民衆蜂起のなかったこの地域も

「ヨルダンの春」へと向かうのか?


本紙特派員 アナ・ジャベール

コレージュ・ド・フランス客員研究員(アラブ現代史講座)


訳:石木隆治


 強力な組織力を持つヨルダンの《ムスリム同胞団》は、年末までに行われると予想される総選挙をボイコットすることを決定した。これは、選挙法が族長たちの支配する地域を優遇しているからであり、ヨルダンの真の改革になかなか腰をあげようとしない国王への批判の表明である。[フランス語版編集部]


 アンマンにも言論の自由が咲いた。ウェブデ地区で簡易食堂を営むナデールは、ありきたりの店主ではない。よく知られた舞台俳優だ。「この国の文化レベルもこのくらいになった。店でコシャリー[エジプトの大衆料理]を出しながら、芝居がやれるようになったんだ」。店内は活気づいている。出し物の対話劇に『やっとあなたたちのことが解るようになった!』というのがあるが、それはチュニジア前大統領、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーの演説をパロディ化したものだ。ヨルダンの国王アブドゥッラー2世も別の劇場でこの芝居を見たことがある。「コシャリーをご馳走してやれよ、そうすりゃ国王も俺たちのことが解るさ!」。周りは、こうナデールをはやし立てる。

「ヨルダン王国は、アブドゥッラーで始まり、アブドゥッラーで終るだろう」。ハーシム一族(注1)の政権を最も手厳しく批判する人々は、こう予言しておもしろがっていた。そうは言っても、いざ1999年の冬にフセイン国王が死去し、息子であるアブドゥッラー2世が紆余曲折の末にヨルダン国王に即位すると、彼らは黙ってそれを受け入れた。前述の言いまわしは、1951年に起きたアブドゥッラー1世暗殺事件に触れている。アブドゥッラー1世はヨルダン王国の創設者で、フセイン前国王の父(注2)である。「アラブの春」が起こり、この言い伝えがまるで不吉な予兆であるかように再び人々の話題にのぼっているが、ヨルダン社会は数10年も続く混乱状態の中にありながらも国としてのまとまりは維持していた。

 国王アブドゥッラー2世と国民との関係は最初から冷えきっていたと言わざるを得ない。国王即位直後から国民の目に映ったものといえば、英国式すぎる教育、大衆との距離、それに世界銀行総裁やアメリカ大統領張りの国民向け演説……それだけだった。口先だけ勇ましく、2003年のイラク戦争ではブッシュ大統領に歩調を合わせた結果、国民に近づこうとする国王自身の努力を結果的に台無しにしてしまった。「国王は決してわれわれ国民に言葉をかけようとはしなかった。われわれを通り越えてアメリカと話していた」と、国中で言われている。

「ヨルダン第一」「われわれはヨルダンそのもの」といった政府の御仕着せがましいスローガンも、国王に有利には作用していない。さらに、きわめて常軌を逸した噂が流れている。国王が賭け事に熱中し底知れぬ負債を抱えている、というのだ。真実にしろデマにしろ、そうした噂は人々の想像の世界で実際に影響力を持ってきている。

 にもかかわらず、不満の矛先は国王個人に向けられているわけではない。ヨルダン王国創設以来、歴史は繰り返されてきた。たとえば地域紛争や人口の激変、難民の激増である。1948年には、アラブ対イスラエルの第一次中東戦争があり、続いてヨルダン川西岸地区と東エルサレムがヨルダン王国へ併合された。1967年にはその領土をイスラエルに奪還され、何十万人ものパレスチナ難民が流入した。1990年から1991年にかけては、新たにイラクによるクウェート侵攻が起こり、湾岸戦争が勃発、クウェートから強制退去させられた何十万にも及ぶパレスチナ人の流入があった。そして2003年にはアメリカのイラク侵攻があり、さらに何十万ものイラク市民がヨルダンに辿り着いた。もちろん1970年から1971年にかけての、反ハーシム政権やパレスチナ抵抗運動グループによる「事件」もある(「ブラック・セプテンバー事件」(注3)のこと)。いずれの場合も同じような解決策が試みられた。上からは、欧米や湾岸諸国だけではなく国際支援団体を通してヨルダン王国の生き残りに必要な解決策が持ち込まれた。そして草の根的には、家族の連帯、共同体や近隣地域のネットワークを通し、新たに生じた諸問題の解決が試みられた。また社会契約も、ある所では住民グループの間で、また別の所では政府と社会との間で日々取り交わされた。


国際援助金の涸渇に加え、出稼ぎ先からの送金も途絶える

 現在こうしたテコ入れ策は尽きてしまっている。かつてフセイン国王は、国際援助資金を使いながら、民衆、特にパレスチナ人とヨルダン人の対立を利用しヨルダン南部の不満分子を押さえ込むことができたが、その資金は枯渇してしまった。湾岸近隣産油国の収入のおかげで、出稼ぎに行った人々の送金が可能となり、ヨルダン社会の大部分を占める人々――中でもパレスチナ人たち――を援助することができたが、それも底を尽きた。というのもアジア人出稼ぎ労働者がアラブ人に取って代わったからだ。特に水道・通信・電力部門における容赦ない民営化、そして国内の至る所に設けられた経済特区。これらが結果的に物価高騰をもたらし、より賃金の低い外国人労働者へと移行させたのである。2003年以来、天井知らずの不動産投資——その価格高騰は止まらない——は、とうとう中産階級を押しつぶしてしまった。そして首都を異常発達させ、郊外地域を荒廃させた。

 社会は弱体化した。「アラブの春」を待つまでもなく不満は広がり、批判の火の手があがった。1989年、マアーンで起きた民衆蜂起は全国に広がた。その結果、戒厳令が廃止され国および市町村の議会選挙が行われた。ここ数年、検閲制度があるにもかかわらず汚職事件がたびたび露見するのも、やはりこうした不満の表れである。最新の汚職事件 ——全体をハジャヤ族が共同所有していた同名の土地ハジャヤが政府に徴用され、「再投資しやすい」という理由で国王の個人名で登録されたという事件——は、政府を巻き込み、人々の怒りをかきたて続けている。

 ヨルダン南部でも、特にタフィーラとカラクとマアーンを結ぶ三角地帯はかつてハーシム政権が制圧した地域だが、今では同政権のアキレス腱となっている。ここでは《36部族連合》と《アラブ民族主義団》というふたつの主要グループが活動している。集会やデモが行われ、機動隊との衝突や不敬罪による投獄も起こっている……。《36部族連合》が主張する最大の要求は、国からのハジャヤの土地の返還である。それが彼らがディーワーン(王宮)で受けた冷遇へのお返しなのだ。「昨今ではたった1通の請願書を出すために部族の長が王宮で並ばねばならない。フセイン王の時代には、このような侮辱を受けることはなかった」と、タフィーラの活動家であるヤセル・ムハイセンは説明する。

 一方、《アラブ民族主義団》は社会問題や労働賃金の引き上げを組織のスローガンに、教員や郵便局員のストライキなどを実施している。新自由主義的政策に対抗し,死海のカリ鉱石会社の労働者たちが、カナダ企業に彼らの工場を売却されるのを阻止する活動を行っている。「アカバの非関税地域の設立によって我々は恩恵を被るはずだった。しかしそうはならなかったのです。工場は今ではケラクの住民にとって、軍隊と並び重要な雇用の受け皿になっているのに、会社側は工場を売り払おうとしているんだ。カナダ企業が我々住民のかわりにアジア人労働者を雇うのを、誰も止められなくなるだろう」と、弁護士で《アラブ民族主義団》のメンバーでもあるワダー氏は言う。

 もっと北の地域では、36部族の憤懣や一部のヨルダン人一族とハーシム家との根深い確執に加え、イスラム同胞団やパレスチナ人住民の影響が重くのしかかる。

 意外なことに住民の大多数がパレスチナ人である地域、とりわけ難民キャンプでは、人々は平静を保っている。「今度ばかりはヨルダン人同士の問題で、私たちには何の関係もないことです」と、ある女性が会話の中で簡潔に言ってのけた。彼らはただの観客であって、今起きている状況は彼らの問題ではないと言うのである。彼らは間近で注意深く、批判的に事態を見守っているが、起きることはただ受け入れるだけである。ヨルダン在住パレスチナ人は、チュニジアやエジプトで民衆が勝利したことをわがことのように実感しながら、シリア政府が行なっている弾圧にイスラエルがガザ地区に対して行なっている弾圧を重ねて見ている。「シリアの方がひどいです。バシャル・アサドは全うに生きている自国民を大量殺戮しているんですから」と憤慨するのはアブー・アナスだ。しかし兄(弟)のアブー・オマールは、この内戦の背後でアメリカの見えざる手が動いているのではないかと探っている。「どういうことなんだ? この革命で反政府勢力がカタールの支援やアメリカの意向を受けているとは……」。

 とはいえ、主要な政治組織と民衆の間にもある距離感が生じ始めている。シリアの民衆蜂起を巡り、パレスチナの政党ハマスの党首、ハーリド・マシャアル氏が方向転換したことについて人々は皮肉を言うことさえある。同氏は当初シリア政権への支持を表明していたが、ひとたびカタールを訪問するとシリアとの間に距離をおき、ムスリム同胞団の立場に歩調を合わせるようになった。そればかりでなく、マシャアル氏、カタールの密使、ヨルダン王アブドゥッラー2世の三者会談が持たれたが、それが2012年1月、同国王がワシントンを訪問した数日後だったことから、人々の間では、ヨルダン在住パレスチナ難民の最終居住地を決め、その資金をカタールに肩代わりしてもらうのではないかとの憶測が広まっている。「カタール首長とヨルダン国王に会ったあとシリアを経てガザに戻る、そんなハマスの党首にいったい何を期待できるというんだ」とアブー・オマールは問いかける。

 一方、《ムスリム同胞団》は大衆の不満を巧みにとらえ、重要な政治勢力としての地位を固めようとしているが、それは政府や諸部族との軋轢(実際に2011年12月、マフラク市でバニ・ハッサン部族との衝突が起きている)のみならず、他の野党勢力との摩擦をも起こさざるをえない。ハリル氏はジャーナリストで《アラブ民族団》に近い立場だが、憤って語る。「ムスリム同胞団は信用できない。民衆の要求を利用しようとしてその代弁者みたいなことを言っているが、後で違う方針を押し付けてくる。内務省前で抗議集会が開かれると、彼らも時を同じくしてシリア大使館前で集会を開く……。反体制運動を自分たちの手柄にしようとして、他の集会を妨害しているんだ。それがもしムスリム同胞団が政権をとるためだというのなら願い下げだ!」。アセムは40歳くらいの弁護士だが、状況に対し違った見解を持っている。「私はムスリム同胞団のことをよくわかっています。父がメンバーでしたから。ヨルダンにおけるその歴史は、他国とは異なります。彼らは常に権力と結びつき、権力も彼らに依存しているんです。ムスリム同胞団には国内外への影響力がありますが、リベラル諸派の野党グループにはそうした影響力はありません。それにムスリム同胞団だって妥協せざるを得ませんよ。もししくじったら失脚するでしょうから。いったい何が問題なんですか」。


何よりもまず、自己決定権を国民の手に

 だが、国民の間に広まった「アラブの春」への期待の高まりや将来についての数々の議論も、不安を払拭できないでいる。「立憲君主党」は、王制を脅かす大きな懸念について最もよく認識しているグループのようだ。つまり王制の解体という懸念である。ジャマルは3名の軍高官とともにグループ創設メンバーだ。彼は長年にわたって体制側との間にいくつもの紛争を起こしてきた。王国内を奔走し、あらゆるグループや部族長、国内外の有力政治関係者に面会し、イギリスの立憲君主制に倣った憲法改正への賛同を取り付けようとしている。イギリスの体制では政府閣僚を選ぶのは議会であって、国王ではない。「国を守るための解決策はほかにありません。国民に自らの命運を決定する権利を委譲すべきです。あとで別な問題が出てくるでしょうが、ほかのいずれの解決法も犠牲が大きすぎると思われます。ハーシム一族にもはや神通力はありません。それに国王は身辺からほとんどの親族を追い払ってしまったので、弟の誰かと入れ替わることもほとんど不可能でしょう……。王制を廃止して共和国に、と仰るのですか? 何のためにそんなことを? 王国に住んでいることで国民は安心できるんです。共和国で起きていることをご覧なさい。シリアで、イエメンで……」。

 さしあたって、国王はこの状況の深刻さを認識しているようには思えない。約束した改革をなかなか実施せず、首相を交替させる。それにあたってはいつも汚職事件を追及するつもりも能力もないとして前任首相を責めるが、そのような事件は政府も議会も法廷もたらい回しにしてきたものなのだ。彼は隣国のシリア政権の命運を横目で窺いつつ、事態を遅延させているのだ。そうする間にもガソリン価格や電気料金は高騰している。

 最初のデモ行進のときには参加者にコーヒーが振る舞われたが、それも終わった。以後は、いつもと変わらぬ弾圧である。2011年3月25日にはアンマンで機動隊が抗議デモの参加者を棍棒で殴りつけ、病院にまで彼らを追跡した。同年11月にラムサで暴徒化した人々に対し、厳しい鎮圧が行われた。以来、警備体制はさらに強化された。夥しい数の憲兵隊が暴動鎮圧のため動員されたことが思い出される。去る5月には、追加部隊による軍事演習が(アメリカほか15カ国の軍隊と合同で)行われ、「イーガー・ライオン」と名付けられた。また、軍部と国家情報当局との間に根深い対立があるという噂もある。情報機関は変革に対し、好意的だというのだ。こうした噂が流れに流れている……。それでもまだ、改革の約束という「アメ」、また弾圧という「ムチ」、このどちらも効かなくなくなっていることが解らないのだろうか。




(1) ハーシム家はヒジャーズ[アラビア半島西部]出身の一族。第一次世界大戦後、イギリス主導でトランス・ヨルダンとイラクに創設された王国の王位についた。
(2) 「父」は筆者の誤りで正しくは「祖父」。[訳注]
(3) 「ブラック・セプテンバー事件」。ヨルダン国内には大量のパレスチナ難民を抱え、そればかりでなくヨルダン在住PLO はイスラエルに対するゲリラ闘争、テロなどの行為から世界の非難を浴びるようになったため、ヨルダン政府は1970年9月、国内からPLO を追放した。[訳注]
       

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2012年08月号)