メッサリ・ハッジ、アルジェリア独立闘争の忘れられた父

アラン・リュシオ(Alain Ruscio)

歴史家

訳:川端聡子


 

アルジェリア独立闘争の歴史において、今なお残る疑問がある。それは、なぜ建国の父であるアフメド・メスリことメッサリ・ハッジがその精神的な息子たちから裏切られ、攻撃されるに至ったのか、である。ハッジは、植民地体制の改良ではなく、独立を勝ち取ることを目標に掲げた最初の人であった。[フランス語版編集部]

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チュニジアのハビブ・ブルギバと、モロッコのムハンマド・ベン・ユーセフ(ムハンマド五世)、この二人の名は、人々の記憶の中でともに独立戦争の勝利に結びついている。一方、アルジェリアのメッサリ・ハッジの名は常に闇の中に押しやられてきた。ここ10〜20年の間、この闇は薄らいでいない。

「北アフリカの星」(ENA)は、1926年の春にフランスの共産主義者のイニシアティヴのもとで結成された。当時、フランス本土の共産主義者はこうした「植民地の労働者たち」の組織化に多大なる関心を寄せていたのである。フランス共産党(PCF)の植民地委員会の責任者はアブデルカーデル・ハッジ・アリで、彼を支える若い活動家の一人がメッサリ・ハッジであった(1)。1927年2月、メッサリ青年――1898年、アルジェリア北西部トレムセン生まれ――はブリュッセルにおける反帝国主義・反植民地主義世界大会で「北アフリカの星」の綱領の提示を任される。このとき初めて、彼が国際的な会議の席でフランス領アルジェリア、そしてチュニジアとモロッコ(2国ともフランスの被保護領であった)の独立を強く要求したのだ。彼はこう呼びかけた。「マグレブ3国のうち1国の独立成功の可能性は、他2国の民族解放運動による支援なくしてはありえない」(2)。

「北アフリカの星」は支持者拡大に成功し、主としてフランス本土のアルジェリア移民を中心に広まっていった。ところが1920年代末、フランス共産党との連携が弱まる。メッサリと幹部たちはフランス共産党との対決が起こらぬように努めた。フランス共産党は民族独立闘争との連携をたんに党の戦略上の道具としか捉えていなかった。彼らの戦略は――1936年に人民戦線政権(3)が成立してから――それまでの国際共産主義運動から国内向けのものとなっていたのである。その時点までは、お互いを利用する関係であったのだ。

人民戦線政権の発足によって不協和音が顕在化した。両者の目指すところの違いが明白となったのだ。フランスの左派は、植民地問題について緩やかな改革主義に留まっていた。たとえば、(1936年に首相レオン・ブルムと元アルジェリア総督モーリス・ヴィオレットが練り上げた)消極的なブルム=ヴィオレット法案である。この法案の趣旨は2万5000ないし3万人のアルジェリア人に、ムスリム個人身分法(4)を放棄せずともフランス市民権を認めるというものだったが、国会に上程されることはなかったのだ。1939年、フランス共産党はヨーロッパ人とアラブ人、ベルベル人が一緒になった「連合国家」の構想を打ち立てるが、これがいかに不適切なものかは一目瞭然だった。「北アフリカの星」の声明にぶれはなかった。それは、アルジェリア人民の拠り所とすべきは、まず何よりも民族の力である、というものである。「兄弟よ、今ここで胸をなでおろすな。これで運動が終わったなどと信じるな。これから始まるのだ」、こうメッサリは呼びかけた。

このころから「北アフリカの星」に反対する動きが密かに始まり、やがて表面化した。1937年1月26日、レオン・ブルム内閣が破壊活動防止法の適応により「北アフリカの星」を解散させる。そしてPCFのアルジェリア問題担当であったロベール・ドゥロシュは、同年2月12日付の『ユマニテ』紙においてこの措置を支持したのだ。亀裂は決定的なものとなった。

メッサリ・ハッジと同志たちは、アルジェリア人民党(PPA)を設立。PPAは「北アフリカの星」とは異なり、アルジェリアにも拡がっていった。しかし、「解散組織の再建」を理由に起訴され、1937年8月27日に投獄されてしまう。いかにも植民地然とした訴訟の後、彼にとって新生活が始まった。メッサリは37年間――1937年から1974年に没するまで――のうち、22年は獄中か、でなければ居住地監視処分の身で生活を送ることとなる。この措置は、4体制――終盤を迎えつつあった第三共和制、ヴィシー政権、第四共和制、第五共和制――に渡る政権の意向によるものであった。

第二次世界大戦の間、ナチス・ドイツは被植民地国のナショナリストたちに言い寄ったが、メッサリはその申し出に一切応じなかった。彼が道徳的に高い影響力をもつ所以である。やがてナチスは降伏し、奇しくも同じ日に忌まわしい出来事が起こる。1945年5月8日のコンスタンティーヌの悲劇(5)である。連合軍の勝利を機に行われたアルジェリア人たちの独立要求デモが、暴力的に鎮圧されたのだ(6)。この殺戮(死者数千人)は、アルジェリアのナショナリズム運動を突き動かした。若い世代の闘士たちにとっては、この瞬間が事実上のアルジェリア戦争の始まりであり、武力闘争の準備が始まった。メッサリ――当時、アルジェリアにはもういなかった(7)――は人民の政治意識の向上を目ざすという古典的な構想にとどまった。彼にとっては武装蜂起の呼びかけなど、「愚かな極左主義」の「こけおどし」にすぎなかったのだ(8)。

この食い違いは、1954年の決裂へと至っていく。アルジェリアのナショナリズム運動は分裂してしまう。PPAの創設者および党首であるメッサリの権威は批判にさらされた――PPAは1946年にフランス当局によって解散させられた後、「民主的自由の勝利のための運動」MTLDへと移行していた――。メッサリ派と中央委員会派――彼らが中央委員会で多数派を占めていたため、こう呼ばれた――の間に亀裂が生じたのである。

元「特別組織」(OS、将来の武装闘争を準備するための地下組織(9))のメンバーから成る独立少数部隊が、メッサリ派と中央委員会派を出し抜こうとしていた。彼らは武装蜂起の具体的な準備に入ることを主張した。この計画は1954年3月23日に発表され、「統一と行動のための革命委員会」(CRUA)が誕生する(10)。それに先立ち、同年2月にメッサリはCRUA幹部9人の一人であるムスタファ・ベン・ブーライードから合流の打診を受けていた。しかし、彼は軽蔑をもって「青二才」の計画を拒絶したのだった。しかしながら周知の通り、メッサリ自身も同年11月15日前後に武装蜂起――どのような考えに基づいたかはわからないが――を検討していたことが判明している。

このように、ふたつの分派間で短距離レースが始まった。両者は同じ理想をもちながら袂を分かち、それほど違わぬ戦略を掲げながらも計画実行の時期について折り合わなかったのである。おそらく、克服できない違いは何もなかった。ところが、ふたつの要因がこのレースを翻弄する。フランスでは、事情に通じていたと思われるフランソワ・ミッテラン内務相がこの年の9月にメッサリをレ・サーブル=ドロンヌ(11)へと移送し、軟禁することを決定する。メッサリは外部との連絡を断たれた。そして、CRUAが後方支援基地を置いていたエジプトでは、1952年7月23日に権力を掌握したガマル・アブドゥル・ナセルがメッサリの排斥を画策する。メッサリよりもアハメド・ベン・ベラを始めとする若いナショナリストたちのほうが扱いやすいと踏んでのことであった――ベン・ベラは、1962年に独立したアルジェリアの初代大統領となる――。

1954年11月1日、武装蜂起が始まる。新たな組織名「民族解放戦線」(FLN)が、過去との決別を表明していた。メッサリも、即座に「アルジェリア民族運動」(MNA)を結成する。これはすぐにFLNの対抗勢力と見られるようになった。そして、この独立闘争における極めて凄惨な出来事の一つが起こった。1956年になってから数ヶ月にわたり繰り広げられた、独立派同士の壮絶な内ゲバである。どの歴史的文献も伝えているが、最初に仕掛けたのはFLNで、数十年来メッサリ派が優勢に保ってきた主導権奪取のためであった。彼らはアルジェリアにおけるMNAの支持基盤と覚しき場所を次々と破壊した。たとえば、メルーザ村で1957年5月に315名の村民が殺された。フランスはこの虐殺事件をプロパガンダに大いに利用した。

年老いたメッサリは疲弊し孤立していたが、にもかかわらずフランス本土では、40年間の活動によりメッサリ支持者が移民コミュニティ内で圧倒的な多数派を占めた。1957年、FLNは、自分たちの革命理念を押し通すためMNA幹部たちの暗殺を画策。しばらくのためらいの後、メッサリは反撃を開始した。その呼びかけの言葉は厳かなものだった(「同胞がみな同じ目的のため闘っているのに、仲間同士の殺戮と暴力が日々拡大している」1957年9月1日(12))。歴史学者のジルベール・メニエの推定によると、アルジェリア独立戦争が内包するこの内戦――時として、フランス植民地部隊が戦いを煽動した――で、フランス本土における犠牲者は4000人に上る(13)。犠牲者は3つのグループに分けられ、その数はほぼ等しい。FLNの手にかかったMNAの犠牲者、MNAの手にかかったFLNの犠牲者、そして両軍の命令に従わなかったアルジェリア人である(14)。

メッサリ派は1957年にアルジェリアで敗北し、1959年始めから1960年にかけてフランス本土においても敗北。戦いは、MNA陣営が戦闘員を失って終結した。FLNはそのころすでに主導権を確立していたのである。1959年、ド・ゴール政権によって追放を解かれた時、打ちひしがれたメッサリはパリ近郊のシャンティイーの小さな家に篭もっていた。おそらくはフランス政府からの秘密の庇護のもと余生を送ることになった――同胞に残虐な弾圧を行っていたフランス政府の庇護を受けるとは、これ以上ない屈辱だが――。

メッサリが生涯貫いた政治思想の2本の柱とは、どのようなものであったのか。それは、独立を勝ち得ることと、闘争中も、また自由奪回の後もマグレブ3国の人々の連帯を維持することだった。1962年、彼は当然にも苦々しい思いを抱くこととなった。確かにアルジェリアは独立を勝ち取ったが、彼は祖国から引き離された。彼の夢見たアルジェリアは、強力な労働運動に支えられ、移民たちの豊かな政治経験と政治闘争に裏打ちされたものであった。しかし、それは実現しなかった。メッサリは、軍と官僚層が早々に国家を牛耳るであろうことを予感していた。予感は彼の目前で現実となり、1965年6月19日、ウアリ・ブーメディエンの軍事クーデターによってさらに強固なものとなっていく。そして書きかけの公式史は新たな支配者の称揚に終始し、メッサリの思想が独立運動の礎として貢献したことを認めようとはしなかった。

メッサリ・ハッジが夢見たのはマグレブ3国が一つになることだった。この夢も叶わなかった。独立を果たしたハビブ・ブルギバのチュニジア、ムハンマド・ベン・ユーセフのモロッコ、そしてベン・ベラのアルジェリアは別々の道をあゆみ、時として互いに対立することさえあった。1974年6月3日、メッサリ・ハッジ、永眠。彼が再びアルジェリアの土を踏むことはなかったのである。

(1)Messali Hadj, Memoires, 1898-1938『回想録 1898-1938』, texte etabli par Renaud de Rochebrune, Jean-Claude Lattes, Paris, 1982 ; Benjamin Stora, Messali Hadj『メッサリ・ハッジ』, Le Sycomore, Paris 1982.

(2)L'Ikdam, octobre 1927, cite par Mahfoud Kaddache, Histoire du nationalisme algerien『アルジェリア独立運動史』, vol. I, Editions Paris-Mediterranee/EDIF, Paris-Alger, 2003.

(3)「反ファシズム」を掲げたフランス社会党、急進社会党、フランス共産党から成る連合政権。1936年に発足し、社会党のレオン・ブルムが首相に就任。1937年にスペイン内戦への対応を巡って各党の意見が対立、内閣総辞職となり崩壊した。[訳注]

(4)イスラムの教えに従って行われる婚姻、離婚、相続など私的領域での習慣。

(5)ドイツ降伏の日、戦勝を記念してデモが許可されていたが、アルジェリア東北部のコンスタンティーヌやセティフにおいて警察が介入したことから暴動に発展し、多くの死者が出た。アルジェリア人犠牲者の正確な数は特定できていない。[訳注]

(6)Lire Mohammed Harbi, " La guerre a commence a Setif "(「戦いはセティフから始まった」), in Maniere de voir, " Algerie, 1954-2011. Histoire et esperances ", fevrier-mars 2012.

(7)メッサリは、1945年4月サハラ砂漠へ、同30日にはブラザヴィルへ移送された。[訳注]

(8)Benjamin Stora, op. cit.

(9)OSはMTLD内で組織された少数精鋭の秘密組織で、その存在が警察に露見した1950年に解体されるが、その後も地下活動を行っていた。[訳注]

(10)MTLDの中央委員会派と元OSメンバーが合流し、CRUAとなった。[訳注]

(11)フランスの大西洋岸、ペイ=ド=ロワール地方のヴァンデ県に属する町。[訳注]

(12)Benjamin Stora, op. cit.

(13)Gilbert Meynier, Histoire interieure du FLN『FLNの歴史』, Fayard, Paris, 2002.

(14)Paul-Marie Atger, " Le Mouvement national algerien a Lyon. Vie, mort et renaissance pendant la guerre d'Algerie "(「リヨンのアルジェリア民族運動 アルジェリア独立戦争時における生と死、そして再生」), Vingtieme siecle, Revue d'Histoire, n° 104, octobre-decembre 2009

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2012年6月号)