国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の三方面の闘い

アウグスタ・コンチリア

(ジャーナリスト)

訳:石木隆治


1951年以来、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は世界各地に静かに展開し、無数の難民、無国籍者や国内難民といった戦争や天災の被害者の救援活動を行っている。 最近では、リビア内戦や「アフリカの角」地帯(エリトリア、ジブチ、ソマリア)での政治的緊張による多くの難民に対して救援活動を行った。UNHCRはこのような緊急援助策に甘んずることなく、中長期的な解決策を模索しているが、先進国は難民に無関心であるため進展しないのが現状だ。[フランス語版編集部]  


世界には5,000万人の故郷喪失者がいる。この数字は地球上にいかに緊張が広がっているかを示すものであるが、政治的な理由もしくは自然災害が原因で住処を捨てざるを得なかった人々の数である。2011年には、3,500万人以上がUNHCR(難民高等弁務官事務所)の援助を受けた。その中でとりわけ目立つのは難民の約1,040万人で(注1)、うち700万人以上が解決の見通しのないまま長期の国外避難を強いられている。それから国内避難者については、2011年に25カ国1,470万人がUNHCRの援助を受けた。最後に、難民保護申請者の数だが、これは83万7,500人だった。


1950年12月14日に設立されたUNHCRの最初の任務、つまり難民の保護と援助は、今日ではいっそう重要になってきている。避難者の8割が開発途上国で発生し(注2)、そうした国では彼らに必要な支援を提供できなくなっているからだ。第二次世界大戦直後は、UNHCRは特にヨーロッパで活動し、当事者である欧州の先進諸国から支援を受けていた。その予算の大部分は諸国からの毎年の寄付でまかなわれ、寄付はUNHCRの要請に応える形で行なわれてきたが、その要請は年々強まり、綿密な数字で要求されるようになった。1951年に30万ドルだった年間予算は、2011年には18億ドルにまで増えた。18億ドルが過去60年間で最高額であっても、需要に応えるにはまだ不十分なのだ。

柔軟な運用ぶり

UNHCRがまず第一に確認しなければならないのは、各国が常に国境を開放状態にしておくことであり、それは「世界人権宣言」に謳われている往来の自由を保障するためである。そして第二には、人々が最低限必要とするもの(食糧、医療、住居、教育)を、直接的に、あるいは内外組織の助けを借りて供給することである。本来はいわゆる難民(祖国を追われた人々)と無国籍者だけが国際的保護を受ける権利を持っていた。このことは1951年のジュネーヴ条約で、ついで1954年のニューヨーク条約で謳われている(注3)。


しかし1990年代以降、国内避難者(IDP)の数が国外避難者の数を上回ってきた。それ故に、たび重なる人道危機に直面した国連は、UNHCRの活動範囲の拡大を明示した。すなわち、国内避難者の保護が、国外避難者および無国籍者の支援に続いてUNHCRの第三の任務となった。UNHCRは、経済的要因と環境的要因の入り混じった「複合難民」の問題にもいっそう現実的に対応しなければならなくなった。 しかし、環境的要因による難民の認定基準に関しては、最高に柔軟な定義が行われている。「可能であれば、協力します」とUNHCRフランス代表 フィリップ・ルクレール氏は説明する、「われわれはパキスタン地震やフィリピン洪水のあと援助に駆けつけましたが、この二つのケースに共通しているのは、 過去に難民を受け入れてくれた国々とへの恩返しということです」


 1992年に、国連は「クラスター」(「連結した」の意)と呼ばれる手段を思いつき、「機関間常設委員会」(IASC)を設立した。この委員会によって、いくつものUNHCR事務所・関連機関が共同で活動できるようになり、人導問題調整部(OCHA)の監督のもと、UNHCR事務所から非政府組織(NGO)へ呼びかけができるようになった。2011年にUNHCRがこの枠組みで実行したのが、難民への21の援助活動だった。その中でも最も重要な活動が、コンゴ共和国(RDC)、ソマリア、イエメンで実践された。

1994年のルワンダを繰り返さない

 現地に6,500名の常駐職員を擁するUNHCRがやるべきことは、ただ目先の事態に対処するのみならず、長期的解決方法を見出だすことだ。UNHCRは、たとえばパキスタンとイランに在留している270万人のアフガニスタン人の援助を行なっているが、そこは30年以上にわたって大規模な紛争が繰り返されている。


 しかし2012年になって、世界の注目を集めているのはサヘル地域(注4)だ。5月初旬、マリでは13万人が国内で難民となり、14万人がモーリタニア、ブルキナファソ、ニジェールに分散して国外難民(注5)となった。自らも貧しい国々が、悲嘆にくれる隣国人たちを「寛大にも迎え入れ」たのだと、UNHCRでは力説する。 スーダンと南スーダンに分裂した2国間の緊張、そしてスーダン南部の南コルドファン州とブルー・ナイル州から南スーダンに押し寄せた10万人の難民の世話にUNHCRは忙殺されている。スーダン在住の南スーダン人の居住調査を行ない、ことに新たに独立した南スーダンへの帰還を望む10万7,000人についての身元確認がその任務である。また、エチオピアは、すでに流入したソマリア人で溢れているが、スーダン発の新たな難民3万2,000人も受け入れている。


 2011年には、人道上の問題が続発した。コート・ジヴォワールでは大統領選挙の結果を巡って混乱が生じた(リベリアおよびガーナへ流出した難民20万人、コート・ジヴォワール国内の避難民50万人)。また、リビアの内戦では多くの人々が路上に放り出された。彼らの大多数は外国人労働者であり、1994年のルワンダの虐殺以降最大となる120万人の難民流出を引き起こすこととなった。2011年9月21日以降、UNHCRはアフリカ人労働者約74万人の本国帰還に必要な物資を集めるプロジェクトに直ちに着手した。この壮大なプロジェクトは、国際移住機関(IOM)と移民送り出し国の協力によって実現した。たとえば、チュニジアおよびエジプトに逃れた13万3千人を超えるリビア人のために難民受け入れ地域が設けられた。また、故国への帰還が不可能な多数のサブサハラ・アフリカ人(特にソマリア人やエリトリア人)についても同様である。UNHCRは、彼ら難民のため「包括的再定住のための連携活動」のイニシアティヴをとった。海を越えてヨーロッパにたどり着こうとしたリビア難民はたった2万人であり、――120万人というリビアを離れた人の総数からすれば――この数はごくわずかなのである。

ソマリア人集団避難による大混迷

 一方、「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ大陸東端部の国々は、2011年に約25万人のソマリア難民を受け入れた。彼らの流入は、2004年12月の津波のような自然災害、飢饉で既に苦しんでいた地域にきわめて深刻な人道危機をもたらした。ほぼ30年にわたり、ソマリアは武装民兵が先導する内戦により荒廃状態にある。武装民兵たちは2000年代にイスラム勢力シャバブと合流。この内紛は、隣国のエチオピア軍の介入と国連平和維持部隊の関与によって国際問題の様相を呈している。さらには、シャバブはケニアでもテロ行為に及んでおり、それに対し、2011年10月16日にナイロビのケニア政府はシャバブ制圧のための軍をソマリア領内に送り込む決断を下した。これはケニア建国以来初めてのことである。


 何週間も歩き続け疲れきった着の身着のままのソマリア人が毎日約1,300人、数ヶ月間にわたって、飢餓や暴力から逃れて国境を越えている。彼らが逃れるのは隣国、とくにエチオピアである。


 

2011年10月には、総計91万7000人がUNHCRの難民認定を受けている。一部の人々は、20年間難民状態のままであり、あるいは国連の難民キャンプ――特にケニアのキャンプ――で生まれた者もいる。「推定で140万人のソマリア国民が祖国を追われており、これはソマリア人の4分の1が帰る場所を失っているということなのです」と、UNHCR国際保護委員長のヴォルカー・ターク氏は嘆く。「想像を絶する最悪の状況でした。戦争に加えて、干ばつ、気候変動、飢饉が次々と襲ってきて…」。とりわけ、エチオピアのキャンプは農業にほとんど適さない地域に設営されていたため、自給自足の生活が期待できなかった。自給自足は、難民が外部の援助にあまり頼らず、少しでもましなテント生活を送れるよう、UNHCRが絶えず求めている目標なのだが…。


 ケニアには、かくも多くの難民(60万。うち50万がソマリア人)が流入し、現地住民の外国人嫌いを助長した。中にはキャンプの閉鎖や難民の強制退去を要請して憚らない政治家もいた。UNHCRはこういった緊張に配慮しながら最大限に努力し、難民と同じ援助、たとえば、水場へのアクセス、医療、初等教育の提供を近隣住民にも拡大した。「難民を受け入れる地域社会への支援は、最近、優先課題になっています」とUNHCRアフリカ地域事務所所長のジョージ・オコトゥ=オボ氏は説明し、「国際連帯が自分たちにも(入れる?)実りをもたらすということがわかれば、受け入れ国は国境を開放するのです」と語る。

受け入れ国へも支援を与える

 2011年にアフリカ大陸では緊急事態が山積したので、UNHCRは、確保していた人的・物的資源の大部分を使い果たしてしまい、平和が回復した国々の約30万人のアフリカ人の自主帰国が遅れることになった(特にアンゴラ人13万1,000人、リベリア人6万人、ルワンダ人10万人)。


 地元社会にどうにか溶け込み、なかでも労働許可証を取得できるのは平均して全体のわずか1割である。ただ、タンザニアは例外とみなされている。ダル・エス=サラームのタンザニア政府は、実際に2011年11月、史上3度目となるが、国内に住む難民の帰化を認めた。とりわけ、民族的迫害を受けてアフリカ五大湖沼地域から逃げて来ていた16万2,000人のブルンジ人が帰化できることになった。しかし、この寛大な措置には条件がついていた。すなわち、当該難民は当局によって国内の様々な場所に再配置されるというもので、それは「ブルンジの飛び地」がタンザニアにできないようにするためだった。適切な説明と準備のための広報活動が足りなかったために、帰化難民を受け入れることになった地元では、扇動政治家たちに唆されて受け入れに反対した。難民たちの一部は経済的に自立し現地農業の発展に貢献もしていたが、それ以来、全ての活動をやめて運命のなりゆきを待つことにした。「彼らはまたもや法的・政治的保護の埒外に置かれて、身動きの取れない状況に追いやられ、最後には国際援助に依存するようになるでしょう」とオコトゥ=オボ氏は嘆く。


 イランでは都市部に住む100万ほどの難民がイラン政府から労働許可を与えられ、その結果、住む場所を得て、医療、教育も受けられるようになった、とUNHCRは歓迎している。  アジアでは、1,060万ほどの国外、国内の難民が存在して、UNHCRが世話をしている人々のおおよそ3分の1をなしているが、多くの地域でさまざまな連帯活動、地域への統合が見られる。マレーシアとインドはジュネーヴ条約には調印していないが、この2カ国が最大の都市部への難民受け入れ国である。ミャンマーのアラカン国北部からの多くのイスラム系難民ばかりでなく、おおよそ1万1,000名にのぼるアチェ部族(インドネシア)の難民(2004年の津波に襲われた)がマレーシアに迎えられた。マレーシアはすでに後者に対して、国内での経済活動を許可している。

選択的な連帯活動

 

イスラム協力機構(OIC)の参加国だけで、世界の半分の難民を引き受けている。参加国はジュネーヴ条約に調印していないが、2012年5月に初めてUNHCRと共同でトルクメニスタンで閣僚級会議が開かれた。シリア問題とそこで暮らすイラク難民、並びにアフガニスタン問題とそこで暮らす570万の難民問題(大部分が長期にそこで暮らしている)が議題にのぼった。「2010年の自主的帰国の動きはここ20年の間でもっとも弱かった。ここ20年における帰国の平均数は年あたり100万を超えていたが、この年故郷に帰ることを選択した難民は、わずか20万人だ」とトゥルク氏は嘆いている。


 帰国の見通しをまったく持てない700万の難民にとっては、避難地域への同化、第3国への定住だけが唯一可能な方策である。(10万8,000人のブータン人のうち)4万5,000に対してはこの方策が実行された。彼らは久しい以前からネパールに避難していたが、2011年に第3国定住プログラムが実行されたのだ。難民の定住を受け入れる国の数は増大しているが(25カ国)(注6)、これでもUNHCRが発した172件の定住要請の半分も満たすことができないでいる。  ヨーロッパは難民受け入れの条件を次第に厳しくしているが(2011年にはリビアからの難民のわずか2パーセントがヨーロッパで受け入れられたのみである)、一方サハラ以南のアフリカでは難民受け入れ要求の非常な増大に直面している。2011年には10万件以上が南アフリカ共和国に提出された(同時期にフランスに出されたのは5万)。前年には南アに18万件が出されている(入国を許可されたのは、1万83名)。プレトリアの南ア政府は、難民申請がなされた場合の正確な審査基準を示しているが、移民法のなかのある条項を厳密に適用している点から見て、難民をいっそう制限する意志は固いように思われる。この条項は南ア国境に辿り着く前に最後に通過した国へと申請者を送還することを可能とするものである。こうした政策はロバート・ムガベ氏の崩れかけた体制から逃れてきた数百万のジンバブエ人には適用されない。しかしこの政策はアフリカの角地帯、あるいは中央アフリカからの移民を阻止している。南ア政府は移民受け入れ政策の強硬化の理由を国内における外国人排斥の高まりのせいにしている。実際、2009年には首都プレトリアのスラム街が炎上し、数百名の犠牲者が出た。


 経済的・社会的危機による不安感、そして環境悪化、人口増大、武器密輸のような今世紀独自の危機を前にして、社会の隅に追いやられた人たちはーーその中には難民、定住申請者、無国籍者も含まれるーーたやすく扇動政治家や赤新聞の餌食になってしまう。  いつも同じような熱意を込めて連帯感が表明されるとは限らないことは明らかである。トスカーナ地方の湾で座礁した《コスタ・コンコルディア》号に対するマスコミの扱いは、地中海南岸からやってきた名もなき人々を満載したボロ船の難破記事と著しい対照をなしていたとUNHCRでは嘆く。実際、ヨーロッパにおける議論の中心は難民送り出し国に対する支援問題ではなく、地中海を命がけで渡ってくる移民たちをいかに阻止するかなのである。



(1) 国連近東地域パレスチナ難民支援活動事務所(1949年創設)によって支援されたほぼ500万のパレスチナ難民を除く。
(2 )≪ Rapport statistique mondial 2010 ≫, Haut-Commissariat des Nations unies pour les refugies, Geneve, 20 juin 2011.
(3)Convention relative au statut des refugies et convention sur la reduction des cas d’apatride du 28 septembre 1954, www2.ohchr.org
(4)サヘル地域。サハラ砂漠の南に位置する地域。[訳注]
(5) Lire Philippe Leymarie, ≪ Comment le Sahel est devenu une poudriere ≫, Le Monde diplomatique, avril 2012.
(6) アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、ブルガリア、カナダ、チリ、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フィンランド、フランス、ハンガリー、アイルランド、アイスランド、日本、ノルウェー、ニュージーランド、パラグアイ、オランダ、ポルトガル、ルーマニア、イギリス、スウェーデン、チェコ共和国、ウルグアイ
       

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年6月号)