世界に浸透するアントニオ・グラムシの思想

ラズミグ・クシェヤン

   

( パリ第4大学ソルボンヌ校、社会学准教授
   『アントニオ・グラムシ著作選』『機動戦と陣地戦』
    La Fabrique、2012年、パリ、の編者)

 訳:木下治人


支配的イデオロギーから労働者階級を守り、権力を手にする…。彼の分析は引用されることは多いのだが、しかし、きちんと読まれることはまれで、場合によっては誤読されることも多い。1930年代初頭、ファシスト政権下で監獄に幽閉されたときに発展したグラムシの思想は、目覚しい復活を遂げている。彼の著述はヨーロッパを発祥の地としてラテンアメリカ経由でインドにまで広まり、豊かな批判的思想を作り上げている。[フランス語版編集部]

 

                    

なぜなのか?1917年、ロシアでは労働者の革命が実現したのに、他の国々へ波及することはなかった。じつに不思議なのは、20世紀初頭、ヨーロッパ各国の革命運動がすべて敗北したことだ。当時革命情勢にあったドイツやハンガリーでも革命は成功しなかったし、イタリアでも例外ではなかった。1919年から20年にかけ、イタリア北部では「トリーノ工場評議会」の労働者が数か月にわたって工場を占拠したが、革命に結びつかなかった。なぜなのか?

アントニオ・グラムシの有名な『獄中ノート』(1) は、このような問題意識がもとになっている。若きグラムシの革命家としてのデビューは、トリーノでの工場自主管理闘争だった。20世紀を代表する政治学の『ノート』は、革命運動の後退期を経た数年後に書かれたもので、ヨーロッパ革命の失敗や1920〜30年代の労働運動の挫折を教訓に、根本的な原因を究明しようとするものであった。そして、「来るべきもうひとつの世界」を信じ、そこに行き着く道を模索することをあきらめないすべての人々に、没後75年たった今日でも訴え続けている。

『ノート』は、不思議なことに、「来るべきもうひとつの世界」を望まない人々にも影響を与えている。「たしかに、グラムシの分析は正しいと思います。『権力は思想によって勝ち取られる』のですから。それにしても、わたしのような右派といわれている者が、グラムシの闘いを評価するのは、はじめてのことですよ。」サルコジ氏は、2007年の大統領選第一回投票日の数日前に、このように発言していた (2) 。

 極右(サルコジ氏の側近の何人かはそうだと言われている ― 特にパトリック・ビュイッソン氏 ―)が『ノート』の作者を引き合いにだすやり口は、実に古い手だ。このように、グラムシは《新右翼》グループにとって重要な理論的拠り所となっていて、彼らの中心的理論家であるアラン・ド・ブヌワ氏は、自分たちの文化革命戦略を《グラムシ右派》と位置づけている (3) 。こうした右翼的逸脱もあることはあるが、それでもなおグラムシは20世紀を通じて、世界中の革命勢力による刺激に満ちた再評価を受けていることには変わりない。

 グラムシは、革命がロシアで成功し西欧で失敗した理由について、国家や「市民社会」のあり方が違うからだと主張している。帝政ロシアでは、権力の大部分は国家のもとに集中し、一方、政党・組合・会社・ジャーナリズム・協同組合などで構成される「市民社会」は、ほとんど発達していなかった。この状況下で権力を取るには、ボリシェヴィキがしたように、何よりもまず、軍隊、行政機関、警察、裁判所などの国家機関を奪わなければならなかった。「市民社会」は萌芽状態だったために、国家権力を握っている者は誰でも市民社会を従わせることができた。国家が奪取されると、次には困難な問題が立ちふさがる。内戦の勃発、農業・工業生産の再開、労働者階級と農民階級間の微妙な対立…。

 一方、西欧では「市民社会」が発達し自立している。産業革命によって、「市民社会」は次第に生産の要として自己を形成し、権力のかなりな部分を持つようになる。それゆえ、国家機関を奪取するだけでは不十分で、さらに市民社会を支配する必要がある。重要なことは、国家を征服するのと同じ方法では「市民社会」は征服できないということだ。それは、西欧の社会変革がロシアとは違うことを予想させる。当時、西欧の革命が不可能だったというわけではない。いや大いに可能だった。しかし西欧の革命は、長期間の「陣地戦」として構えなければならないということである。

ペロン主義から《サバルタン研究》へ

 グラムシは、ロシア革命に変わらぬ信頼を置いていると主張している。レーニンを賛美し、『ノート』の中で、しばしば敬意を示している。しかし、実際には、ロシア革命に忠実であるがゆえに、これとは異なったやり方を採用する必要があると考えていた。グラムシが「ヘゲモニー」論を主張する背景には、このような考えがある。彼の主張はこうだ。これからの階級闘争には、文化の領域を含めなければならない。また革命の達成にはサバルタン階級の「同意」という問題も考えなければならない。「力」と「同意」は、現代国家の二つの基礎であり、ヘゲモニーにおける二つの柱である。「同意」が成立しない場合 ― たとえば2011年のアラブ世界の民主化要求運動(アラブの春)に見られるように ― 情況は現政権の転覆へと収斂する。

 『獄中ノート』第一版は、イタリア共産党(PCI)書記長、パルミーロ・トリアッティが責任者となり、1940年代の終わりに出版される。トリアッティは、1960年代初めまで、亡き同志グラムシの著作を世に広めようと努力し続けた。『ノート』は、この時代、革命を目指す世界のすべての人々にとって、合意事項の役割を果たす。それは、10月革命への信頼をもとに、時にはロシアとは非常にかけ離れているように思える政治・社会状況に適合した革命を構想することである。この結果、グラムシ思想が世界に広まり、世界の隅々にグラムシ学の潮流が起きている。こうしたことから、『ノート』は、世界的規模に広まった第一級の批判理論のひとつだと言える。

グラムシの思想は、まったくばらばらの三つの潮流となって広く影響を与えている。20世紀半ばには、アルゼンチンがグラムシ思想の発展地となり、その後ブラジル、メキシコあるいはチリなどの国でも『ノート』の研究が盛んになる。グラムシが、アルゼンチンの人々に、急速にしかも広く受け入れられたのは、イタリアからの移民が多いからである。また、グラムシ思想の中心概念である「ヘゲモニー」、「カエサル主義」、「受動革命」が、ペロン主義というアルゼンチン特有の政治状況を理解するのに役立っているからでもある。

 これらグラムシ思想の概念は、より一般的には、南米に登場した「進歩主義的」あるいは「開発主義的」軍事体制を分析する時に使われる。アルゼンチンのフアン・ドミンゴ・ペロン体制だけでなく、メキシコのラサロ・カルデナスやブラジルのジェトゥリオ・ヴァルガス軍事体制などである。これらの政体は、近代化路線を取り、革命や王政復古をめざす政治体制ではなく、20世紀、第三世界の国々でよく見られる。近代化は進むが、階級間の根本的な批判を受けない。

「受動革命」という概念は、グラムシが『ノート』のなかで、19世紀のイタリア国民国家の成り立ちを検討し、練り上げたものだ。まさに、こうしたタイプのどっちつかずの政治プロセスを言う。これら擬似革命は、「カエサル」的人物、つまり大衆と直接関係を結ぶカリスマ的リーダーによって統治される場合が往々にしてあるが、ラテンアメリカでは、このような例は2世紀にわたって事欠かない。

 ラテンアメリカでは、ホゼ・アリコ、フアン・カルロス・ポルタンティエーロ、カルロス・ネルソン・コーティニョあるいは、エルネスト・ラクラウのような思想家たちが登場し、『ノート』の革新的な解釈を行い、影響はラテンアメリカ以外のところに広がりを見せるまでになっている (4) 。グラムシ自身が政治闘争に参加したように、この思想家たちの後を継いだ多くの人たちが、1960年から70年代にかけてアメリカ大陸で燃え盛る革命闘争できわめて重要な役割をはたした。

圧制に苦しむ人々のための政党

 1960年代初めには、イタリア知識人グラムシの思想がラテンアメリカの対極にあるインドに到達する。グラムシは、ポストコロニアル研究の基軸となる。この研究潮流の創始者、パレスチナ人のエドワード・サイードは、オリエンタリズム批判、すなわち西洋世界で流通する「オリエント」という言葉に表象されるものに対する抗議の姿勢を表明するにあたって、グラムシを援用している(5) 。1970年代のインドでは、サイードだけでなく、エリック・ホブズボウやエドワード・パルマー・トムスンなど英国のマルクス主義歴史家たちの影響を受け、ポストコロニアル研究を専門に取り組む分野が登場する。それは、サバルタン研究(サバルタン・スタディーズ)といわれる分野である。

この学問潮流の主な研究者は、ラナジット・グーハ、パリタ・シャテルジェ (6) 、ディペシュ・チャクラバルティたちである。「サバルタン」という名はグラムシから直接拝借している呼び名で、『ノート』25の表題で実際に使われている言葉である。その正確な表題は、「歴史の周辺に生きる人々」(サバルタン社会集団の歴史)である。「歴史の周辺に生きる人々」とは、「公式の」歴史から除外されているが、しかしいったん活動を開始すれば、社会秩序を一変させることができる社会集団のことである。

 グラムシ思想は、20世紀初頭のイタリアから、1970年代のインドに波及したのだが、その理由は、両国の社会構造が類似しているからだ。特に、両国とも農民階級の人口が多い。グラムシは、投獄直前の1926年、「南部問題に関するいくつかのテーマ」という文章の中で、南北二つの階級が同盟を結ぶことを奨励している。ひとつは、数の上では少数でありながら、経済的及び政治的に力をつけてきたイタリア北部の労働者階級であり、もうひとつは、当時まだ労働者階級より数が多かったイタリア南部の農民階級である。インドの「サバルタニスト」は、イタリア同様、インドにおいても両階級が同盟を結ぶことを強く勧めることとなった。

 第三の流れは、『ノート』の概念を利用して地政学を構想するひとびとである。彼らは、《 ネオ・グラムシ 》理論を国際関係に適用する。創設者は、カナダ人のロバート・コックスである。改革的マルクス主義者であるとともに、ジュネーブの国際労働機関(ILO)で研究所幹部を務めたことがある。キース・ファン・デル・ピール、ヘンク・オバービークそしてスティーヴン・ギルもこの潮流に属する研究者だ。彼らは、ヨーロッパの経済構造を分析し、現在すすんでいるヨーロッパの経済危機を理解しようとする (7) 。その主張によると、ヨーロッパ経済危機の発生は、たとえば、欧州住民の積極的「同意」を求めようという構想が欠落していたことに一因があるからだと見る。というのも、「ヘゲモニー」が、一国あるいは一大陸全体にわたって永続的に続くためには、支配者階級は被支配者階級にたいして、支配階級のヘゲモニーが少なくとも一部分は被支配階級の利益になると説得しなければならないからだ。

さらに、20世紀初頭には、ヨーロッパとアメリカのエリートの相互浸透が進む動きがみられる。そのことは、ヨーロッパの経済構造が、多くの場合、アメリカ帝国の利益に依存していたこと、自立した政策を立てることに成功しなかったことを意味する。

 グラムシの生涯は、「圧制に苦しむ人々のための政党」を作ることに費やされた。その目的は、イタリア国民のためであると同時に、第三インターナショナルでの活動を通じて全世界の労働者の解放をめざすものであった。グラムシは「理論と実践」によって社会を変えようとしていた。しかし残念なことに、今日の批判的知識人たちは、「理論」だけにとどまっているように見えるのだが…。


(1) Antonio Gramsci, Cahiers de prison, Gallimard, coll. ≪ Bibliotheque de philosophie ≫, Paris, 1978-1992, 5 tomes.
(2) Le Figaro, Paris, 17 avril 2007.
(3) Cf. Pierre-Andre Taguieff ≪ Origines et metamorphoses de la nouvelle droite ≫, Vingtieme Siecle, n°40, Paris, 1993
(4) Cf. Rau1 Burgos, Los gramscianos argentmos, Siglo XXI, Buenos Aires, 2004.
(5) Edward Said, L'Orientalisme. L'Orient cree par l'Occident, Seuil, coll. ≪ La couleur des idees ≫, Paris, 2005 (1re ed. : 1978).
(6) Lire Partha Chatterjee, ≪ Controverses en Inde autour de l'histoire coloniale ≫, Le Monde diplomatique , fevrier 2006.
(7) Cf. par exemple Honk Overbeek et Bastiaan Van Apeldoom (sous la dir. de), Neoliberalism in Crisis, Palgrave Macmillan, Basingstoke, 2012.

(8) コラムの説明(グラムシの略歴)。
《 革命に身をささげたグラムシ 》

 アントニオ・グラムシは、1891年サルディーニャ島に生まれ、かなり貧しい家庭で育つ。1911年、奨学金を得てトリノ大学言語学科に入学する。そこで、パルミーロ・トリアッティ、アンジェロ・タスカやウンベルト・テッラチーニらと知り合いになる。初め彼らは、イタリア社会党(PSl)党員として活動した後、1919年、労働者の新聞『オルディネ・ヌオーヴォ』(新しい秩序)を創刊する。1921年、グラムシはイタリア共産党の結成に加わり中央委員会委員になり、1924年イタリア共産党書記長に選ばれる。同年4月、下院議員に選出される。グラムシが議会で小さな声で演説する時、ベニート・ムッソリーニは、この不屈の反対者の言葉をひとことも聞き逃さないよう、耳をそばだてていたという。
 グラムシは、1926年ローマで逮捕され、1928年には20年の禁固刑に処せられる。ファシストの検事に「この頭脳を、20年間機能させてはならない」とまで言わせ、このような判決が下されたのだ。当時の政府がいかにこの敵対者を怖がっているのかをよく表している。1929年、グラムシは監獄で手紙を書く権利を獲得するが、1935年になると彼の健康は次第に悪化し取返しのつかないほどになる。1937年4月27日、脳出血で死亡したが、ムッソリーニ体制化の監獄で十年間の苦難の日々を過ごした後のことであった。後に残されたのは一連のノートであり、これは20世紀後半のマルクス主義に決定的な変化をもたらした。
                         

   ラズミグ・クシェヤン

 

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年7月号)