていることを引用すると、ルソーは「反抗の温床、暗殺の教唆者」となる。


 実を言うと、ルソーにつかまったのは極東の国々だった。それは日本から始まる。1874年にはすでに中江兆民が『社会契約論』の一部を漢文に翻訳し、これについて次のようにコメントした。アナーキストたちがルソーの思想に基づいて彼らなりの運動を展開しているばかりでなく、ヨーロッパをモデルとして日本をつくり上げたいと願う人々もルソーをモデルとしている、と。中国では革命の兆しの中、ルソーの思想を広めようとしたのは『民報』だった。孫文の政党のこの機関紙は共和国建設のために闘い、それは1912年についに現実のものとなった。共和国を主張した全ての人々の名は数えきれないほどだが、要するに、人々が近代世界、すなわち啓蒙と進歩の所産と呼ぶにふさわしい世界に入ろうとする時、ルソーは頻繁に彼らを助けたのだ…。

相矛盾する解釈

  にもかかわらずこの同じルソーが、恐怖政治を鼓舞したということで非難されている。超国家主義右翼の大物活動家、ポール・デルレード(注1)が20世紀初頭になってからも親しく援用したのもまた同じルソーだ。やがてヴィシー政権で大臣となるマルセル・デアは、1942年に「全体主義者ルソー」に敬意を表した。デアは「国民革命の先駆者や始祖たちの中から(注2)」特にこのルソーを取り上げたのだ。ムアンマール・カダフィ(注3)の『緑の書』は、ルソーの名を全く出していないが露骨なほどルソー的概念に満ち溢れている。クメール・ルージュのイデオロギーに関しても、たとえ表向きルソーを標榜していなくてもルソーの思想の中心概念に類似していると考えるのは突飛なことではない。毛沢東の文化大革命の場合も全く同じである −アラン・バディウの分析によれば、そうなる−(注4)。


 ルソーに対してこれほど相矛盾する解釈が行なわれるということをどう理解すべきだろうか?ルソーに対するスペイン・ファランヘ党の憎しみと、論理学者バートランド・ラッセルの疑念を同時に引き起こすのは著作の中の何なのだろうか?強烈な進歩主義者であるラッセルは自著『西洋哲学史』(1952年)の中でルソーのことを「えせ民主主義的独裁論から政治思想を創り上げた男」と記述し、さらに「ヒットラーはその成果」だと結論づけている。


  『社会契約論』(注5)は彼の教育論の大作『エミール』と同年の1762年に発表されたもので、両者は切り離すことのできない作品である。即座にこの二作品はジュネーヴ当局から「無謀で、破廉恥で、冒涜的で、キリスト教と政府全体を破壊する傾向にあるとして」即刻焼き捨てるべし、と糾弾された(明晰な認識ではある)。『社会契約論』は、「人間は自由に生まれついていながら、いたるところで鉄鎖に繋がれている」という革命的な言い回しで始まっている。取り違えてならないのは、この自由が人類揺籃期の自由であり、この時期に二足動物は驚くべき進化を約束されながらも、まだ「単なる感覚だけを与えられた動物」でしかなかった、ということだ。この原始状態は長く続かなかった。というのは自然の力が個人の自衛能力を凌駕しているので、人間にグループをつくるよう促したからである。人々は社会を形成し、自らの「獣性」を棄て、財産と権力の不平等性を発見した。そこから生じる従属性に反対して、「共同体の全ての力から各構成員の人格と財産を守ってくれるような、そして全ての人が結束しても各人が従うのは自分だけであり、以前同様に束縛されないでいられるアソシアシオン形態を考え出すべきであった」。


一般意志とは

 この「アソシアシオン形態」がまさに社会契約であり、政体や市民を創り出す全ての契約者の集まりであって、その目的は自由と平等を実現させることであった。ルソーが主権者と名づけた人民は、これを実践するために各人が理性的な選択を伝えて、一般意志、すなわち一つにまとめた決定を表明しなければならなかった。個人の違いは理性の力で乗り越えられる。なぜなら理性は各人に、自分だけの利益を超え利益の連帯感を持たせることができるからである。法律すなわち一般意志の遵守は、自由と平等を保証するものであるがゆえに、自由そのものである。この遵守が意味するもの、それは一人一人が「全メンバーが共同体に対する全ての権利を完全に放棄すること」がその存続の必要不可欠の条件だ、ということだ。法律により、そして法律の前では全員が平等である。それによって共和国は十全な意味を持つに至る。


 このような主張は、主要な概念に縮約してみただけでも、明らかにラディカルな理論である。まさしく自然権の存在、理性の普遍的価値、そして人民主権の原則を前提としていて、それぞれの要素が互いに結びついている。自然権、すなわち啓蒙思想の基本を肯定することは、何よりもまず人間の団結という原則を肯定すること、そして最初にそれを自由な団結と定義することである。「というのは、いかなる人間も仲間に対して生来の権力は持たず、力はいかなる権利も生み出さないからである」。そして最後に、各人がこの自由を守る権利を持っていると結論づけることだった。そこには奴隷という種族も領主という種族もいない…。この団結の基盤となっているのは理性である。というのは、各人には理解力が備わっており、それが、ルソーによれば、人間の特性であり、理解力を人間の中で発達させる使命を担っているのが教育だからである。「自然状態から市民状態への移行は、人間の中に著しい変化をもたらし、その行動には本能の代わりに公正が伴うようになる。」共和国は、市民の自由を通して政治的平等の諸条件を創り出すことのできる唯一の国だった。すなわち、フランスにおいてのみ、人々が市民になることができ、全体の福祉という視点で自分の意志を表明できた。


  こうした主張はおなじみのものだが、それでもやはり議論の余地がある。そういった概念は、一方で神の意志による自然の摂理はないと想定し、また一方で、人民、すなわち一般意志には間違いなく見識があると想定していた。それは、1789年と1793年の人権宣言が賛同していることであり、「人類の、侵すべからざる神聖な自然権」を示すものではあるが、その後150年以上ものあいだ忘れられることとなった…。楽観主義、純粋主義、民衆主義、いずれの批判も、この概念と対決しうると思われた。人間を支配するもの、それは理性だろうか?いや、むしろ感情ではないだろうか?ましてや大衆について言えば…。「自由が、感情を備えた人間の特権でありえないことは、永遠に続く確固とした法則である。感情は人間を奴隷にするのだ。」1791年には、政治家エドマンド・バークが人民と理性と自由のバランスに関して問題提起した。彼はアイルランド系の熱心なカトリック教徒、風刺作家で、著書に『フランス革命の省察』、それに続く『フランス国民議会の一議員への手紙』がある。このバランス問題はルソー思想の多様な受けとめ方の中心にあり、やがて「恐怖政治」が象徴することになる。一般意志にはどのような権力が認められるべきなのだろうか?ということである。


 ルソーによると、主権者である人民が自己主張をするとき、人民から権限を委任された決定機関は、この人民の意志が実現するようにする義務がある。なぜならこの意志は共通の利益のために働いているからである。すなわち1794年《国民公会》におけるロベスピエールの表現を借りれば、解放の活動に奉仕する「自由の専制主義」である。人民意志の絶対主権は、「左翼全体主義」へと逸脱する運命にあるのだろうか?『フランス革命を考える』(1978年)を著し、ジャコバン派の分析において、「正義」対「悪」の対立への致命的な単純化を批判したのは、もちろんフランソワ・フュレの論考である。その中でフュレは、この単純化が善の専制政治を創り出し、「レーニン主義的ポピュリスムの教条」とプロレタリアートの独裁を予告しているというのだ。もっと根本的には、人権宣言そのものが人民主権原則の不可侵性を根拠に専制政治へ必然的に導くと言えるかもしれない。「議会とは民主制や人民主権を独占するための手段である。これを排除するために闘う(中略)ことは、人民の権利である」と『緑の書』は明確に述べている。同書が強調するのは、政党制は「利己主義的な中身を持つ民主主義の戯画」でしかない、ということである。

すべて「ルソーのせい」なのか?

 「民主主義は神々の民に対してしか考えられない。」この一節は逸話ではない。『社会契約論』は理想的な共和国の条件を説明しているが、それは理論的に見ても、教養と見識のある市民であふれていない限り、存在し得ない。このことは実在する現実の歴史において生ずる緊張関係と矛盾のなかに読み取ることができる。原理上、平等それ自体の担い手としての理性の普遍性と、平等主義の高潔な担い手としての一般意志への依存との間には緊張関係と矛盾が生じるし、あるいは、抽象的な一般福祉と個々人の欲求の間にも緊張関係と矛盾が生じるものなのだ。疑問にふされなければならないのは、われわれが実践しているような民主主義の引き起こす緊張そのものである。民主主義が覆い隠している暴力も同様に疑問にふされなければならない。なぜなら、市民は自らが神々のような存在となることを希望する一方、自分たちの判断の根拠を一般理性だけにおくのでではなく、自分たち個々の都合の上にもおこうとするからだ…。一般意志は、本来ついて回る対立について熟考なしで済ますことはできないはずだ。しかし解決策の担い手として選択されるのが、明晰な先駆者だろうと、あるいは教育の光を通して徐々に見識を身につけていく大衆だろうと、この人間解放プロジェクトはわれわれがいつかは完成状態に至るという信念を拠りどころにしている。上記の「完成に至ることができること」perfectibilitéという新語はあきらかに18世紀の思想家たちが生み出したものだが、おそらくは当時よりも支持者が減っていることだろう。





(1) Paul Déroulède (1846年〜1914年)。第三共和政下のフランスで起きたブーランジェ将軍事件を支持し、クーデタを計画した右翼政治家。文学者でもある。[訳注]
(2) Marcel Déat, http://rousseaustudies.free.fr
(3) Mouammar Kadhafi (1942年〜2011年)。リビアの独裁的最高指導者。王政を廃止し42年間同国の実権を握っていたが、2011年の内戦で殺害される。1975年初版の『緑の書』でイスラム法に基づく直接民主制を推奨している。[訳注]
(4) バディウはクメール・ルージュと文化大革命を支持した。特に「カンボジアは勝った!」(ル・モンド1979年1月17日付)と題する論説参照。その中でバディウはクメール・ルージュの犯罪が明らかになってもこれを認めず、「反カンボジア・キャンペーン」を非難している。
(5) Jean-Jacques Rousseau, Du contrat social, Flammarion, coll. "GF", Paris, 2011.
       

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年10月号)