「ジャーナリストの新聞」の悲しき顛末

『ル・モンド』20年の変遷

セルジュ・アリミ

(ル・モンド・ディプロマティーク総編集長)

 訳:川端聡子


 政財界の圧力に屈することのない報道を。多くの知識人・ジャーナリストの論争を引き起こしてきたこのテーマは、現在もリアリティを残している。自主編集権を次第に侵蝕されていった『ル・モンド』紙の前社長エリック・フォトリーノの証言(注1)から、その闘いがいかに厳しいものであるかが浮き彫りになる。[フランス語版編集部]

フランスでもっとも権威ある日刊紙のひとつ『ル・モンド』の前社長、エリック・フォトリーノ。彼は、経済ジャーナリストであると同時に売れっ子小説家であり、さらにはアフリカ情勢を伝えるレポーター、厳しい資金難の渦中にある同社のマネージャーも務めた。よくある話ではない。資金難がその彼を退陣に追い込んだが、そう仕向けたのは、ラ・ヴィ=ル・モンド・グループの新株主である。『ル・モンド』の編集部はそれに対し、抗議することも、また抗議しようとしてみることさえできなかった。1944年のフランス解放以降、自主権を保持してきた報道会社の譲渡をあらかじめ認めざるをえなくなっていたのである。フォトリーノは沈鬱な筆致で自著を締めくくっている。「私は意気揚揚としてル・モンド社に入社した。とても誇らしかった。日々、記者としての仕事に追われた。そして、65年の歴史をもつユートピアであり、記者会が決定権を持つジャーナリズムという理想の場所、ジャーナリストが自主管理する新聞の野心的な試みに終止符を打たなくてはならなかった。(中略)私は『ル・モンド』を売りとばした社長として名を残すだろう」(注2)。

ほぼ10年間にわたり『ル・モンド』は結束した3人の変わり者の采配の下、部数を伸ばした。1994年に選任されたジャン=マリ・コロンバーニ社長、エドウィ・プレネル編集主幹(後に編集局長)、そしてアラン・マンク監査長である。同紙は次第に 「一報道グループに“10億ユーロ”の価値があれば難攻不落になる、と発言したコロンバーニの成長志向」に巻き込まれていく。『ル・モンド』が借金を重ねるようになると、コロンバーニは少数エリートの派閥に組しない者をやっきになって排除した。派閥メンバーには、かつて首相を務めたエドゥアール・バラデュールから哲学者のベルナール=アンリ・レヴィ(BHL)までが顔を並べる。フォトリーノはこれに屈する。「当時、コロンバーニの社長命令を受けたエドウィからは、BHLのアルジェリア、コソヴォ、またアフリカやアジアでの紛争の長編ルポ掲載の要請が再三あった。私にとって、編集部にそれを納得させるのは決して容易ではなかった」

『ル・モンド』のベルナール=アンリ・レヴィ(BHL)に対する傾倒ぶり、これと手を組んだ『ル・モンド・デ・リーヴル』(注3)の執拗な行動は、3巨頭が同紙を去るまで続いた。彼らは「『ル・モンド』が好戦的で鼻持ちならないイメージを獲得するのに貢献したが、当然ながら辛辣な批判を受けた。『ル・モンド』は人間狩りに乗り出した。善悪を振り分け、一方を不意打ちしては他方をえこひいきするといった具合だ」。「えこひいき」の例として、フォトリーノは、ある内輪のランチの様子を詳細に伝えている。2006年にコロンバーニ社長がセッティングした、当時内務大臣を務めていたニコラ・サルコジとの会食である。ふたりのジャーナリスト以外に、マンクもその場に長居していた。マンクは未来のフランス大統領の本の校正ゲラを読み返していた……。

2003年、ピエール・ペアンとフィリップ・コーエンの共著『ル・モンド紙の裏面』(注4)がこの「指標的日刊紙」の権威を揺るがした。フォトリーノも以下のように認めている。この本には「信じがたい不備があるにもかかわらず、『ル・モンド』の読者に与えたインパクトは強かった。彼らは『ル・モンド』の傲慢さにうんざりしつつあった。隠されたバラデュール支持、型にはまった批判。こうしたものが、ドミニク・ボディス事件(注5)においてはもっともひどい、偏見に満ちたかたちで浮き彫りになったのである」。

フォトリーノの本を読み進むと、何人かの人物のプロフィールが辛辣な表現で描かれている。コロンバーニ、彼は2007年の大統領選でセゴレーヌ・ロワイヤル女史への投票を呼びかけながらもサルコジ氏支持の選挙活動を行なった。プレネルは「自らをジャーナリズム界の生ける神話だと信じるほどの誇大妄想を抱いている。(中略)排斥は彼の支配の手段であり、集団的いじめがその不快なやり口である」。特にマンクについては、「彼はもう知っているのではないかと人が言うことを何ひとつ知りはしなかった。彼はもう考えているのではないかと人が考えることを何も考えてはいなかった。彼が知っていたのは、ある一点についてだけ。(中略)誰もアラン・マンクの友達にはならない。あやつり人形遣いの子分にされるのが関の山だ」。

フォトリーノは黄金時代を経験したジャーナリストとしての経験を、闊達な語り口で語ってはいるが――影響力と資金力があり、長期取材が行われ、今よりも少し教養のあった仕事仲間がグーグル検索に頼らず資料収集できた時代のことだ――、世間が注目するのは、彼が編集責任者および経営責任者として赤字を抱え崖っぷちの『ル・モンド』をどう舵取りしたか、である。その話には非常に引き込まれる。

ふたつの教訓的なエピソードが書かれている。2009年5月、彼は『ル・モンド』紙の社説でサルコジ大統領の傲慢かつ過激な言動に苦言を呈した。すると、新株主から次々と苦情があった。サルコジ大統領の友人であるヴァンサン・ボロレ氏(注6)が、無料配布紙『ディレクト・マタン』を『ル・モンド』の印刷機で刷ることを打ち切ると通告した。また大統領の友人、アルノー・ラガルデール氏(注7)の所有する『ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙は、印刷所を変えると通達してきた。そして最後は『レゼコー』紙である。所有者は同じく大統領の友人であるベルナール・アルノー氏(注8)だ。彼は、過剰能力を抱える『ル・モンド』の自社印刷所との契約を破棄すると伝えてきたのである。フォトリーノは「権力は、ル・モンドを経営破綻に追い込もうとして経済的手段を講じた」と要約する。

銀行家たちも、経営者たち同様に報復的態度を示した。追い詰められた『ル・モンド』は複数の株主に支援を求めたが、昔からの融資元であるBNPパリバが急に援助の約束を反古にした。フォトリーノはBNPパリバ会長のミシェル・ペブロー氏と談笑していたにも拘らず、その1時間後に電話1本で、支援打ち切りを告げられたのだ。ペブロー氏は個人的に心を決めていたが(それはフォトリーノにとっては好ましくない決断であった)、交渉外の話で茶を濁していたのである……。

その後ペブロー氏は、援助を拒んだ動機を語っている。『ル・モンド』の報道に気を悪くしたというのがその理由だ。フランス式フィクサー資本主義で、BNPパリバが主要な役割を演じていると伝える記事に、複数のCAC40企業(注9)の経営コンサルティング・メンバーであるペブロー氏の名が挙っていたのである。

フォトリーノは後になって、彼が編集上犯したリスクについて思いをめぐらせる。「明らかにタイミングが悪かった。社の継続を模索していた時に、解決策を一部握る彼らを刺激してしまった。(中略)記事が彼らの気に障ったことで、『ル・モンド』は経営破綻に追い込まれたのだろうか? いずれにしろ、引き返そうとしても後の祭りだった」。

遅すぎたのだ……。新しい“メセナ”は現れず、ル・モンドは売却された(注10)。その直後、フォトリーノは新株主らによって解任された。フォトリーノ自身が導入した株主によってである。彼はこの最後のエピソードに関して、言葉少なながらも以下の教訓を引き出している。「『ル・モンド』は名士連中との交流を持った。その結果、同紙の命運は政財界のボスたちの財布と善意に左右されることになった」。「幸福なグローバル化」の擁護者であったはずの『ル・モンド』紙が、グローバル化の餌食となったのである。


(1)Eric Fottorino, Mon tour du ≪Monde≫, Gallimard, Paris, 2012, 22,50 euros.(日本未刊行)。
(2)同上、534頁。
(3)『ル・モンド』の別紙、書評付録。[訳注]
(4)La Face cachee du ≪ Monde ≫(日本未刊行)。
(5)ドミニク・ボディスは、トゥールーズの元市長。1989〜97年にかけトゥールーズで起こった連続強姦殺人事件において、事件関係者である娼婦が犯人の組織したSMパーティーに市長が参加していたと証言。メディアはこれを書き立てたが、その後、犯人の供述により事実無根であったことが判明した。[訳注]
(6)トマ・デルトンプ「アフリカの帝王ヴァンサン・ボロレ」(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年4月号)参照。
(7)出版・通信・小売りなどを傘下に持つフランスの複合企業、ラガルデールSCAの社長兼代表取締役。[訳注]
(8)モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン取締役会長兼CEO。数々の高級ブランドを手中に収め、「ファッション界の帝王」ともあだ名される。[訳注]
(9)Cotation Assistee en Continu 40の略。ユーロネクスト・パリ(旧パリ証券取引所)に上場されている株式銘柄の時価総額上位40銘柄。[訳注]
(10)Pierre Rimbert, ≪Comment “Le Monde” fut vendu≫, Le Monde diplomatique, juin 2011.

 

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年7月号)