世界に広がる「怒れる者たち」

ラファエル・ケンプ(RaphaelKempf), 特派員
ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳:土田修


 

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ブロードウェイ50番街は、マンハッタン南部に多い摩天楼のひとつだ。ウォール街から数百メートルの位置にある投資会社や企業弁護士事務所が集中する地区だ。数月前にこのビルの13階に入居した人たちはこの高層ビルの雰囲気をちょっと変えた。

「氏名、職業、訪問目的は?」。あごひげをはやしたTシャツ姿の若い男性が、パソコンからあまり目を挙げることなく記者に質問した。男性は「ウォール街を占拠せよ!」運動の事務所の受付係だ。一日中、テーブルの向こう側に座り、日常的な多数の人の出入りを記録している。訪問者は番号と「占拠オフィス」の文字が記されたバッジを身に着ける。このネーミングは人を錯覚させてしまう。確かにこの場所は占拠されているが、すべては合法的に行われている。2011年10月末以来、ある気前のいい「匿名の寄付者」が自由に使わせているからだ。

そこには複数の部屋や会議室、公開スペースがあり、壁には、2011年9月17日にマンハッタン南部の広場ズコッティパークで占拠運動が始まって以来、製作されたポスターが貼られている(1)。皆、ここへ作業に来て次のデモを準備し、報道や現地の非営利団体とのコンタクトを取っている。ある者は毎日ここにいて「ウォール街を占拠せよ!」運動のためフルタイムで働いていると言っている。彼らはあらゆる上下関係や指導者を否定する運動の並はずれた最前線なのだろうか。

 

西洋史の博士課程の院生であるマーク・レイ君は、ウォール街占拠運動を≪伴走者として≫組織した一人だという。彼は批判する。「米国のジャーナリストたちは、このオフィ スを司令部と書きたがった。彼らはニュース・ストーリーをわかりやすくするため常に指導者や司令部を探している」。とはいえ「ここが正式なオフィスというわけではないのです。他の場所と同じような仕事場所にすぎません」と付け加えた。彼自身、あまりここを使ってはいないと付け加えた。

 リーダーを持たないこと、そして中央集権的組織、ガチガチの組織体制の拒否は、すべてのウォール街占拠運動の担い手たちの主張のエッセンスであり、ロンドンやマドリードの運動にも引き継がれた。この運動にとって現場で新しい連帯活動を実践することこそが重要なのだ。キャンプ、占拠、全体集会、ワーキング・グループの運営方法は、少なくとも彼らが主張する要求や要望と同じくらいに重要である。闘争によって得られる象徴的・物理的な利益を独占しようとする新たな官僚主義の出現を避けることが重要なのだ。共同決定を行うにあたって他よりもっと発言力あるグループや個人の出現を抑えるために、「怒れる者たち」と他の占拠者たちは早くから、集会やキャンプでの日常生活の中で尊重すべき、一連の手続きや手法を作り上げた。

 11月の終わりごろ、ロンドンで、60歳代のアンナはフィンスブリー・パークのキャンプの案内テントで当直に当たっていた。セントポール寺院の広側のこの広場は、≪ロンドン証券取引所を占拠せよ!≫運動によって占拠された2番目の場所だ。「本質的なことはスペインや米国でも同じですよ。われわれは皆が合意によって決断を下すということだ。キャンプや運動の全体の名において語る者はいないのです」と彼女は話す。

 スペインの≪怒れる者たち≫は、「大衆集会の活性化にとって即効性のある指針」を決めた。たとえば、「個人的な感情や高ぶりを集会に持ち込まないために静かなジェスチュアーで語ることが重要である。われわれは、緊迫した場面や包囲された場面など、どのような状況でも笑顔の価値を忘れないこと」(2)などだ。これらの規則全体が常に守られるかは不明だ。自分たちで周到に用意した規則が時には厄介な状況の存在を物語っている。

求められているのは合意か効果か?

 ニューヨークではあるワーキング・グループが全体集会の役割についての規則の見直しに取り組んだ。2011年12月7日、30人ほどの人たちが、開放されているドイツ銀行の中庭で議論を行った。ウォール街60番地のこの場所で占拠者たちはよく会合を開いている。司会は会議中に発言する権利があるのかないのか、司会は存在感を完全に消すべきかどうかについて知ることが問題になった。この問題はやっかいだ。司会は中心的な立場を悪用するべきではないが、集会が議論を進行さ、結論に至る必要があるからだ。まるまる数時間の議論をへても、この問題は決着がつきそうにない。

 効果的な対話を保証する上で使われているテクニックの一つが米国に固有の手法だ。デモ参加者はメガホンを使えないので、「人間拡声器」を発明した(3)。ある人物がグループや群衆に向かって話したい場合、ワンフレーズを発すると、それが発言者を取り囲む人々の声によって復唱され、その声は次々に遠くの人によって復唱される。発言者のスピーチは同心円状に広がり伝わっていく。そうした手法が機能しているのには驚かされる。

 この手法はとても簡単で使いやすく、マイクの前で怖じ気づく必要もない。ニューヨークの貧困地区から家を追い立てられた黒人女性は、2000人のデモ参加者の前で自分の境遇を語った。その数日前には、瀟洒なリンカーンセンター――ニューヨークのオペラハウス――前で芸術的政治パフォーマンスが催され、その内容は「人間拡声器」によって全員に伝えられた。観衆たちはデモに合流し、その中の一人が「オペラは大衆のものだ、無料にしろ」と叫んだ。この手法は偶発的なデモの最中に、取るべき方針を決めるときにも使われる。この手段によっても意見の不一致や小競り合いが避けられなくても、他人よりももっとこの方法を用いて目だちたがる人がいたとしても、発言者すべてが効果的に話すメリットを与える。メガホンやマイクが到着するのを待つ必要もない。占拠者たちにとってこの手法は使う喜びがある。

 

チリでは最終学年の学生たちがピノチェト独裁政権崩壊後、最大となる抗議運動を起こした。この運動はさまざまな側面から見て成功したとものとみなされている。教育の民営化に反対する学生たちの基本的な要求は政府によって拒絶されたのだが、彼らは公的部門についてこの問題を取り上げることができただけではなく、国内の財貨の分配という途方もない問題を取り上げたからだ。

学生たちは、集会を開催するためのマニュアルをつくる余裕がなかった。運営方法に対して異議を唱える声が上がったにもかかわらず、ここの運動はヒエラルキー化され、政府と交渉し記者会見を開き、メディアを意識したカリスマ的な指導者によって運営されていた。

 共産主義者の若い学生、カミーラ・ヴァレッジョはカリスマ指導者の先頭に立っていた。2011年にチリ大学学生連盟(FECH)議長だったカミーラは、1年の間、デモ、交渉、記者会見の先頭に立っていた。彼女は街頭やメディアで広範な共感を集めた。彼女の名声はピノチェトの遺産であるネオリベラリズムや民営化教育システムへの批判を世論に浸透させた。

 とはいえ、彼女の得た名声が、諸大学で討議されたさまざまな議論を覆い隠している。デモへの動員が広範な広がりを持つことができたのは、ヴァレッジョさんのカリスマ性のお陰であるばかりでなく、彼女が行動一本槍の活動家だったからだ。12月の大学年度の終わりに、2人の法学生、アンドレとルッチョが報告書を作成した。2人は、キャンパスでの全体集会で下された議決に従わない指導者たちの決定を批判した。

 チリ・カトリック大学学生連盟(FEUC)の2011年の議長でエンジニアの学生であるジョルジオ・ジャクソン君は、この運動の主要人物の一人だった。この24歳の若者と行きあった通行人は、感動して彼に握手を求め、彼にお礼を言った。彼はこの突然の名声に満足しているようで、目に見える指導者が果たす重要性を強調する。「ここではリーダーを持つべきなんです。皆に話すことのできる誰かが必要なんだ。この年、カミーラがいなかったなら運動はここまで拡大しなかったでしょう。彼女は優れた指導者です。彼女は皆にとって身近な存在で、皆が彼女を信頼しました。彼女は大衆と運動との間の絆を作ったのです。指導者とは、明確で教育的な方法で思想を伝えることのできる者のことです。それが重要なんだ。私は集会だけでそうした効果をつくりだせるとは思わない。与えられた機会に誰かが話し、他の誰かが続く…。物事は単純な方法からは生まれない。指導者たちの役割はそこにある。彼らはメッセージを単純化するのです」

 チリの運動にはウォール街占拠運動よりも明確な目標がたくさんあったことは事実だ。だから有効打を放つにはふさわしいやり方だった。それだから、聞こえているのは指導者の声なのに、全学生の声のように聞こえてしまうのだ。これとは反対に、スペインの「怒れる者たち」やウォール街占拠運動にあってはこのロジックは逆転していた。可能な限り排他的ではなく平等主義的な運動を辛抱強く作ることが問題だった。だが、「社会から疎外された人々の声」を含むばかりでなく、こうした人々を尊重しながら、すべての人々を参加させるというこの目標は実現可能なのだろうか?

両手で数えられる黒人の数

 ウォール街占拠運動の中でも、12月1日にニューヨーク・オペラハウス前で行われたデモ行動は芸術と政治、身体パフォーマンスを一体化したものだった。全体集会はこの日、マハトマ・ガンディーの生涯にインスピレーションを受けたフィリップ・グラスのオペラ『サティアグラハ』の公演後に開かれることになっていた。この日の全体集会には運動を支持したオペラの作曲家も出席した。全体集会開催は、オキュパイ運動を手荒く抑圧したニューヨーク市が同時に、非暴力抗議運動を題材にしたオペラを上演するという矛盾を突くものだった。全体集会は警察官の監視下で開催され、遊歩道から一歩でも前へ進んだ者は誰でも連行された。ア全体集会の司会進行は繰り返し全員に発言する権利があるのだと力説した。「われわれの集会には進歩的なルールがあります。最初に話す者が一番力を持っているわけではない。最初に話す人たちは社会から疎外されてきた人々です」

 厳寒のニューヨークの夜、全体集会は何時間も続けられ、誰もが自分の境遇について語り、ウォール街占拠運動を支持する理由を語った。しかしながら、その夜、オペラハウスの前では、社会から疎外された人々の声を聞くことはほとんどできなかったが、一流の大学を卒業した後、膨大な借金(学資ローン)を抱え途方に暮れている学生や、昇級を上司に認めさせることのできない合唱団員、数百ドルのオペラのチケットが買って『サティアグラハ』を聴くことができない若い音楽愛好者の声を聞くことはできた。

 ウォール街占拠運動にとって、マイノリティと「疎外された人々」を参加させることは、それが運動にとって試練になっている。エリック・リチャードソンは自らを「中流階級」出身であると言っている。彼は作曲について勉強した後、人生の度重なる偶然によって楽な暮らしができるようになり、薬物に手を出した。その結果、刑務所に入り、社会復帰支援のNGOやスクワット運動(4)を知った。昨年夏、彼はブロンクス地区の空きビルで生活していたが、ウォール街占拠運動が始まった9月にズコッティパークへ足を運んだ。そしてそこにいることだけで「大きな喜び」を感じたと語る。ただ彼はこうも言っている。「私は典型的な占拠者とはいえません。私はマイノリティの一つに属しいるが、マイノリティは一人もいなかったからだ。黒人の数も両手で数えられるくらいでした」

 他の証言者によると、この見立ては必ずしも当たっているとはいえない。マニッサ・マハラワルさんは判断が二つに分かれていたと話す。一つはズコッティパークで「予想以上に多くの人種の人がいた」のを見たという喜びであり、もう一つは「総会を掌握し宣言を発したのは白人だった」という集会報告だ(5)。

「お金の要求なんてとんでもない!」

 リチャードソンさんはこの現象を彼なりに描写している。「大ざっぱに言って二つのキャンプがあった。一方はきれいなテントでニュースやメディア向けのものです。もう一方は、調理場の向こうにありそうなテント、黒人、ラテン系の人々のためのテントだ。夜、人々はイスの上で眠った。一種の人種的な隔離だ。もちろん意図的なものではないが、ズコッティパークにははっきり『東』と『西』があったんだ。私は二つのグループに対して役目があったのでそれに気が付いたのです」

 ズコッティパークから排除された後、リチャードソンさんは数十人で占拠したマンハッタン北部の教会で寝泊まりした。それから彼は仲間と一緒にニューアークでの占拠を思いついた。ニュージャージーの遠い郊外に当たるこの町はマンハッタンから電車で30分くらいだ。マンハッタンよりずっと貧しい人たちがたくさん住んでおり、マイノリティもたくさんいた。「ニューアークの占拠者はズコッティの『西』からやって来た人たちです。この町は彼らの住んでいた町と似ていた。ここでわれわれは、新たな運動を構築するためマイノリティの住民グループとの接触を図ったんです。その週までブルックリンでのウォール街占拠運動では果たせなかったことです」とリチャードソンさんは語る(6)。

 ニューアーク占拠運動は確かに精彩がないように見える。12月、明らかに社会から疎外された人々によって占拠されたテントが最大で2ダースほどあった。ブロードウェイ50番地に比べて、占拠者たちの中には高等教育を受けた者が少なかった。だが彼らはキャンプを盛りたてようと必死だった。彼らはウォール街占拠運動センターとコンタクトを取る必要があった。あるジャーナリストが大いに驚いたことに、彼らはマンハッタンでの全体集会に参加するため彼に5ドルの電車賃を貸してくれと言ったのだ。

 

ウォール街占拠運動にはかなり資金がある。運動が多くの人の共感を得たことから、寄付もたくさん集まった。ズコッティパークの現場では直接、現金の寄付が集まった。ロンドン証券取引所の占拠運動でも通りがかりの人が案内テントに入り、数十ポンドを寄付する姿もあった。寄付は効果的な募金システムのお陰で通常、オンラインで賄われた。10月末、オンラインで発表された総計ではウォール街占拠運動には39万9305.62ドルが集まった。ピート・デュトロさんは「会計」委員会の責任者の一人で、さまざまなグループ間の資金配分を担当している。ブロードウェイ50番地のオフィスで知り合った彼は、例えば情報関係の機材や乗車券を買うのに必要なお金を1日100ドルずつ各グループに渡しているという。この資金は逮捕者の裁判費用や米国中の占拠運動の支援にも使われている。

 これとは反対に「15M」運動(2011年5月15日にスタートしたことからその名が付いた)のスペインの「怒れる者たち」は、お金の受け取りを厳しく拒否している。「お金を要求するなんてわれわれにとってはびっくりする行為です」とスペインATTAC議長のガルシア・サルディヴァルは憤懣をぶちまける。「(金集めはしないが)はっきりした目的のための資金なら手に入れることはある。だが、皆は代償を求めずに時間やエネルギーを使っているわけです。それに何よりお金をくれる人々に対する警戒心もある」。結局、寄付はすべて現物で受けている。この運動に積極的に参加しようと、運動の初期のころマドリードにやって来た若いペドロ・アコスタさんは現在、「15Mニュース」という新聞の発行に携わっている。彼は「運動を支える考えはもの事のやり方を含めてすべてを変えることなんです」と言い切る。

 資金不足のため「15Mニュース」は一か所で印刷する方法がとれない。ニュースはネット上でPDF版として発行され、それをボランティアたちが印刷し配布している。この新聞をより広範囲に配付する方法があれば、目的達成には効果があるはずなのだが。アコスタさんは語る。「15Mニュース発行の目的は、マスメディア報道への対抗軸をつくることにあります。われわれはマスメディアが伝える情報とは反対に真実を伝えようとしているのです。15Mの活動を報告し、各委員会が提案する内容を書き続けています。運動についての情報を流し、大衆の新聞を立ち上げ、今までと違ったジャーナリズムを構想することが重要なのです」

 運動家たちが自分たちで情報発信する必要性を感じているのは、マスメディアに対する不信感があるからだ。会見した「怒れる人たち」や占拠者たちの大部分は心よく話してくれたが、他の人たちは自分たちの主張をゆがめて報道するのではないかと、ジャーナリストたちを信用することにためらいや恐れを感じている。スペインでは「15M」で活動するさまざまなメンバーは会見の申し入れを常に断ってきた。ニューヨークでは会見を取り付けるのに、まとめ役数人とメールを数十回やり取りする必要があった。ジャーナリストは取材計画や質問項目、身上書まで求められた。ブロードウェイ50番地で何人かの占拠者たちはジャーナリストが占拠オフィスにとどまることを拒否した。現場を訪問するには、「紹介者」の保証や合意を取り付けた書面の申請書を提出する必要があった。

 そういうわけで、大きな声を上げるため運動の中で大量の出版物が刊行されていることはよく理解できる。『占拠されたウォールストリート・ジャーナル』の編集長、マイケル・レビタンはこの新聞の誕生についてこう話す。「ズコッティパークに私は占拠第2週目に来たんです。誰かがジャーナルを作ろうと提案しました。自分たちのことを説明し運動の顔とするとともに、自分たち自身のストーリーをつくるためです。マスメディアは信用できなかったので、われわれの手で占拠運動を取材することにしました。最初からここにはクリス・ヘッジやナオミ・クラインら素晴らしいジャーナリストがいたんだ」

 正式な全体集会とは無関係に集まった寄付のお陰で、大判8ページの第1号ジャーナルは2万部印刷された。レヴィタンによると、第5号は25万部刷られ、スペインでは翻訳版も複数出回った。このジャーナルは不定期出版ながら、米国左翼系の有名な新聞をはるかに凌駕しており、活動家の出版物としてはプロ意識を感じさせる驚くべき出来栄えの記事を提供しており、たとえばオークランドでのデモ行動自体への批判にも紙面を割いていた(7)。

漫画、ルポ、政治理論

 この独立機関紙と並んで、米国では『ボストン・オキュパイアー(Boston Occupier)』や『ワシントン占拠ポスト(The Occupied Washington Post)』など数々の新聞が誕生した。『TIDAL−占拠の理論と占拠の戦略(TIDAL ? Occupy theory, occupy strategy)』のように、より理論的な雑誌もあり、ジュディット・バトラーやガヤトリ・スピバクの原稿を掲載している。また『占拠せよ!一つのOWS(Occupy ! An OWS-inspired gazette)』は、占拠運動の実態を非常に入念に資料によって裏付けている。『占拠コミック(Occupy Comix)』はというと「99パーセントの人々の物語」(8)をイラストで伝えている。

 だが、もっと資料による裏付けが十分とられ、文章が練り上げられ、定期的に出版されているのは、おそらくロンドンの新聞だ。「私のテントに来たら私の名刺をあげるよ」。フィンスブリー・パークで知り合ったマチュー・マイアットさんはこう言った。彼は『ロンドン占拠タイムズ(The Occupied Times of London)』の報道カメラマンだ。運動を取材するためロンドンに来たが、キャンプに残り、気がつくと運動に参加して、ごく自然に報道写真を撮っていた。ロンドンでも新聞は正式な全体集会から独立しており、小グループでタイミング良く発行することが可能になっている。

 同紙は10月終わりから5月初めまでに13号を出版した。最新号は20ページあった。この新聞は、ロンドンの占拠運動の状況にとどまらず、世界中のあちこちで起きている占拠を題材にしている。クロスワードパズルも掲載している。しかし重要なのは、各号とも「大論争」を提起していることだ。2012年1月20日の紙面には次のような記事が掲載されていた。「ウォール街占拠運動は、経済・社会・環境の正義という基本原則に基づいている。ある者は体制の転覆を望んでおり、他の者はどちらかというと大規模な改革を志向している。今週のテーマはこれだ。革命が必要か?それとも制度改革の道を歩むべきか?」


(1)これらのポスターはhttp://occuprint.orgで。
(2) Cite par Eduardo Romanos, ≪ Les indignes et la democratie des mouvements sociaux ≫, 18 novembre 2011, Laviedesidees.fr エドアルド・ロマノス『怒れる者と社会的運動の民主主義』からの引用。
(3)この手法は20世紀初頭のフランスで、数千人が集まる政治集会で既に使われている。
(4)80年代から90年初頭にかけて、市や銀行、所有者が投資目的で転がしていた空き家や空きビルに、住居を失った人たちが住みつき「占拠」した運動。NGOなどが支援し共同体や独自の地域文化をつくったが、多くは強制排除された。中には居住権を獲得しコミュニティ空間になった例もある〔訳注〕
(5) Manissa Maharawal, ≪ Standing Up ≫, dans Occupy ! Scenes from Occupied America, Verso, Londres/New York, 2011
(6) Reference a la manifestation Occupy Our Homes (≪ Occuper nos maisons ≫) du 6 decembre 2011. Lire ≪ La revolte des declasses ≫, Le Monde diplomatique, mai 2012.
(7) Cf. Michael Levitin, ≪ Sending a message : Occupy shuts down ports in Oakland and Pacific Northwest ≫, The Occupied Wall Street Journal, New York, 12 decembre 2011.
(8)「われわれは99%だ」は、「1%の富裕層」に対する「ウォール街を占拠せよ!」運動のスローガン

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年6月号)